四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

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2009年03月

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徳島県:西条東城

「所在地」:徳島県阿波市吉野町西条
「形 式」:平城
「遺 構」:石碑、井戸?、天守台?

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西条東城跡は田畑や住宅地とかし昔の面影は残っていない。竹藪や住宅とかしている場所が城跡の主要部。写真撮影した足下には水路が流れているが、もしかしたらこれも城の遺構跡かもしれません。


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西条東城を示す石碑であるがこれがなければ城跡とは思えない現状である。


「歴 史」
 この城の築城年代についてははっきりしないが、貞和2年(正平元年1346年)秋月城の支城として築かれたとの資料がある。
天文年間は、岡本美作守清宗が城主で、勝瑞城主細川持隆に仕えていた。
その後土佐の長宗我部元親の侵攻により落城した。
 天正14年、蜂須賀家政が阿波を与えられ、家政はこの西条東城を阿波9城(西条東城の役割は讃岐方面押さえである。)の一つとして修築し、家臣の森監物政国(禄5000石)に兵300で守らせた。
その後元和元年の一国一城令により寛永15年に廃城となった。

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この付近は古城山と称した小高い山丘(これが天守台と伝わる)だったが昭和始めに山地が堀り崩され今は平地である。訪問時はただの藪や竹藪である。今も水をたたえる井戸があったが当時からあるものかは分からない。

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「西条東城訪問記」
 西条東城は阿波9城の一つとして押さえておきたい城ではあったが、遺構があるわけでなく石碑のみの城であることは訪問前からわかってはいたんですが・・・・・
 しかしこの城、どうしても訪問したい歴史ロマンのある城なのである。
「細川家、三好家を手玉に取り、両家を衰退させ、しいては阿波一国を傾けさせた悪女の生まれた城」なのである。
この女性上記に記した、岡本美作守清宗の娘であるが、この娘「小少将の局」が生まれた城であると言うだけで訪問するに値する歴史ロマンが詰まった城なのである。
「小少将の局」のエピソードは下記に示します。

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祠は森監物政国を祭ったものと言われる。しかし背後に石碑が写っていると思うが石碑脇には廃車が放置されており、こちらの住宅の物とは思うが貴重な史跡に水を差す感じです。


「西条東城への道しるべ」

県津沿いの一条神社の西にJAガソリンスタンド(閉店)があるが、ガソリンスタンドの前の住宅と住宅の間の細い路地を南に行くと突き当たりの住宅の脇に城趾石碑有り。



「小少将の局について」

「小少将の局物語」
時の西条東城主岡本美作守清宗は野心家で(記事にリンクします)勝瑞城主細川持隆(9代阿波屋形)に正室の待女との名目で娘を差し出した。

絶世の美女と言われたこの娘を細川持隆は小少将の局という名を付け寵愛した。寵愛したと言うよりすっかり魅力に溺れて、政務を怠り酒池肉林の生活を続けた。
しばらくして小少将は細川真之(最後の阿波屋形)を出産した。
(正室に子がなく小少将の生んだ細川真之は細川家嫡子となった。)

細川持隆は京管領細川家(本家)との関係で京に赴くことが多く、持隆が留守の間、細川家重臣の三好義賢(三好長慶の弟)と親密になり勝瑞城で実権を握るようになる。
やがて細川持隆と三好義賢は政治上の意見の違いで不仲となり、天文21年8月三好義賢は謀反を起こし、勝瑞城内の見性寺で持隆を自害に追いやった。

乱後、義賢は幼い細川真之を阿波守護に付け自身は執事となるも、実質的な勝瑞城主となった。
小少将の局は夫細川持隆を殺した三好義賢の妻に納まり「大形殿」と名を改めた。
三好義賢も彼女の虜となり、大形殿の意のままに政治を動かすとともに、その間、「長治」、「存保」の男児2名の子を授かった。(存保は讃岐十河家の養子となり十河存保と名乗る。)
しかし二人目の夫、三好義賢は泉州で討ち死にし、三好家の跡目は息子の三好長治が継いだが、当時まだ30歳ほどだった大形殿は、勝瑞城で権力を持ち続け、今度は三好氏の家臣木津城主篠原自遁と通じた。

