四国の城郭探訪

お城の写真と簡単な歴史紹介。

高知県の城(土佐)

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高知県:雪ヶ峰城

「所在地」:高知県香美市土佐山田町楠目
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、堀切

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雪ヶ峰城の背後を守る深い堀切。城は背後の山から続く尾根の先端に築かれている。


「歴 史」
 この付近に位置する山田氏の居城山田城の支城として東の守りを固めていた。
この城の最後の城主山田監物長秀は、天正18年(1549年)頃山田城を攻撃した長宗我部軍の勇将江村小備後と戦って討ち死にした。
 城跡には東西11m、南北28mの詰の段(本丸)をはじめ、二の段、三の段等がよく残っており、北側に連なる尾根を断ち切って造られた深い空堀もある。
 「現地説明版より」

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主郭の一部は現在「轟神社」となっている。上記の写真の堀切は神社背後にある。


「雪ヶ峰城訪問記」
 雪ヶ峰城は城の東岸を物部川が側面を流れ川に向かって山は切り立っておりこの方向からの攻撃は不能であり、背後の山はなだらかなながらも、尾根を深い堀切で断ち切る事で背後からの攻撃に備え、西側は今は畑となっているが、当時は谷であったことが想定され自然地形を巧みに取り入れた小さい城ながら要害の城である。
 この地は、物部川にそって山中に続く国道に面し、この城のある地から道は四方に伸び国道を西に進むと土佐山田町の市街地となり、この地が交通の要地であったことがうかがえ交通の要所を押さえる支城の役割がうかがえられる。
 遺構面では主郭の背後を守る深い堀切がよく残るが、郭部は一部が轟神社に利用されているが要地は狭く、神社以外の用地は管理の手が入っていないので現地尾案内板に三段の郭が残っているようにあるが、郭は藪がひどく立ち入ることが出来ず全く確認が出来なかった。

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城の登り口には轟神社の鳥居が見られる。登城路入り口には城址の案内板が設置されている。

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「雪ヶ峰城への道しるべ」

R195号を土佐山田の市街地を抜け東に進むと、物部川に架かる香我実橋と国道との交差点が城址への登城路のある場所である。(写真3の場所)
神社の鳥居をくぐって道を進むと轟神社に出る。

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高知県:雀ヶ森城

「所在地」:高知県高知市春野町東諸木
「形 式」:山城
「遺 構」:曲輪、堀切、石垣

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雀ヶ森城遠景。標高約60mの独立した小山の山頂に城趾はある。


「歴 史」
 城主は本山氏に属した高橋壱岐守と伝わるが、築城年代や詳細な歴史に関しては不明。

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曲輪部には一部石垣が使われており、苔むした石垣が古城の雰囲気を醸し出している。

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「雀ヶ森城訪問記」
 田園の中にそびえる独立した小山の山頂に城趾はある。
日本城郭大系には山頂部の主郭は諸木公園になっていると記載があったが、現状は前に進むのも辛いほどの藪化している。実際ここが公園だったのかと思わせるほどの状態であるが、地域への広報のための物と思われる、スピーカーも木々の間から見えたので、何らかの利用がされていたと思われるが、なにせ現状からは想像すら出来ない状態である。
 曲輪部の一部には石垣が使われ歴史的資料が乏しい城ではあるが、本山氏側の城であったころは境界を接する吉良氏の押さえとしての性格が考えられ、長宗我部氏に本山氏が滅ぼされると長宗我部方の城となり、この付近に本城を持つ吉良家に養子に入った長宗我部元親の弟吉良親貞の吉良城の支城として整備されたのではないかと推測される。
 訪問時は4月の中旬であるが、山頂部には綺麗なツツジが咲き乱れていたが、近くによって写真を撮ろうなどとしていたが、ツツジを堪能する余裕を与えてくれず、なるべく音を立てずにゆっくりと冷や汗を流しながら下城することになるのだがその訳は・・・・
「こいつだこいつ」
 
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こんなの見たら退散退散・・・・・・・冬場ならまだしも春だからもう活動してるかも知れないしね。


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主郭は「ホントにここが公園???」とおもわせるほどの藪である。木々は小さいので確かに何百年放置された場所ではないのかも知れませんが・・・・・こんな風にツツジを近くで撮ろうとしたらヤツがあった。

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登城路を登ってくると曲輪部を隔てる堀切と尾根を隔てる堀切が出迎えてくれる。

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「雀ヶ森城への道しるべ」

県道14号から県道278号線を西に進む。札所があるところを道なりにさらに西へ進む。道路に沿って水路がある。諸木バス停付近正面の小山が城趾。
登城路は山の北に麓にビデオ屋「ファミリー25」(閉店?)がありその西から山への登城路がある。山頂までは登城路はつながっていないので9合目付近からは直登。

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高知県:香宗城

「所在地」:高知県香美市野市町土居
「形 式」:平城
「遺 構」:土塁、石碑

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香宗城は日本城郭大系には「香宗我部城」と紹介がありますが、石碑には香宗城とありますので、こちらで紹介しています。石碑は土塁上に設置されており、これ以外に同様の城趾を示す石碑がこの石碑の北に道路に面してありますが、ほぼ並んであるので二つも必要かと・・・・。


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香宗城の土塁上には八満宮が祭られています。。この八幡宮が城の北辺とされています。


「歴 史」
 長宗我部元親の弟を養子に迎え、元親の四国平定に寄与した、香宗我部氏の本城である。
香美郡宗我郷を本拠に発展した香宗我部氏は、甲斐源氏武田氏の一族に発すると言われる。
 秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部し、香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を名乗るようになったのだという。
 時代が下り長宗我部元親の父親長宗我部国親の勢力が香宗我部氏の勢力圏に侵出するようになり、香宗我部氏は東の安芸氏からも圧迫を受けるなか香宗我部氏は窮地にたったがこれを打破するため、香宗我部氏は長宗我部国親の三男親泰を養子として迎え、長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げようと企図した。
 その後、親泰は兄・元親に従って各地を転戦、兄の四国統一に尽力した。しかし、文禄2年(1593年)に長門で兄に先立って急死した。享年51歳。その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった。

