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「所在地」:徳島県板野郡藍住町住吉 「形 式」:平城 「遺 構」:なし。城趾案内板。小祠 「歴 史」
城主は山田氏。山田氏は近江国山田の出身で佐々木氏に仕えてきた。 佐々木氏が織田氏に敗れた後、山田氏は阿波の三好氏を頼ってこの地に拠った。住吉城は勝瑞城の落城と運命をともにしたと言われている。 天正13年(1585年)四国征伐の功により赤松則房が住吉を中心にした地域1万石を賜り、住吉城を居城とした。赤松氏は関ヶ原の戦いで西軍につき領地没収となり、この地は徳島藩に組み入れられた。 「住吉城訪問記」
阿波国は秀吉の四国征伐により蜂須賀家政が阿波一国を拝領し、これ以降明治まで蜂須賀家一家による治世が続いたように思われている方もおいでになるやもしれませんが、実際は蜂須賀家は阿波国のほとんどを領していたのですが、阿波国の一部は赤松氏が1万石と、九州で12万石程度を領していた毛利兵橘の飛び地(1000石程度)があったので、この住吉の地は赤松氏が存続すれば蜂須賀家とは別の藩となり徳島県内では唯一の別家による別藩が存在した可能性のある地である。(江戸時代に入り住吉の地と毛利兵橘の飛び地も蜂須賀家に組み入れられ阿波一国を統治した。) このような地ではあるのですが、残念ながら住吉城の遺構は全く残っていない。現在の城趾は中心地は水田や住宅地となり「城神さん」と呼ばれる小祠が安置されているだけである。この祠の北側に赤松屋敷があったと言われるが、その付近も住宅や田となり何も残っていない。 「住吉城への道しるべ」
県道29号線。藍住町と徳島市との境界の交差点にホームセンター「コーナン」があるのでそこ交差点を北に。最初の信号を西に進み、すぐに住吉神社に沿って斜め方向に右に入る。道の突き当たり周辺に住吉城の案内看板が見える。祠は看板横から西に道を進むと畑の中に見える。地図は城神さんの位置を示しています。 |
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「所在地」:香川県木田郡三木町大字上高岡(善光寺) 「形 式」:平城 「遺 構」:なし。城主菩提寺 「歴 史」
城主は安西氏。 安西氏の遠祖は信濃の諏訪氏で、文明元年(1469年)諏訪左近がこの地に来て、安西左近忠澄と名乗った。安西氏は菩提寺として信濃の善光寺にあやかり「善光寺」を建立し菩提寺としたり、一族の守護神として信濃より「諏訪神社」を歓請した。 安西氏は、生駒家に仕えるが、生駒家断絶後は一時浪士となるもその後の松平家に郷侍(禄は10石その後20石)として仕えた。 「三条城訪問記」
三条城を訪問するのに目印として、善光寺が目印になるので畑の中であるがわかりやすいだろうと楽観して訪問したのであるが、この「善光寺」が全く見あたらない。 地図で確認してこの付近であるという場所に来てもお寺らしき建物はなく住宅があるだけで、安西氏が歓請した「諏訪神社」も場所が解ったのに、お寺が見つからない・・・・・ とにかく周辺をグルグルしても見つからない。廃寺になったのだろうかと思っているところで、高台に気になる古い家があったので見てみると墓地らしき物が見える・・・・もしやと思い古い家を訪れてみると実は家だと思っていた建物が「善光寺」で墓地は安西氏の墓所で、敷地には安西氏の歴史を示す石碑も建立されていた。 城跡の場所は、はっきり言い伝わる物はないが三条荒神社周辺に所在していたと言われるが、その場所は背後の山からの裾の先端で、周囲からは一段高くなっている。 「三条城への道しるべ」
三条城は解りにくいので、善光寺の場所を説明。 三木町氷上付近で県道279号線上高岡交差点を南に進む。2個目の四つ角を左折する。(道路に香川用水が沿って通っている。畑の中の道をしばらく走ると右に一段高い台地に古い家に見えるがそれが善光寺である。 |
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「所在地」:徳島県板野郡板野町古城 「形 式」:平城 「遺 構」:なし。城趾石碑。案内看板 「歴 史」
平安時代の末期藤原師光の6男近藤六親家が築城したという。 親家は屋島の合戦に向かう源義経の道案内をして平家滅亡の一助となった人でもある。 その後、赤沢氏が居城とし、勝瑞城の西の守りとして重要な位置を占めるが、天正10年中富川の合戦 (この合戦は「阿波の関ヶ原」とも言われている長宗我部氏と三好氏の合戦です。) で長宗我部元親の兵火にかかり勝瑞城とともに落城した。 「現地案内看板より」 「板西城訪問記」
勝瑞城の西の守りを固める重要な城であった板西城であるが、想像通りの石碑のみの城であった。 その割には町史跡に指定され、入り口の交差点に立派な道しるべ(看板)が設けられているのが腑に落ちないところではあるが、下記に城の地図のリンクを設けているが地名が「古城」で周りには城のあったことを示す「南屋敷」や「城ノ内」、「城ノ西」などの地名や地割りに城の名残が残っている。 「板西城への道しるべ」