大形殿と篠原自遁の醜聞は阿波国内に広がり、自遁の兄で三好家家老だった、(記事にリンクします)上桜城 主篠原長房は自遁を諫めたが、これを聞いた大形殿は怒り、息子長治に「篠原長房に謀反有り」と吹き込み、弟十河存保とで上桜城を攻めさせ、篠原一族を滅亡させてしまった。

うるさい家臣も消え、勝瑞城で権力をふるう大形殿であったが、今度は自分の腹を痛めた二人子供、先の夫の子細川真之と三好長治兄弟が阿波国内を二分して争うことになる。

持隆の子・真之は、義賢とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかったが、長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟の十河存保に攻められて自刃し滅亡した。
(この三人は小少将の局の実の子である。三人は父親違いの兄弟なのであるが・・・・)

こうして阿波国内は混乱し、その隙を突いて長宗我部氏が阿波に侵攻、勝瑞城も落城するのであるがこの時、息子十河存保は讃岐に敗走、愛人篠原自遁は淡路に逃亡・・・・
これ以降、大形殿の消息は判然としない。息子存保とともに讃岐に逃れたか、愛人篠原自遁とともに淡路に逃亡したか、また今度は長宗我部元親に近づき、土佐へ行ったとの伝説まで残るのであるが・・・。
また、生家西条東城に逃れて井戸に身を投げたとの伝説もある。

夫をもて遊び、夫を殺した男の妻となり、城内で権力を握り、家臣と不忠の仲を戒める忠臣を讒言で滅ぼし、自分の産んだ子供三人は権力闘争で生死を分け合い、決して女性として幸せだったのだろうか?と思うのだが、最後くらい常識論では勝瑞城落城時に将兵らと運命をともにしたと思いたいが・・・・。

1級電気施工管理技士

『1級電気施工管理技士試験』

初めてこの試験を受験して思ったこと・・・・・とにかく期間が長い。「そして高い」
期間が長いとは、
2月末:学科・実施受験申込受付締切・・・『受験料¥11,800円納付』
5 月:学科試験受験票送付
6 月:学科実施試験
7 月:学科試験合格発表・・実施試験受験手続開始
7月末:実施試験受験手続締切   ・・・『受験料¥11,800円納付』
9 月:実施試験受験票送付
10月:実施試験実施
2 月:実施試験合格発表・・技術検定合格証明書交付申請受付開始・・『手数料¥2,200円納付』
3 月:技術検定合格証明書交付  

『合格証明書』・・・印刷するだけの証明書の発送が1ヶ月かかる。
   〃   ・・・単なる紙の証明書発行に手数料?が2200円する。
   〃   ・・・単なる紙の証明書の郵送を配達記録で行う。

この試験、財団法人 建設業振興基金(天下り協会?)が運営しているのだが、とにかくなぜこんなに時間がかかるのか・・???受験するだけでなぜこれほど高いのか???
●期間は申込締め切りから合格証明書が手元に届くのに1年である。
 その間2会の試験があるとはいえ・・・・『これがお役所仕事というやつか』
●費用は受験料と合格証明書手数料を含めて「25,800円」。
 参考テキストの配布があるわけでもなく、あるのは申込書と試験用紙のみで、公立学校を借りて受験会 場としているだけだし、これでこれだけ経費が掛かるとは思えないんですけど・・・
 どっかの協会が儲けて問題になっていますが、こちらは儲けていないのですか??
 高級官僚天下り給与に消えているのでしょうね。

「試験結果」
 この試験真面目に勉強したかいもあり?真面目かどうかはこの辺の記事を参考に・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/gpz900ninjaa12/55172977.html
http://blogs.yahoo.co.jp/gpz900ninjaa12/55287194.html

