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「所在地」:高知県香美市野市町土居
「形 式」:平城
「遺 構」:土塁、石碑
香宗城は日本城郭大系には「香宗我部城」と紹介がありますが、石碑には香宗城とありますので、こちらで紹介しています。石碑は土塁上に設置されており、これ以外に同様の城趾を示す石碑がこの石碑の北に道路に面してありますが、ほぼ並んであるので二つも必要かと・・・・。
香宗城の土塁上には八満宮が祭られています。。この八幡宮が城の北辺とされています。
「歴 史」
長宗我部元親の弟を養子に迎え、元親の四国平定に寄与した、香宗我部氏の本城である。
香美郡宗我郷を本拠に発展した香宗我部氏は、甲斐源氏武田氏の一族に発すると言われる。
秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部し、香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を名乗るようになったのだという。
時代が下り長宗我部元親の父親長宗我部国親の勢力が香宗我部氏の勢力圏に侵出するようになり、香宗我部氏は東の安芸氏からも圧迫を受けるなか香宗我部氏は窮地にたったがこれを打破するため、香宗我部氏は長宗我部国親の三男親泰を養子として迎え、長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げようと企図した。
その後、親泰は兄・元親に従って各地を転戦、兄の四国統一に尽力した。しかし、文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51歳。その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。
香宗城跡は現在、八幡宮の建立されている場所に土塁が残るが、城趾は田畑や住宅化とし、石碑がなければここが城趾だとは想像できない。
「香宗城訪問記」
この城は遺構が魅力というより、長宗我部元親の四国平定を助け、豊臣秀吉に豊臣秀長があるように、長宗我部元親には、香宗我部親泰ありと思える活躍や支えをした香宗我部氏の本城である歴史的魅力が大きい。
城は東に流れる香宗川を外堀とした縄張りであるが、土地の現状をを見ると周りにも小山もなく平野が続いているのでさほど要害とは感じられない。
日本城郭大系には城の周りを家臣の屋敷が取り囲んでいたと思える絵図が掲載されているが、今の平城の大方がそうであるように遺構を見ることは出来ず、住宅地や田畑と化している。
城の南には、香宗我部親泰が菩提寺として建立した宝鏡寺跡(明治4年廃寺)が残り菩提寺跡には香宗我部氏の墓が残る。
城の南には香宗我部氏の菩提寺宝鏡寺跡がある。菩提寺跡には苔むした墓と観音堂が残るのみである。
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元親の片腕となった香宗我部氏はここに住んでいたのですか。川の氾濫で消失したのか、宅地化・耕地化で消失したのか土塁が少しというのは寂しいですね。航空写真を見ると輪郭式の城だったような雰囲気が感じられます。
2009/2/21(土) 午後 4:02 [ あおれんじゃあ ]
もともと同じ一族だったのですね。城址よりも菩提寺の跡が趣ありそうです。土地柄もなかなかの沃野の感じです。元親の親戚にポチ!
2009/2/21(土) 午後 9:07
遠方なので、こういう写真、載せていただいて、本当に、勉強になります。バレンタイン投票、ありがとうございました。
この前、西日本の方が、「多賀城って本当にあるんですね、感激です。」って、おっしゃいましたが、だれもが、遠くの神様に憧れるものです・・・♪。香宗我部氏は、ご存知の通り、春日局の斡旋で、
佐倉城堀田氏に、堀田氏殉死の後、仙台に、幕末後は山形に行ったらしく、なんか、とても、不思議な感じがします。
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2009/2/21(土) 午後 9:21
で、こちらの転載を、お願いします。ポチッ。
2009/2/21(土) 午後 9:22
香宗我部氏って有名な気がしますが・・本城は田畑になってるんですね。
なんかせつない。
2009/2/21(土) 午後 9:47
<あおさん。
おっしゃるとおり輪郭式の縄張りが想像できます。
城郭大系の絵図でも城(土居形式)を取り巻く形で家臣団屋敷があり、家臣団屋敷も取り入れた輪郭式縄張りといえるでしょう。
2009/2/21(土) 午後 11:01
<りゅうしさん。
ポチありがとうございます。
城趾周辺は住宅地や田畑化していますが、菩提寺跡は墓地になっていることもあり、菩提寺の一角でありますがまだ歴史的趣がありますね。
2009/2/21(土) 午後 11:04
<夢うさぎさん。
遠方に出ていないので四国内が紹介の中心になりますが、喜んでもらえると励みになります。
長宗我部元親のブレーン香宗我部泰親の流は確かに江戸期には寺沢家や堀田家の家臣として存続していますね。
転載ももちろんOKです。
2009/2/21(土) 午後 11:19
<フィーゴたかさん。
信長の野望のゲームでも長宗我部軍武将として活躍?する香宗我部親泰の居城ですが、平城の多くがどうしても宅地化や田畑化で消滅して
おり、当城も例に漏れずほとんど消滅してしまっています。
2009/2/21(土) 午後 11:22
春日局で思い出しました。元親の奥さんお登志さんは、明智光秀の家老で豪傑の誉れ高い斎藤内蔵助利三の妹。利三の娘が春日局でしたね?
明智光秀の謀反の一要素に、信長が、元親との約束を破って四国攻めを決めた事に有ったとか、小説の話ですが、あるいは真実かもしれませんね?
2009/2/22(日) 午後 0:10
こんもりした木の下にお墓
雰囲気好きです。
2009/2/22(日) 午後 9:56
紹介ありがとうございます。
今度田舎に帰った時に「香宗我部 親泰墓」とセットで訪問してみます^^
2009/2/23(月) 午後 6:59
<りゅうしさん。
元親と春日局・・・
想像できない縁ですね。
2009/3/1(日) 午後 1:14
<よよさん。
のどかな田舎ですから、こんな景色にしかならないです(笑)
2009/3/1(日) 午後 1:15
<ともひでさん。
特に遺構がすばらしいとかはないですけど、長宗我部氏の四国覇者の道を支えたプレーンですから、一度是非訪れてみて下さい。
2009/3/1(日) 午後 1:18