四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

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2007年3月UPの「愛媛県:荏原城」の記事をリメイクしました。

この城は市街地の中の平城でありますが、土塁、水堀がほぼ完存と思える城趾です。

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2007年3月UPの「徳島県:重清城」の記事をリメイクしました。

この城はブログの表示画像に使用している城郭で、せっかく名前代わりで使っている城郭なので、記事をリメイクしてみました。

徳島県:加茂野宮城

「所在地」:徳島県三好市三野町加茂野宮
「形 式」:平城
「遺 構」:なし。

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加茂野宮城現状。写真中央に田畑の中に垣根が見られる場所が城趾。田畑化され遺構は全くない。


「歴 史」
 この城は平敦盛の後胤「平貞国」の嫡子安芸守が城主と伝わる。築城は平安時代後期と言われる。
平家方の武将が城主を務めたと思うが、歴史的資料が乏しく伝説も伝わらない。
 推測として、鎌倉時代(1267年)に阿波の守護として小笠原氏が赴任し周辺の平盛隆を滅ぼした記録があるので、平家方であったこの城の城主も制圧されたと推測される。

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城趾(主郭部か?)には木が植栽されている。また現地には城趾を示す標柱が建立されていた。


「加茂野宮城訪問記」
 田畑化され全く遺構は見られない城趾。
ま〜何もない城ですが、このような無名城を訪問して日の目を当てる(大げさか・・・(^o^))自己満足ですがね・・・・
歴史的資料も乏しく鎌倉時代以降の歴史も資料には記載されておらず、早くから廃城となり放置されたのではないかと思える。
 城趾は平成の初めの頃までは「戎塚」と呼ばれる木々が茂った塚で、取り壊され現在のようになったらしい。明治には加茂野宮小学校がこの地にあった。
 垣根内には戎神社と、田村左近守利春の記念碑が建立されているが、田村左近守利春が何者かは資料がないのでわかりません。

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敷地内。向かって左側が田村左近守利春記念碑、右側が戎神社が建立されている。


「加茂野宮城への道しるべ」

県道12号(通称鳴池線)を美馬市と三好市の境界付近から西に向かうと清水地区を示す案内看板が建立されているが、下記の写真に示す清水(南)と清水(西)を示す看板の三叉路を北(清水西側)に入る。
Yの字を左に入り、左に見える垣根手前の三叉路を右に行くと城趾。

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入り口に看板以外の目印がありませんが、田畑の中に垣根が見えるの県道からでも城趾は目に付きます。


愛媛県:石城

「所在地」:愛媛県宇和島市吉田町立間
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、石垣
「城 主」:土居清宗

『この記事は2007年2月の記事「愛媛県:石城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。

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またまた超初心者平面図です。(鳥瞰図はなかなか難しいです)現地訪問時期がちょっと昔なので明確な縄張りを覚えていないので、わずかな記憶を元にし日本城郭大系掲載の絵図も参考にして描いてます。


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石城本丸の石垣です。高石垣を築くのではなく低い石垣が二段築かれています。


「歴 史」
 石城は当初西園寺氏の出城として築かれたが最初と考えられている。天文15年西園寺氏の懇請を受けた大森城主土居清宗が入城し城を整備した。
 この時期豊後の大友氏が石城を4回ほど攻めているが、土居氏は良く戦い退けた、永禄3年には再び大友氏が石城を攻め土居氏は良く戦ったが落城している。
 永禄9年土居清宗の孫土居清良はこの地方を治めることになり、荒廃した石城を再興したが、現在残る遺構はこの時の遺構と見られる。
 永禄11年またもや大友勢は石城を攻めるも石城は落ちず、大友勢は退去しているが、これ以降の歴史は記録が残っていない。

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主郭部の石垣であるが、この当時の写真はただ明確な遺構の写真を撮っているだけで同じような写真ばかりです。