「参考・・・平成20年度1級電気施工管理技士試験結果」
 『全国平均合格率』
   学科試験受験者 17,899名  合格者 7,923名(合格率44,4%)
    (うち高松会場)     831名  合格者   319名(合格率38,4%)
   実施試験受験者  8,708名  合格者 5,366名(合格率61,6%)
    (うち高松会場)  373名  合格者   220名(合格率61,8%)
※この試験は学科合格したら、たとえその年の実施試験に不合格でも、次年度の筆記試験は免除で実施試 験を受験できるため筆記試験合格者と実施試験受験者の数値は違います。

  なんと受験者に対する合格率は『おおよそ3割である』
 

それでもって私の結果というと・・・・。


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この証明書がもらえました。(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)。


とくかく結果が出て良かった。
来年だったら、国土交通大臣は民主党の方かもしれませんね????
自民党の大臣は当分ないかもしれないので貴重かも?????


来年の合格証明書には顔写真が入るみたいです。
ニュースにもなりましたが替え玉受験があり問題になりましたから・・・・
実際私の試験の時にも試験中かならず本人確認で顔確認がありました。
替え玉受験の受験者(逮捕された講師)・・一回目はよくパスできたなと思いますが????

電気施工管理と同様で建築施工管理技士というのもありこの試験で資格学校「建設業技術協会」の2名が逮捕された。
一人は同協会の実質的な責任者で、もう一人は講師を務めており、協会の30代の受講生が一級建築施工管理技術検定試験に申し込む際、「受検申請書」に逮捕された講師の顔写真を張って偽造。6月の学科試験では、受講生に代わって逮捕された講師が試験を受けた。 
10月に実施する実地試験の前の書類審査で、どうみても受験生の顔(替え玉受験した講師の顔写真)が30代には見えずに不正が発覚した。逮捕された講師は55歳だった。

愛媛県:金山城

「所在地」:愛媛県宇和島市三間町戸雁
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、堀切、武者走り、狼煙場
「城 主」:今城兵庫頭能信

『この記事は2007年2月の記事「愛媛県:金山城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。

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金山城への登城路を進むと空堀跡の看板が出迎えてくれますが、現在はかなり埋まっています。ただ切岸の登りの斜面はきつく、斜面上から下がっているロープを握っての登りとなります。


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金山城への登城路を進むと最初に武者走りが出迎えてくれます。武者走り手前には堀切の遺構があるのですが、ほとんど埋まっており注意していないと見過ごしてしまいます。


「歴 史」
 永禄・天正(1558〜1591)の昔、標高287mの金山に拠る本城は、険峻攻守を兼備した成妙郷の要衝であった。
 城館の構式は複郭で十郭からなり、堀切・土塁を有し、縄張りは長さ200m幅100mの規模である。山頂一帯は削り取った平地で、その下段は急勾配である。中央部に本丸のやや高い段があり、その周辺に台石や石垣らしい石が点在している。径3mのくぼみは池か井戸かとも思われ、住時のたたずまいが佛々とする。
 能信は、成妙郷9ヶ村4千7百石余りを所領し、宇和郡西園寺殿の旗下14将の一人今城肥後守能親の嫡子である。時恰も風雲急を告げ、土佐一条・長宗我部および豊後大友勢の侵略するところとなり、三間郷の雄将土居清良と同心一体で戦陣を馳せ、戦乱動乱期にいける能信の軍功は清良記に語って余さない。
「現地案内看板より抜粋。撰文はご子孫と思われる宇和島市在住の今城宇佐男氏による。」

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山頂削平地には土塁と狼煙場跡の案内があった。狼煙場跡からの見晴らしはよく三間郷に点在する城と連携していたことが容易に想像できる。


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山頂から西に延びる尾根沿いにはやっぱりという感じで堀切が設けられていました。