県道14号線と県道122号線の交差点を北に入る。しばらく走ると高速道路をくぐる手前に、写真にUPしている看板のある交差点があるので、そこを西に進む。突き当たりのお寺を左折。道に沿って走ると城趾に到着。 |
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「所在地」:香川県仲多度郡まんのう町長尾 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪・櫓台 「歴 史」
応安元年(1363年)北朝方の海崎元高が入城して長尾大隅守と称してから、8代約220年間の居城であった。 長尾氏は細川管領家の家臣として応仁の乱や畿内の戦いにも出陣した。 天正7年(1579)4月長尾高親は長宗我部元親と戦って敗れた。元親は西長尾城を補強して国吉甚左衛門を将とする土佐軍を入れ、長尾氏の将兵を先陣として東讃に進入してこれを征服した。 天正13年(1585)6月元親はこの城に伊予と讃岐の大軍を集めて豊臣軍を迎え撃とうとしたが、阿波での戦いに敗れて秀吉に降伏し、西長尾城は廃城となった。 「現地案内看板より」 「西長尾城訪問記」
西長尾城のあるまんのう町はレオマワールドという遊園地のある街で、遊園地は城山の麓に設けられており、城に向かう途中では家族連れの車と多数すれちがったが、こちらは家族サービスよりも一人山城攻めなのでちょっと肩身が狭い想いもしたが・・・・・・・・ よく利用する道沿いにあり、以前から麓からでもはっきり解る主郭の削平地が魅力的で早く登城したかった城ではあったのだが、登ってみてまず主郭からの見晴らしの良さに思わずシャッターを切った。 主郭は井戸があると日本城郭大系にあったので探してみたが、先客の登山者がいて井戸を探し回る姿は不審者だっただろうが見つからず、日本城郭大系に記載のある井戸跡はどうも埋められているみたいだった。 山頂部分から尾根伝いに曲輪跡が確認でき、櫓台と言われる高台も確認できたが、尾根を通る林道があり、その整備のためにかなり尾根部分は改変されているみたいで、土橋や土塁は確認できなかった。 時間もあったので林道を歩いて隣の猫山も登ってみたが、これは図に乗りすぎで近そうに見えて非常に遠く、体力を消耗しすぎてこの後もう1城予定していたのだが諦めて帰りましたよ。 「西長尾城への道しるべ」
国道32号と国道438線の交差点(岡田交差点)を南に進む。しばらく走るとレオマワールド入り口の看板のある信号があるので、レオマワールド側に進む。 遊園地の敷地が近づいてくると右にセメント舗装された山に進む道があるがこれが登城路で、途中は緑地公園などがあるが、訪問時は冬期のためか閉鎖中で、入り口もチェーンで車進入禁止になっている。 これが解除されたとすれば、車で9合目くらいまで進める。この車道が尾根まで続き林道となる。 車道の途中に城の案内看板がありそこからは歩きで登城となるが、林道まで進めば櫓台まで車で行ける。 |
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「所在地」:徳島県吉野川市山川町井上 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪・井戸・城主墓所 「歴 史」
この台地に細川常有が築城したのは、宝徳3年(1451年)の事で、川田城と称した。常有の曽孫元常の時代、代官谷右馬助が背いたので土肥綱真にこれを討たせ、丹治常直を代官に、綱真を留守居として城を守らせた。 その後、三好氏の京都進攻のため細川氏は衰退し、元常は本領和泉の国を失い領地川田和泉屋形に幽居し、天文23年(1554年)に没した。川田城は領主を失い、永禄年間(1558〜1569)綱真の子孫土肥紀伊守庸吉は丹治常直を殺し、この城に拠って井上城と称した。 「現地案内看板より」 天正10年城は長宗我部元親に攻められ落城している。 「井上城訪問記」
井上城のある地は、川田川に沿って田畑が作られ昔は「川田3千石」と言われる穀倉地帯であり、城趾も現在は田畑化されている。 台地状の地形は周りの土地より一段高いが、寄せ手をは阻む絶壁までとは感じなかった。背後の山と全面の川に挟まれた地形がミックスされて城の防御性を高めている。 この城は背後の山に曲輪や詰めを配した山城で、台地状の場所には居館が設けられ里城であったと想像できる。 「井上城への道しるべ」
国道192号線から吉野川市山川支所方面に交差点を南下。庁舎を過ぎてしばらく南に進むとヘアサロンが有るTの字の交差点があるので、そこを右折。川田川を渡り電気屋のある四つ角の交差点を狭いがそのまま直進する。すると畑の中に一段高い台地が見えるがそこが城趾。 |





