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「所在地」:愛媛県新居浜市金子 「形 式」:山城 「遺 構」:なし。城趾石碑。 「歴 史」
城主は金子氏。築城時期ははっきりしない。 金子氏は高峠城主石川氏の麾下で、天正期時の城主金子元宅は、当時8歳であった高峠城主石川虎竹丸の後見を務めこの地方の実権を握った。 天正13年豊臣秀吉の四国征伐の折、毛利軍(小早川隆景、吉川元長)が愛媛を攻めたが、この地方の武将は金子元宅を総大将に新居浜市の隣町である西条市の高尾城に立て籠もった。このことで金子氏の金子山城には若干の留守兵が残っているに過ぎなかった。 高尾城の戦いは圧倒的な毛利軍を前に籠城側は良く戦ったが、豊臣軍の大軍を前に金子元宅は西条市の野々市で討ち死にし、生き残った元宅弟八郎や残党が金子山城に立て籠もって最後の一戦を望んだが金子山城は落城した。 「金子山城訪問記」
金子山城を始め愛媛県の諸城は豊臣秀吉の四国征伐の際は戦略上大きな犠牲を払った戦いが起こっている。この戦略は愛媛県の諸城は徹底的に抗戦して秀吉軍を悩ませ「長宗我部軍恐るべし」を秀吉軍に与えることで和議を長宗我部軍に少しでも優位になるような戦略で、(長宗我部氏は愛媛のみ没収で、阿波・讃岐・土佐の維持を目指したと言われる)ようは長宗我部氏にとって捨て石であり、捨て石と知りながら戦い散っていった武将の哀れさが漂う城なのである。 現在の金子山城はこのような激戦があったことは感じさせない。ようは公園として平和的に整備され麓の親水公園も家族連れが楽しい時間を過ごしていたが、この親水公園内には豊臣軍が金子山城を攻めたときの陣跡を示す石碑も建立されており、ここで捨て石として散っていった悲しい戦があったことを楽しく遊んである家族越しに見ると、時代の流れを感じずには居られない。 「金子山城への道しるべ」
R11号線。新居浜市「西之端」交差点を北上する。道なりにしばらく進むと「滝宮公園入り口」の交差点があるので西に進む。山頂駐車場まで車で進める。駐車場から徒歩で北に進むと城趾。 |
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2008年12月30日
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