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「所在地」:愛媛県西条市須之内 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪 「歴 史」
高峠城は河野道直によって築かれ、代々河野氏が城主を務めるが、実際は河野氏の家老石川氏が実権を掌握しており、天正3年に河野宗三郎が病死すると、城主は石川通清が城主になった。 高峠城は天正10年土佐の長宗我部氏に攻められ、城主石川通清は降伏したが、豊臣秀吉の四国征伐では小早川隆景や吉川元道ら毛利軍3万に攻められている。 当時の城主はわずか8歳の石川虎竹丸を籠城兵800名で良く守ったが多勢に無勢、城側は城主の虎竹丸を土佐に逃して、全員打って出て討ち死にしたと言われる。その後高峠城は廃城になった。 「高峠城訪問記」
高峠城を始め愛媛県の諸城は豊臣秀吉の四国征伐の際は戦略上大きな犠牲を払った戦いが起こっている。この戦略は愛媛県の諸城は徹底的に抗戦して秀吉軍を悩ませることで和議を長宗我部軍に少しでも優位になるように、「長宗我部軍恐るべし」を秀吉軍に与える使命があったと言われている。 (長宗我部氏は愛媛のみ没収で、阿波・讃岐・土佐の維持を目指したと言われる) ようは長宗我部氏にとって捨て石であり、捨て石と知りながら戦い散っていった武将の哀れさが漂う城なのである。 高峠城に登ってみると展望のすばらしさに感動を覚えました。西条市内が一望できる場所にあり、ここを押さえることが戦略上非常に重要であったことが改めて実感が出来ます。 遺構は曲輪の削平地は確認できますが、高峠城は現在利用されているかどうかはよく分からないのですが、主郭周辺には宗教的な建物が建てられており、また主郭には石の置物が置かれているがそれも宗教的なもので有ると思われここ最近に大きく改変されたようす。日本城郭大系に掲載のある3段の曲輪は今も確認できるのですが、二の丸は駐車場となり舗装され土塁も取り払われている。 堀切もゴルフ場開発時に消滅したと言われており、城の遺構は大きく失われていますが城の東側山麓には土居構えと言われる土居が残っており、セットでの訪問するのが良いと思います。 城への登城路は、山頂へ向かう農道があるのですが、入り口付近に関係者以外立ち入り禁止の札がかけられており、途中農道が崩れている場所もあり危ない場所もありますが、立ち入り禁止札を無かったことにすれば四駆の軽自動車なら山頂周辺まで登ることは可能です。ただしここは紳士的な対応が必要と思われる場所でもあります。 (私は札付近で農作業していた農家の方に声をかけて登りました。) 「高峠城への道しるべ」
国道11号線に架かる加茂川橋の西詰めの交差点から南に道を進み、加茂川に沿って進むと、道がYの字になるところが交差点があり、そこを右に進む。高速道路の高架をくぐって進むと右に鋭角的に登る農道があるのだがそこが登城路となるが、入り口には関係者以外立ち入り禁止の札が架かっているので注意が必要である。 |
愛媛県の城(伊予)
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「所在地」:愛媛県八幡浜市大平 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、井戸跡、石垣、堀切 「歴 史」
戦国時代の天文年間(1532〜1555)大洲城主宇都宮清綱は領地を長男豊綱に譲り、三男房綱を連れてこの地に移った。 天正2年(1574)1月15日長宗我部元親に内通した大洲の大野直行の軍勢が来攻し落城した。 現在も本丸、二の丸、三の丸という地名が残っている。 【城趾案内看板より抜粋】 「萩森城訪問記」
