四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

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2007年6月UPの「香川県:勝賀城」の記事をリメイクしました。

ここは讃岐に君臨した細川四天王の一人香西氏の本城として栄えた城です。

高知県:雪ヶ峰城

「所在地」:高知県香美市土佐山田町楠目
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、堀切

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雪ヶ峰城の背後を守る深い堀切。城は背後の山から続く尾根の先端に築かれている。


「歴 史」
 この付近に位置する山田氏の居城山田城の支城として東の守りを固めていた。
この城の最後の城主山田監物長秀は、天正18年(1549年)頃山田城を攻撃した長宗我部軍の勇将江村小備後と戦って討ち死にした。
 城跡には東西11m、南北28mの詰の段(本丸)をはじめ、二の段、三の段等がよく残っており、北側に連なる尾根を断ち切って造られた深い空堀もある。
 「現地説明版より」

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主郭の一部は現在「轟神社」となっている。上記の写真の堀切は神社背後にある。


「雪ヶ峰城訪問記」
 雪ヶ峰城は城の東岸を物部川が側面を流れ川に向かって山は切り立っておりこの方向からの攻撃は不能であり、背後の山はなだらかなながらも、尾根を深い堀切で断ち切る事で背後からの攻撃に備え、西側は今は畑となっているが、当時は谷であったことが想定され自然地形を巧みに取り入れた小さい城ながら要害の城である。
 この地は、物部川にそって山中に続く国道に面し、この城のある地から道は四方に伸び国道を西に進むと土佐山田町の市街地となり、この地が交通の要地であったことがうかがえ交通の要所を押さえる支城の役割がうかがえられる。
 遺構面では主郭の背後を守る深い堀切がよく残るが、郭部は一部が轟神社に利用されているが要地は狭く、神社以外の用地は管理の手が入っていないので現地尾案内板に三段の郭が残っているようにあるが、郭は藪がひどく立ち入ることが出来ず全く確認が出来なかった。

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城の登り口には轟神社の鳥居が見られる。登城路入り口には城址の案内板が設置されている。

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「雪ヶ峰城への道しるべ」

R195号を土佐山田の市街地を抜け東に進むと、物部川に架かる香我実橋と国道との交差点が城址への登城路のある場所である。(写真3の場所)
神社の鳥居をくぐって道を進むと轟神社に出る。

徳島県:細川頼春墓

「細川頼春墓」


「細川頼春」
細川 頼春(ほそかわ よりはる)
1304年(嘉元2年)? - 1352年4月5日(正平7年/文和元年閏2月20日))
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流 細川氏。父は細川公頼。兄弟に細川和氏、細川師氏。妻に里沢禅尼ほか。子に細川頼之、細川頼有、細川頼元、細川詮春、細川満之。名は源九郎。蔵人、刑部大輔、讃岐守、官位は従四位下。生年は1299年(正安元年)とも。

鎌倉時代後期の1333年(元弘3)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、細川氏は足利尊氏の挙兵に参加している。建武の新政において蔵人となる。中先代の乱を契機に尊氏が建武政権から離反すると細川氏も従い、九州へ落ちる際には四国へ分遣される。細川氏は四国を平定して湊川の戦いなどで戦い、頼春は京都内野での戦いや、南北朝成立後には斯波高経らに従い北陸落ちした南朝の新田義貞攻めなどに従軍する。

足利氏の武家政権においては1338年に阿波国、備後国の守護となり、鎌倉時代には守護であった小笠原氏を傘下に治める。さらに南朝の脇屋義助の死に乗じて伊予国(愛媛県)へ進攻して大館氏らを駆逐し、伊予の豪族であった河野氏と対立する。のちに足利政権において尊氏の弟である足利直義と尊氏、執事の高師直との対立から内紛に発展した観応の擾乱が起こると頼春は師直派に属し、直義派であった斯波高経から越前国の守護職を奪取する。そのため斯波氏と対立するようになり、この対立は後に管領となる子の頼之の代にまで影響する。

頼春はこの頃九州で反乱した尊氏の子で直義派の足利直冬の討伐に従軍し、師直がクーデターで直義を失脚させると従兄弟の顕氏が出奔したために追討に向かう。直義が南朝に属して軍事的優位に立つと、頼春は対抗のために分国の阿波国へ下り、紀伊水軍の安宅氏を地頭職に任じるなど国人の被官化を行うが、一宮氏など小笠原氏一族の反抗にあい、南朝方に与した小笠原氏との対立は子の頼之の代まで続いた。1352年に 南朝の楠木正儀、北畠顕能、千種顕経らが京都へ攻勢をかけると頼春は尊氏の子の足利義詮を守り、七条大宮付近で戦死する、享年49、もしくは54。

「内容は Wikipedia より抜粋」

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細川頼春は鳴門市の光勝院に眠っています。子の細川頼之が、貞治二年(1263)に、父頼春の遺骸を収めて帰り、後に、細川詮春により、現在の大麻町萩原に移転した。

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墓の正面には戒名「光勝院殿前讃州太守祐繁賓測大居士」とかかれています。側面には「清和天皇16代后胤細川刑部大輔守源朝臣頼春と書かれています。



細川頼春墓

鳴門市大麻町萩原の光勝院にあります。墓は境内ではなく寺の西側の斜面にあります。石段を登ると墓所です。

徳島県:伊沢城

「所在地」:徳島県阿波市阿波町岡地(蛭田池)
「形 式」:平城
「遺 構」:曲輪、堀、城主居館

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伊沢城址を示す石碑が蛭田池の南岸に建立されている。


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蛭田池の西岸が伊沢城址である。


「歴 史」
 城主は伊沢氏。城の歴史は古く、初代城主の伊沢家景は源頼朝に従い、文治5年(1189年)奥州の藤原泰衡征討で戦功を立て、頼朝よいこの付近一帯の領有を認められ名を地名から伊沢と称した。
 伊沢氏はその後代々この付近を領してきたが15代伊沢綱俊の時代に長宗我部氏の侵攻により伊沢城は落城した。
 秀吉の四国征伐により長宗我部氏は阿波をさり蜂須賀家政が阿波を領することになったが、しばらくは阿波は土豪による一揆が多発し、その鎮圧に伊沢綱俊は尽力し蜂須賀家によりの与頭庄屋に任ぜられ、代々その職を次いだ。子孫は現在に至っています。

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伊沢城址の西を守る深い谷は鎌倉堀と呼ばれている。


「伊沢城訪問記」
 伊沢城は日本城郭大系には平城と紹介があるが、この地は阿讃山脈麓からから吉野川に向けてなだらかに下る稜線のなかにあり、城のある地はちょうど台地状の地形をなしている。
 城の西には伊沢谷川、城の東にはを大久保谷川、城の南には大河吉野川が流れ、台上の地形と三方を川に囲まれ以外と要害の地である。
 城地は現在市営住宅地や田畑となり明確な遺構は確認できなかったが、城の西を守った鎌倉堀と呼ばれる浸食された谷や、城主居館と思われる高台や城主を祀ったと言われる神社などに城の面影を感じる場所である。

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場所からするとこの高台の場所が城主居館跡と思われる。城主の居館は「鎌倉泉」と呼ばれている。鎌倉堀や鎌倉泉など鎌倉の名はこの地を源頼朝より拝領したことにより名付けられた。


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鎌倉堀の脇には城址の歴史を記した案内板が建てられているが、一部劣化で可読出来ない行もあります。


「伊沢城への道しるべ」

阿波市役所の東を通る県道を南下すると城の東を守った蛭田池脇に出ます。脇に神社があり神社に駐車可能です。

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