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「香宗我部 親泰墓」
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)は、長宗我部元親の弟。子に香宗我部親氏・貞親がいる。 天文3年(1543年)、長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の三男として生まれる。幼名は弥七郎。 弘治4年(1558年)に父の命によって香宗我部親秀の養子となった。永禄12年(1569年)に安芸城主となる。その後は兄・元親に従って各地を転戦、天正10年(1582年)の中富川の戦いで十河存保を破り、天正11年(1583年)には木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した。また、外交にも秀でており、天正3年(1575年)に長宗我部信親の烏帽子親を織田信長が務め、以後織田氏と同盟を結んだこと、信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものとされる。 しかし天正20年(1592年)、文禄の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死、自身も朝鮮半島に赴く途上の文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51。跡は次男・貞親が継いだ。吉良親貞同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。 ・・・Wikipediaより・・・ 「香宗我部 親氏墓」
香宗我部 親氏(こうそかべ ちかうじ、元亀3年(1572年)- 文禄元年(1592年))は、安土桃山時代の武将。香宗我部親泰の嫡男。幼名は千菊丸。通称は左近・弥七郎。 長宗我部元親の甥に当たる。当時、長宗我部氏は元親の嫡男・信親が戦死し、その後継者問題によって一族の主だった者が粛清されており、既に老齢であった元親・親泰兄弟や幼少である後継者・盛親の代理を親氏が行うことが多かった。 朝鮮出兵でも元親の代理で出陣して熊川の海戦で李舜臣ら朝鮮海軍と交戦するも、間もなく21歳の若さで病死した。 ・・・Wikipediaより・・・ この香宗我部親子の墓は菩提寺宝鏡寺跡にあります。場所は「高知県:香宗城」の記事を参照下さい。
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2009年02月21日
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