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2007年3月UPの「愛媛県:荏原城」の記事をリメイクしました。 この城は市街地の中の平城でありますが、土塁、水堀がほぼ完存と思える城趾です。 |
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2007年3月UPの「徳島県:重清城」の記事をリメイクしました。 この城はブログの表示画像に使用している城郭で、せっかく名前代わりで使っている城郭なので、記事をリメイクしてみました。 |
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「所在地」:愛媛県宇和島市吉田町立間 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、石垣 「城 主」:土居清宗 『この記事は2007年2月の記事「愛媛県:石城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。 「歴 史」
石城は当初西園寺氏の出城として築かれたが最初と考えられている。天文15年西園寺氏の懇請を受けた大森城主土居清宗が入城し城を整備した。 この時期豊後の大友氏が石城を4回ほど攻めているが、土居氏は良く戦い退けた、永禄3年には再び大友氏が石城を攻め土居氏は良く戦ったが落城している。 永禄9年土居清宗の孫土居清良はこの地方を治めることになり、荒廃した石城を再興したが、現在残る遺構はこの時の遺構と見られる。 永禄11年またもや大友勢は石城を攻めるも石城は落ちず、大友勢は退去しているが、これ以降の歴史は記録が残っていない。 「石城訪問記」
石城は伊予吉田藩3万石伊達家の吉田陣屋のすぐ北側にある御殿山の頂上にあります。 比較的石垣や曲輪(採石部分は除くが)などの城郭遺構は良く残っており、永禄年間以降の資料が残っていない状態でありますが、それだけにこれだけの遺構が残っていることを考えると、伊達家が吉田陣屋の背後を守る御殿山の頂にある石城を、吉田陣屋の詰めとして利用価値があるとして良い状態で保存していたと考えるのはちょっと考えすぎでしょうか?ただ規模は小さいので3万石の大名が籠城するのにはちょっと狭い感じですが・・・・・。 歴史欄にも記載しましたが、愛媛の南方面(通称南予)は豊後大友氏からたびたび攻められており、土佐国との国境が近いことも含め、他の地域と違って小豪族同士の戦に備えるだけでない対応が迫られた特殊事情も考慮すると、南予方面の城が意外と要害を備えているのに納得を得る。 PS:国道に面して石城の石碑が建立されているみたいであるが、この訪問時は確認できていません。 「石城への道しるべ」宇和島市内方面から国道56号線を吉田陣屋前(信号有り)を通り越した先に、次の信号(吉田分署があり)を左折。するとトンネルがあるがトンネルを抜けて直ぐの農道を右に。農道の分かれ道を「左」「右」「右」と進む。尾根沿いの農道途中に小山があるがそこは石城の出城の竹城である。、突き当たりまで農道を進み突き当たりから徒歩で進農道を進むと頂が石城本丸である。
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「所在地」:徳島県三好市池田町白地 「形 式」:平城(土居) 「遺 構」:土塁(虎口)、石垣 花駒屋敷の平面図ですが描いてみました。描いてみましたと言ってもね〜。これでは・・・って感じですがなんとなく写真のみでは伝わらないイメージをつかんでもらえたらって感じです。あおれんじゃーさんみたいな見事な鳥瞰図は描けませんからからこれでご勘弁を。「歴 史」
白地城 主の大西氏の家老花駒弾正の館。この館は特に北方面、西方面に点在する各支城から白地城への最後の中継地点として非常に重要な位置にあった。 長宗我部氏の時代になってもこの館は長宗我部氏家臣の屋敷として利用されたと伝わる。 「花駒屋敷訪問記」
花駒屋敷のある地は、吉野川、馬路川の合流地点にあり川に向かっては険しい崖となっており、こちら方面からの攻撃は不可能である。 今、この地を見ると広大な城域が確保できるスペースはないが、西方面と北方面への展望に難がある白地城の出城として各支城との貴重な中継点であったことは、容易にうかがえる地形である。 |