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「石城訪問記」
 石城は伊予吉田藩3万石伊達家の吉田陣屋のすぐ北側にある御殿山の頂上にあります。
比較的石垣や曲輪(採石部分は除くが)などの城郭遺構は良く残っており、永禄年間以降の資料が残っていない状態でありますが、それだけにこれだけの遺構が残っていることを考えると、伊達家が吉田陣屋の背後を守る御殿山の頂にある石城を、吉田陣屋の詰めとして利用価値があるとして良い状態で保存していたと考えるのはちょっと考えすぎでしょうか?ただ規模は小さいので3万石の大名が籠城するのにはちょっと狭い感じですが・・・・・。
 歴史欄にも記載しましたが、愛媛の南方面(通称南予)は豊後大友氏からたびたび攻められており、土佐国との国境が近いことも含め、他の地域と違って小豪族同士の戦に備えるだけでない対応が迫られた特殊事情も考慮すると、南予方面の城が意外と要害を備えているのに納得を得る。
PS:国道に面して石城の石碑が建立されているみたいであるが、この訪問時は確認できていません。

石城の三の丸を望む。石城の現状は主郭部は藪化していますが二の丸、三の丸は田畑化しています。写真の右側に写るあぜ道が車止めからの登城路です。

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「石城への道しるべ」

宇和島市内方面から国道56号線を吉田陣屋前(信号有り)を通り越した先に、次の信号(吉田分署があり)を左折。するとトンネルがあるがトンネルを抜けて直ぐの農道を右に。農道の分かれ道を「左」「右」「右」と進む。尾根沿いの農道途中に小山があるがそこは石城の出城の竹城である。、突き当たりまで農道を進み突き当たりから徒歩で進農道を進むと頂が石城本丸である。

徳島県:花駒屋敷

「所在地」:徳島県三好市池田町白地
「形 式」:平城(土居)
「遺 構」:土塁(虎口)、石垣

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花駒屋敷の平面図ですが描いてみました。描いてみましたと言ってもね〜。これでは・・・って感じですがなんとなく写真のみでは伝わらないイメージをつかんでもらえたらって感じです。あおれんじゃーさんみたいな見事な鳥瞰図は描けませんからからこれでご勘弁を。


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花駒屋敷遠景。この付近は吉野川と馬路川の合流点で吉野川は現在池田ダム湖となっており、現地は湖にせり出した半島のようになっている。画像クリックで拡大します。


「歴 史」
 白地城 主の大西氏の家老花駒弾正の館。この館は特に北方面、西方面に点在する各支城から白地城への最後の中継地点として非常に重要な位置にあった。
 長宗我部氏の時代になってもこの館は長宗我部氏家臣の屋敷として利用されたと伝わる。

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花駒屋敷は現在住吉公園として整備され、園内には忠魂の碑、住吉神社が建立されており、訪問時は桜の時期で桜が満開で出迎えてくれた。画像クリックで拡大します。


「花駒屋敷訪問記」
 花駒屋敷のある地は、吉野川、馬路川の合流地点にあり川に向かっては険しい崖となっており、こちら方面からの攻撃は不可能である。
 今、この地を見ると広大な城域が確保できるスペースはないが、西方面と北方面への展望に難がある白地城の出城として各支城との貴重な中継点であったことは、容易にうかがえる地形である。

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半島の尾根先端に位置する場所には石垣が築かれている。この石垣は館地を確保するための平地を得るための物と思うが、当時からの物なのかははっきりしない。


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北側には虎口の遺構が残る。虎口には土塁と、土塁の腰回りには石垣が用いられている。

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花駒屋敷を西方面からから望む。西方面の斜面は整地されているが険しく切り立っている。


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花駒屋敷から白地城を望む。白地城は馬路川を挟んだ対岸にある。


「花駒屋敷への道しるべ」

R32号に架かる池田大橋を西に渡り、愛媛方面にR192号線を進み二個目の信号(三叉路)を右折。道なりに北に進むと道がヘアピンカーブする場所が住吉公園(花駒屋敷)となる。


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