「金山城訪問記」
 金山城は宇和島市立成妙小学校の裏山にあります。
成妙小学校の児童が総合学習の時間に「金山城に学ぼう」と称し郷土の歴史を学習しているそうで、登城路には児童による案内看板が設置されています。
 城趾は山頂部は城主の慰霊碑や歴史の案内板が建立され、遺構の案内などの立て看板もありますが、全体としては木々が茂り古城の雰囲気は漂っております。
 また、能信の父である今城肥後守能親は文武に長じ、歌詠みの名人であり、天文6年に「大神宮法楽伊予千句」を京都で興行した風流武将で、この連歌の巻頭発句に「梅」と記名があるのは時の関白「近衛種家」で、中央から離れた四国のさらに奥のこの地で、一小領主が一流の文化人と交流があり、文化の花を咲かせていたことを考えると、遺構のすばらしさと相まって、感慨深いものがあります。

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山頂付近の遺構には立て看板が設置され、初心者にもわかりやすくなっています。写真は井戸跡と思われる場所です。


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山頂主郭の削平地。


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山頂周辺の三の丸跡から主郭を望む。主郭は一段高くなっていますが、段差の一部には石垣と思われる遺構も確認できました。



「金山城への道しるべ」

宇和島市立成妙小学校の裏山にあります。小学校背後には城趾の案内看板が設置されています。
城趾には小学校背後に砂防ダムが見えるのですが、砂防ダムの右側の脇から山道を登っていくと城趾に到着します。登城路は約640mあります。

詳しい地図で見る

香川県:紫雲出山遺跡

「所在地」:香川県三豊市詫間町紫雲出山山頂

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紫雲出山山頂に誰が居るのだろうと思ったら、リアルな弥生人の人形でした。


「歴 史」
 紫雲出山の山頂に形成された弥生時代中期の高地性遺跡。
昭和22年地元の郷土史家「前田雄三氏」が発見し、昭和30年〜32年にかけて、当時の京都大学講師小林行雄先生によって発掘調査された。
 土器の包含層は山頂一帯に広がり、住居跡と思われる列石遺構のほかに貝塚も発見されている。
出土品は弥生時代の中期から中期末の多数の土器の他に、打製石鏃、石槍、環状石斧、打製石包丁、磨製石斧、分銅形土製品、貝輪、鉄器片、シコクビエなどがみられる。
 なかでも長くて重量性のある石鏃が多数出土していることは、特に注目され、荘内半島の最高所に立地するという地形上の特性からも、軍事的、防御的性格を帯びた特殊な遺跡として学界でも注目されている。

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発掘調査で確認された、住居跡および倉庫跡は今はコンクリの下となっているが、敷地が解るようになっています。


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遺跡には、半地下構造の住居と2階建ての高床式倉庫が再現されています。住居は1枚目の写真に写る建物です。


「半地下構造の住宅と2階建て倉庫について」
 1988年の発掘調査で半地下構造の住居跡と、食物を保存するための倉庫が住居の傍にあったことが解りました。
 復元された住居は、実際の大きさの1,5倍に拡大して復元された。(奈良国立文化財研究所 宮本長二朗先生による設計)
 倉庫は床を地上より上げて湿気や害虫を防ぎ、床と柱の接する部分にはネズミ返しをはめ込んでネズミが入ることを防ぐなど、当時の人々の苦心のあとが分かります。
「現地案内板より抜粋」
(実際入ってみて中のスペースが意外と広いなと思ったのですが、実際はもっと狭かったのですね。また昔社会で習った登呂遺跡や高床式倉庫などの授業をちょっと思い出しました。)

イメージ 4

半地下構造住宅内部は照明もなくかなり薄暗く、実際の生活も薄暗い中での生活だったことが想像できます。中が明るく見えるのは写真のフラッシュです。


 ここ(紫雲出山)は、遺跡があることは知らず、この山の尾根筋にある「海崎城」を訪問したときに偶然見つけたのですが、資料館の壁に案内看板があるので読んでいる時に、脇から弥生人の人形が見えたときには本当に人がいるとびっくりしたのを強く覚えています。
 しかし、海に突き出た半島の山頂に弥生人の集落があった事を考えると、まず生活用水と農業用水はどうやって確保したのかとか、海への見晴らしが良い場所なので漁には便利かもしれませんが、毎日標高352mの山を上り下りするのは大変だろうな・・・とか昔の人の苦労を勝手に考えましたよ。
 また、この時は山頂に一部雪が残っていたのですが、訪問は去年の1月ですので、今の景色ではありません。