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香宗城跡は現在、八幡宮の建立されている場所に土塁が残るが、城趾は田畑や住宅化とし、石碑がなければここが城趾だとは想像できない。


「香宗城訪問記」
 この城は遺構が魅力というより、長宗我部元親の四国平定を助け、豊臣秀吉に豊臣秀長があるように、長宗我部元親には、香宗我部親泰ありと思える活躍や支えをした香宗我部氏の本城である歴史的魅力が大きい。
 城は東に流れる香宗川を外堀とした縄張りであるが、土地の現状をを見ると周りにも小山もなく平野が続いているのでさほど要害とは感じられない。
 日本城郭大系には城の周りを家臣の屋敷が取り囲んでいたと思える絵図が掲載されているが、今の平城の大方がそうであるように遺構を見ることは出来ず、住宅地や田畑と化している。
 城の南には、香宗我部親泰が菩提寺として建立した宝鏡寺跡(明治4年廃寺)が残り菩提寺跡には香宗我部氏の墓が残る。

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城の南には香宗我部氏の菩提寺宝鏡寺跡がある。菩提寺跡には苔むした墓と観音堂が残るのみである。

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「香宗城への道しるべ」

香宗川に架かる香宗橋西詰めに見える茂みのある場所が香宗城趾です。


詳しい地図で見る

「菩提寺宝鏡寺跡の場所」

香宗橋西詰めから川沿いの道を南に進み、西に鋭角的に降りると菩提寺である。


詳しい地図で見る

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高知県:高柳土居城

「所在地」:高知県香美市土佐山田町山田
「形 式」:平城(土居)
「遺 構」:土塁

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高柳土居城跡設置されている城趾看板。歴史の紹介も書かれていた。


「歴 史」
 山田氏の重臣西内氏の居館跡である。西内氏の祖は応仁年間(15世紀後半)頃に土佐に下り、山田氏に仕えたとされ、その子孫が西内常陸であり、「長宗我部地検帳」に見える城主の西内佐渡守は常陸の子である。平成2年に発掘調査され館を囲む濠や柱穴とともに青磁、天目茶碗、土師質土器が出土し、15世紀後半には館が形成されたと考えられる。「現地案内板より」

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高柳土居城跡遠景。畑の中にはっきりした土居囲いが見える。


「高柳土居城訪問記」
 高柳土居城周辺は今は田畑化されているものの、土居の土塁が北面と西面によく残っている。
土塁の頂部がちょうど墓地に利用されているのが保存には幸いしたと思われる。
 なかなか平城となると遺構がはっきり残る例は少ないが、土塁としては全体の一部であると思うがここまではっきりわかる遺構が残されているのは貴重であると思える。航空写真でもはっきり土居遺構が確認できます。
 土居の土塁は石垣となっていますが、当時からの物なのかは不明です。


詳しい地図で見る
「高柳土居城への道しるべ」
R195号から県道234号を南下する。高知県立山田養護学校の前を通り過ぎると点滅信号があるので、その交差点を左折。次に赤の点滅器のある四つ角があるので左折。明治保育園の前を右折すると正面に畑の中に土居の土塁が見えます。

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「所在地」:高知県南国市岡豊町吉田
「形 式」:平城
「遺 構」:土塁、城趾石碑

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吉田城趾の土塁上には「吉田備後守邸址」の石碑が建立されている。


「歴 史」
 城主は吉田備中守周孝。
周孝の妻は、長宗我部兼序の妹(長宗我部元親の父親「国親」の叔母)で長宗我部氏の再興に尽力した。
吉田一族は、安芸氏の岡豊城攻撃に対して元親を救援し安芸勢を退却させた周孝の弟重俊や、周孝の孫はのちの大阪夏の陣で長宗我部軍として参陣し藤堂軍と戦って戦死するなど、長宗我部軍を支える重要な家臣団であった。

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吉田城の土塁。土塁上は墓地などに利用されている。腰回りには石垣が築かれているが、これは後世の改変と思われる。


「吉田城訪問記」
 吉田城は、長宗我部氏の本城岡豊城から1卍度しか離れて折らず、ここに城(居館)を築いた吉田氏がいかに長宗我部軍の中で重要な位置づけであったのかを想像することは容易い。
 城趾は道路から狭い住宅街の路地を抜けて行くのだが、ここがなかなか難しい。住宅により城趾への見渡しがきかず、最初は何回も行き過ごしたのだが到着してみると、ほぼ正方の居館を取り巻く高さ3m、幅5mの土塁が残っており、それは航空写真からもはっきり確認できるほどで、城趾は墓地や田畑化されているとはいえ、当時を想像するのには十分な遺構の保存状態であった。

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吉田城を取り巻く土塁の保存状態は比較的良く、平城の大方が田畑化や住宅地化で消滅する中、旧態を比較的とどめている。


「吉田城への道しるべ」
 国道32号線に架かる岡豊大橋の南側を東に土手の道に入る。土手に入ってすぐ右折するように(ヘアピンカーブ)土手から降りる道があるのでその道を進む。
 しばらく狭い道を走ると「喫茶店クワサ」の看板と駐車場がある。(これ以降城趾への車での進行は無理である)駐車場から狭い住宅街の道を喫茶店クワサに向かって歩くと、喫茶店の横から北に進む路地があるので進むと土塁上に立つ城趾石碑に到着する。


詳しい地図で見る

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