四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

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「所在地」:徳島県美馬市脇町大字脇町
「形 式」:平城(里城)
「遺 構」:水堀、土居、菩提寺、城主墓

『この記事は2007年12月の記事「徳島県:脇城」のリメイク版です。』
以前の記事では山城部と里城部を一連として記載していましたが、再訪問により山城部の井戸とか、空堀、里城部の堀跡などの確認が出来たため、前記事と重複するところはありますが再度記事として紹介します。

  脇城里城は脇城の築かれている虎伏山の山麓部にあります。
里城部は住宅地や田畑化していますが、地割りや屋敷神、城主菩提寺、城主墓が残り、遺構では水堀跡、屋敷の土居の一部など確認が出来る。

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里城想定区域の最南端には稲田家屋敷内にあった屋敷神が「脇人社」として残る。脇人社は通称『脇人はん』と呼ばれ、秋には盛大に祭りが催される。 脇人社には県道から真っ直ぐ延びる道があるが、この道が当時の大手道かもしれません。

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脇人社の周りには里城を守ったであろう水堀跡が残る。水堀跡は今は水路としてコンクリで固められているが、屋敷の東側を取り囲むように良く残っている。


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里城山麓部付近には土居囲いの一部が残っている。写真では確認しづらいと思いますが、土居の下部には石垣が築かれています。また現在屋敷部分は田畑化していますが、地割りは良く残っているように思え、屋敷の大きさなどが推定できます。

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「脇城主稲田家菩提寺『貞真寺』」
 慶長年間、脇城代稲田種元が、その母貞真尼のため創立し、以後稲田家の菩提寺としましたが、元和元年稲田家は淡路城代に転出したため後世の墓はなく種元夫妻と母の墓があるだけです。
 貞真寺には稲田宗心画像、大般若経(手書き6百巻)、過去帳など多くの貴重な文化財がありましたが、昭和30年3月の大火により山門を残して全て消失してしまいました。
 山門は創立当時の物で規模は小さいながら正面は空破風造りであり、両側には翼門を設けて全体が朱塗りとなっています。桃山時代風建築として知られています。
「現地案内板より抜粋」

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貞真寺に残る山門。一部は劣化が見られるので貴重な文化財として整備が求められる。


「脇城主稲田家墓所」
 稲田種元(宗心)の父貞佑は法号を「正覚院殿照屋宗寿大禅定門」、室(妻)は「大操院殿実山貞真大姉」と称す。
 貞佑には、景元・景継・種元・良勝の男子あり。景元は父に殉死し、景継は討ち死にし、種元は天正13年稲田家初代の脇城代となる。
 墓所には稲田種元夫婦、種元の父である貞祐夫婦、種元の兄である景元・景継が眠る。 
「現地案内板より抜粋・・一部加工」

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貞真寺内の墓所には種元一族の墓が残るが、訪問時は門の扉が閉まっていたので内部には入れませんでした。(再訪問時には門が開いており、中も見られましたが写真を取り忘れていました。)

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「脇城里城部の場所」


「所在地」:徳島県美馬市脇町大字脇町
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、空堀

『この記事は2007年12月の記事「徳島県:脇城」のリメイク版です。』
以前の記事では山城部と里城部を一連として記載していましたが、再訪問により山城部の井戸とか、空堀、里城部の堀跡などの確認が出来たため、前記事と重複するところはありますが再度記事として紹介します。

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脇城が築かれてる場所は、台地状の山の先端に築かれている。その形状から古くは虎伏山とよばれ、したがって脇城は一名虎伏城とも呼ばれる。


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上記の写真で山の先端の頂部の右側に一段低くなっている部分があるが、そこは巨大な堀切(通称大堀)が存在する。ただし40mを超えるその堀切は今は竹藪化している。堀切部には土橋が残っている。

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「歴 史」
 脇城は戦国期のはじめ脇権守という人物が館を構えたと言われる。後の天文2年三好長慶が城を築き三河守兼則に守らせた。
 弘治2年(1556)3月三好長慶によって、武田上野介信顕が大和から脇城に入城した。武田大膳大夫信虎の庶子で、有名な武田信玄の異母弟であった。
 天正6年(1578)信顕は岩倉城主三好式部少輔とともに、一度は土佐の長宗我部元親に降るが、天正9年三好氏の説得によって、元親と縁を断った。
 同10年8月、長宗我部親吉の率いる3000名の土佐勢は、脇城へ押しよせた。城兵はよく防ぎ容易に抜くことはできなかったが、8月22日脇城は落城した。
 この時、城主信顕は、讃岐に逃げたが、東かがわ市白鳥附近で敵に捕捉されて戦死した。遺体は東かがわ市東照寺に葬られた。信顕の長男信定(16才)は落城の際捕えられて自殺した。のち脇人神社にまつられた。
 天正期には長宗我部氏の手に落ちるが、豊臣秀吉の四国征伐の折秀次を主将に蜂須賀家政を先鋒にした約3万の兵に岩倉城とともに包囲され長宗我部軍は降伏し開城した。
 その後阿波に入った蜂須賀家政は家老稲田種元に1万石を与え脇城主とした。脇城は阿波9城の一つとして兵500名で守らせた。稲田氏は江戸期淡路で4000石を加増され洲本城代となり、脇城は一国一城令によって寛永15年に廃城となった。
 脇城下はその後も郷町として西阿波の中心地として栄え、街角は「うだつの町並み」として城下町の面影を残している。

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巨大な堀切(大堀)とともに主郭部を守る堀切(通称小堀)。堀切の底部から堀切の土塁上の頂部までは4mを超える高さがある。


「脇城訪問記」
 脇城は近世は阿波9城の一つとして蜂須賀家の筆頭家老稲田種元が1万石を与えられ脇城主となったことで、整備されたであろう城趾は歴史案内看板もなく鬱蒼とした竹藪の中に、ひっそりと存在する。
 城趾はとにかく藪・・藪・・藪・・・・ただし主郭部を守る大堀までは林道が延びているのでなんとか到達できるが、それから先は藪の中をさまよう。
 井戸を探しているときは藪の中、目の前に急に井戸が現れるのでちょっと危険な思い(井戸に転落する。井戸の周りもブッシュがある。)をするかもしれないので日本城郭大系に掲載されている実測図を参考にして探索することをお勧めします。そうしないと本当に落ちます。・・・・・

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主郭に残る大井戸。長径2,5メートル、地面より水面までの深さ3メートル以上水深1m以上ある。これが目の前に急に現れるので足下には重々注意されたほうが良いです。


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曲輪を守る土塁部であるが、底部には石垣が見られる。しかし城趾主郭部周辺は全体がこんな感じの藪です。


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主郭から連なる曲輪部を守る堀切と思われる遺構。今は通路となっている。



「脇城山城部の場所」

脇城へは県道12号線から四電工脇町営業所前から北に延びる市道に入り、路地を右折すると左に貞真寺山門が見える。貞真寺横に「秋葉神社」があり神社前から山に伸びるセメント舗装された狭い道(小型車なら通行可能)があるがそれを登る。
登り切った辺りで道は大きくヘアピンカーブするが、カーブ手前から農地へと伸びる農道が左に見えるのでその農道に入りとそこからら城跡と思われる遺構が続く。奥に向け農道がかろうじてあり主郭手前の空堀までは農道が続いているが確認できる歩道も掃滅寸前である。

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