「大紫雲出山遺跡の道しるべ」

香川県三豊市荘内半島の紫雲出山山頂に遺跡があります。

詳しい地図で見る

愛媛県:大森城

「所在地」:愛媛県宇和島市三間町元宗
「形 式」:山城
「遺 構」:石垣、土塁、狼煙台

『この記事は2006年12月の記事「愛媛県:大森城」のリメイク版です。』
以前の記事はブログ開始間もない頃の記事で、ブログテーマもはっきりしない中でただ遺構写真を添付しているだけの記事でしたので手直ししてみました。
 色々気に入らない内容の記事が多々あるので、新規と手直し記事がしばらく続くかも・・・?

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大森城には多数の石垣が築かれており高石垣は見られないものの、山中に所狭しと石垣が出迎えてくれます。

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「歴 史」
 大森城は、この辺り三間地域を支配した土居清良が本拠とした城であり、土居清良は、近世に子孫たちが編纂した軍記物語「清良記」の主人公として有名です。
 天正7年(1579)に伊予進出を図る長宗我部氏の軍勢この付近に進軍してきたときは、盆地の特性をいかし、盆地の入口を押さえ長宗我部軍に勝利を上げたことでも知られる。
 土居清良はこの付近の小豪族の中核として知勇兼備の名将として後世に伝わるが、清良は土佐一条氏の人質から大森城主として復帰する歳、かつての戦没者の遺族700人を城に招いて慰霊祭を催し、この時に登城した者は一個ずつの石を運んで積み重ね城の曲輪とし、「供養丸」と名付けたエピソードもある。

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曲輪を守る土塁も低くなっているがよく残っている。一部の土塁には内側腰部分に石垣が用いられている土塁もある。

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「大森城訪問記」
 大森城は旧三間町(現宇和島市三間町)の三間盆地の中央部にそびえる山頂に大森城跡はあります。
日本城郭大系には、愛媛県の中世城郭のうち石垣・石塁が最も見事に残っている城郭の一つに数えられており、登城前には期待がふくらんでいたが、期待に恥じない見事な遺構が山中出迎えてくれる。
 ただ、訪問時は登城路が解らず山の周りを巡っていると、地元の人に不審がられ声を掛けられる事があったが、城を訪問したいというと地元の人も今は道は解らないが子供の頃はよく城山で遊んだ話も聞かせてもらえた。地元の人曰く「山肌から登れ」との事で直登が決定した瞬間であった(笑)。
 山の北側麓から伸びる林道を発見し山の中腹までは登れ、あとは藪かきして登ったが、山頂の本丸跡と思われる場所に到着したときに本丸南側に登山道らしき山道があった時のショックは大きかったです。(ちょうど登山道の反対側の斜面を登っていた事になりました)
 それと訪問してから大森城を調べていると、城趾周辺には城主墓や城主を祭る清良神社があり、また一番のショックは愛媛県歴史文化博物館には大森城の1500分の1の模型が展示されており、展示写真を見ると山を取り巻く曲輪群が見事で、現地と模型をセットで見たかった後悔が大きく、南予に行く機会が有れば是非再訪問したい城趾である。

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主郭には遺構の案内が設置され(置かれている?)ており、主郭の中には狼煙台の遺構も確認できた。


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大森城の切岸。腰曲輪から望む。



「大森城の道しるべ」

宇和島市役所三間支所前の県道を東に進むと左に独立した山が見えるのが城趾。
訪問時は登城路が解らず、山の北側の山麓にちょうど切り通し状になった場所がありちょうどその付近に山へ登る林道があったのでこれを上ったが、道は中腹で消える。あとは山頂を目指して藪かきでの直登である。

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