四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

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愛媛県:金山城

「所在地」:愛媛県宇和島市三間町戸雁
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、堀切、武者走り、狼煙場
「城 主」:今城兵庫頭能信

『この記事は2007年2月の記事「愛媛県:金山城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。

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金山城への登城路を進むと空堀跡の看板が出迎えてくれますが、現在はかなり埋まっています。ただ切岸の登りの斜面はきつく、斜面上から下がっているロープを握っての登りとなります。


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金山城への登城路を進むと最初に武者走りが出迎えてくれます。武者走り手前には堀切の遺構があるのですが、ほとんど埋まっており注意していないと見過ごしてしまいます。


「歴 史」
 永禄・天正(1558〜1591)の昔、標高287mの金山に拠る本城は、険峻攻守を兼備した成妙郷の要衝であった。
 城館の構式は複郭で十郭からなり、堀切・土塁を有し、縄張りは長さ200m幅100mの規模である。山頂一帯は削り取った平地で、その下段は急勾配である。中央部に本丸のやや高い段があり、その周辺に台石や石垣らしい石が点在している。径3mのくぼみは池か井戸かとも思われ、住時のたたずまいが佛々とする。
 能信は、成妙郷9ヶ村4千7百石余りを所領し、宇和郡西園寺殿の旗下14将の一人今城肥後守能親の嫡子である。時恰も風雲急を告げ、土佐一条・長宗我部および豊後大友勢の侵略するところとなり、三間郷の雄将土居清良と同心一体で戦陣を馳せ、戦乱動乱期にいける能信の軍功は清良記に語って余さない。
「現地案内看板より抜粋。撰文はご子孫と思われる宇和島市在住の今城宇佐男氏による。」

イメージ 2

山頂削平地には土塁と狼煙場跡の案内があった。狼煙場跡からの見晴らしはよく三間郷に点在する城と連携していたことが容易に想像できる。


イメージ 3

山頂から西に延びる尾根沿いにはやっぱりという感じで堀切が設けられていました。


「金山城訪問記」
 金山城は宇和島市立成妙小学校の裏山にあります。
成妙小学校の児童が総合学習の時間に「金山城に学ぼう」と称し郷土の歴史を学習しているそうで、登城路には児童による案内看板が設置されています。
 城趾は山頂部は城主の慰霊碑や歴史の案内板が建立され、遺構の案内などの立て看板もありますが、全体としては木々が茂り古城の雰囲気は漂っております。
 また、能信の父である今城肥後守能親は文武に長じ、歌詠みの名人であり、天文6年に「大神宮法楽伊予千句」を京都で興行した風流武将で、この連歌の巻頭発句に「梅」と記名があるのは時の関白「近衛種家」で、中央から離れた四国のさらに奥のこの地で、一小領主が一流の文化人と交流があり、文化の花を咲かせていたことを考えると、遺構のすばらしさと相まって、感慨深いものがあります。

イメージ 4

山頂付近の遺構には立て看板が設置され、初心者にもわかりやすくなっています。写真は井戸跡と思われる場所です。


イメージ 5

山頂主郭の削平地。


イメージ 6

山頂周辺の三の丸跡から主郭を望む。主郭は一段高くなっていますが、段差の一部には石垣と思われる遺構も確認できました。



「金山城への道しるべ」

宇和島市立成妙小学校の裏山にあります。小学校背後には城趾の案内看板が設置されています。
城趾には小学校背後に砂防ダムが見えるのですが、砂防ダムの右側の脇から山道を登っていくと城趾に到着します。登城路は約640mあります。

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