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「所在地」:愛媛県宇和島市吉田町立間 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、石垣 「城 主」:土居清宗 『この記事は2007年2月の記事「愛媛県:石城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。 「歴 史」
石城は当初西園寺氏の出城として築かれたが最初と考えられている。天文15年西園寺氏の懇請を受けた大森城主土居清宗が入城し城を整備した。 この時期豊後の大友氏が石城を4回ほど攻めているが、土居氏は良く戦い退けた、永禄3年には再び大友氏が石城を攻め土居氏は良く戦ったが落城している。 永禄9年土居清宗の孫土居清良はこの地方を治めることになり、荒廃した石城を再興したが、現在残る遺構はこの時の遺構と見られる。 永禄11年またもや大友勢は石城を攻めるも石城は落ちず、大友勢は退去しているが、これ以降の歴史は記録が残っていない。 「石城訪問記」
石城は伊予吉田藩3万石伊達家の吉田陣屋のすぐ北側にある御殿山の頂上にあります。 比較的石垣や曲輪(採石部分は除くが)などの城郭遺構は良く残っており、永禄年間以降の資料が残っていない状態でありますが、それだけにこれだけの遺構が残っていることを考えると、伊達家が吉田陣屋の背後を守る御殿山の頂にある石城を、吉田陣屋の詰めとして利用価値があるとして良い状態で保存していたと考えるのはちょっと考えすぎでしょうか?ただ規模は小さいので3万石の大名が籠城するのにはちょっと狭い感じですが・・・・・。 歴史欄にも記載しましたが、愛媛の南方面(通称南予)は豊後大友氏からたびたび攻められており、土佐国との国境が近いことも含め、他の地域と違って小豪族同士の戦に備えるだけでない対応が迫られた特殊事情も考慮すると、南予方面の城が意外と要害を備えているのに納得を得る。 PS:国道に面して石城の石碑が建立されているみたいであるが、この訪問時は確認できていません。 「石城への道しるべ」宇和島市内方面から国道56号線を吉田陣屋前(信号有り)を通り越した先に、次の信号(吉田分署があり)を左折。するとトンネルがあるがトンネルを抜けて直ぐの農道を右に。農道の分かれ道を「左」「右」「右」と進む。尾根沿いの農道途中に小山があるがそこは石城の出城の竹城である。、突き当たりまで農道を進み突き当たりから徒歩で進農道を進むと頂が石城本丸である。
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規模はともかく、石垣があるとうれしいですね。
結構、比高があるようですね。大友氏はここにも侵攻したんですね。
2009/4/18(土) 午後 8:46 [ あおれんじゃあ ]
本丸まで時間が掛かるんですかね〜
写真みると結構高そうですね〜
平面図 上手くかけてますよ♪
2009/4/18(土) 午後 10:51
「石城」〜その名前の通り、ちゃんと石垣が残っているのですね^^
私も過去のお城記事が現在の構成と違っているので、リメイク
したいと思っているのです。なんか統一したいなぁ〜と。
2009/4/19(日) 午前 7:00
海を渡ってよくここまで攻めてきましたね。
大友氏
2009/4/19(日) 午前 8:49
<あおさん。
小さいながら石垣が残っているのはうれしいですね。
この山、標高は120m程度で、海沿いですから比高もそれほど変わらないと思います。城の入り口までは車で行けるのでそれほど苦労しませんでした。
大友氏から見れば九州には島津、龍造寺氏、北方面には中国毛利氏がおり勢力を伸ばそうと思えば、矛先が四国に向いたのでしょうね。
2009/4/19(日) 午後 5:34
<おしょうさん。
標高は120m程度ですが、麓から山頂まで農道が通じていますから、車で訪問が可能ですので、たいした時間はかからなかったと記憶しています。
平面図はなんとか慣れれば良いなと思っていますが・・・・・
2009/4/19(日) 午後 5:37
<るなさん。
初期の頃の記事はただ写真を掲載しているだけみたいな記事なので、手直ししたい部分は多々あって、これからちょこちょこ直していこうと思っています。
2009/4/19(日) 午後 5:39
<よよさん。
大友氏から見れば九州より、四国が手っ取り早いと思われたんでしょうね。
2009/4/19(日) 午後 5:42
郭の周囲を丸々石積みが囲っているなんて素晴らしい遺構ですね。
2009/4/19(日) 午後 10:45 [ 山猫 ]
う〜ん、リメイクする気持ち解ります^^
遺構の写真って、何で3Dに写らないんでしょうね〜><
2009/4/20(月) 午後 7:52
かなり実戦を積んだ城のようですね。少しでも
分かりやすくと、平面図を起こしてくれた
四国の城楼さんに感謝 !
2009/4/21(火) 午後 9:51 [ - ]
城郭図上手いもんですよ。ポチ。古い城跡を訪ねると高石垣もうれしいですが、技術のなかった昔に敵を防ごうと低い石垣を何段にも重ねて防御する様は感動を覚えます。
2009/4/22(水) 午前 2:00 [ 高橋 遊 ]
<山猫さん。
かなり藪化していたと思いますが、石垣は特に主郭部ではっきり残っています。車でほとんど行けますので是非訪問してみてください。
2009/4/22(水) 午後 6:46
<マイリバさん。
最初の頃の記事は訪問者も数少く、見て貰うと言うより自分が訪問した城の記録的な感じだったので、ほんと内容がない記事だったのですが、見て貰える人も増え、良かった城の印象のある記事をリメイクして見て貰えたらと思っています。
2009/4/22(水) 午後 6:50
<クロコダイルさん。
ここは実戦経験の多い城ですね。
地理的に湾を押さえる性格もありますから、海から内地に敵が侵攻するの最前線ですから、どうしても実戦経験が増えると思います。
平面図は、ま〜下手ですけど写真と含めて城のイメージをしてもらえたらと思いまして。
2009/4/22(水) 午後 6:57
<高橋 遊さん。
ポチありがとうございます。
帯曲輪とも思えないので、技術的に二段に積んだと思うのですけど、
徳島県内では石垣の城はあまり見ないので、やっぱり石垣が築かれているのはうれしいです。
2009/4/22(水) 午後 7:03
先日立間の同級生から蜂蜜を送ってきましたので、調べているとこの石城にきました。
大友宗麟の娘が五摂家の一つ、土佐の一条家の正室で、そんな所から攻めたのかも知れませんね?
2009/9/8(火) 午前 0:07