愛媛県の城もUPしないと。(*^-^*) ニッコリ☆ 萩森城は八幡浜市街地の背後の市内を一望できる萩森山山頂に築かれている。 城趾へはみかん畑の農道を利用して山頂付近まで車で進め山頂付近の貯水池まで来ると、貯水池横に城趾案内看板が出迎えてくれる。しかしこの看板・・・城趾に建っているわけではなく城趾はこの貯水池手前の山頂に建つ送電鉄塔の場所が主郭であり、来た道を戻って道路沿いに確認できる四国電力送電線鉄塔保守点検用道を進むと主郭に到達できます。 遺構では主郭周辺に削平地や井戸跡らしき遺構が確認できた(写真を取り忘れた)他、随所に石垣や削平地が確認できる。ただし日本城郭大系に掲載されている空堀はみかん畑化からか確認できなかった。 それでも主郭から少し離れた大きな削平地(三の丸?)周辺には現在山道として利用されている堀切跡と思われる遺構も確認できる。 山頂の主郭以外の部分はほとんどがみかん畑化されておりかなり地形は改変されていると思われるが、良く探すと遺構と思われる地形もあり堪能は出来るが、いかんせんほぼ全面がみかん畑であるので実際訪問も2月末に行っているが作付け中や収穫時の訪問は避けた方が無難である。 「萩森城への道しるべ」
八幡浜市内から国道197号線の愛宕山トンネルを抜け、国道がなだらかに登りだした頃、大平、緑が丘集落へのT分岐の交差点があるので(訪問時この付近の国道は工事中で現状は??ですがT分岐は変わらないと思います)この分岐を山側に進みしばらく道なりに山を登る。 道が大きくヘアピンする場所があるのこの場所から右に進む。ここからみかん畑の農道であるが道なりにひたすら進むと山頂付近の貯水池に到達できます。ここに城趾看板がありますが、城趾にはすこし手前の送電鉄塔の点検道を利用し山頂まで登ります。車は貯水池周辺に駐車可能なスペースはあります。 |
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「所在地」:愛媛県西条市福武乙 「形 式」:山城 「遺 構」:城趾石碑 「歴 史」
【石碑裏の説明より】 南北朝時代の南朝方の城主忽那義範と北朝方細川頼有との戦があったという。 『西條城趾訪問記』 西條城は高速道路の脇(松山方向下り側車線)に石碑が見えることもあり、仕事等で高速を利用する度に気になる存在であった。 やっと訪れることが出来、遺構的な物は確認できなかったが何年来のもやもやを払拭できたので石碑だけでも満足であった。 石碑は山の中腹辺りにあり山頂部に詰め的な遺構がないか確認したかったが、付近あちこちに「私有地のため立ち入り禁止」の看板のオンパレードで登頂はあきらめました。 石碑に説明もあるが高速道路開通のためほとんど破壊され当時を想像できるものは無い。石碑の廻りに削平地があるが、工事によるものか遺構なのかはわからない。 「西條城趾への道しるべ」
西條城趾には西条市考古歴史館の北東に位置する常福寺の東側に墓地があるが、その墓地の脇に高速道路に向けて登っていく道がある。登っていくと高速道路の下を通り、突き当たりを右に進むと左側に城趾石碑が見える。 |
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「所在地」:愛媛県今治市桜井町国分(唐子山山頂) 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、石垣 「歴 史」:南北朝時代に南朝方として新田義貞の弟「脇屋義助」が入城した。南朝方の精神的支えと期待されたが、しかし残念ながら脇屋義助は国分寺城入城後数十日後に病死したと伝えられる。 【現地案内看板より抜粋】 天正15年福島正則は越智郡以東11万石を与えられ、道後から国分山へ入った。正則はさらに清洲城へ移り、その後小川祐忠が移封されたが関ヶ原の戦いで西軍に味方したために領地を没収され、かわって藤堂高虎が入った。高虎は今治城を築いたがその際国分寺城の城壁の石を運び去った・・・・・・ 高虎は、局地的な戦略的城郭としては優れているが、20万石の領地を支配する政治的城郭としては城地が狭いために今治城を築いたとされる。 「訪問記」:国分寺城は唐子山山頂にある。唐子山には唐子山西側を通る県道沿いに唐子山への登山道の看板があるので登城路はわかりやすい。付近には国分寺もあり昔から歴史的重要拠点だったことがわかる。唐子山への登山道を歩くことで主郭に到達することが出来ます。主郭には今治市が設置した案内看板がある。資料では主郭周辺には石垣が残っているような記載があるが、資料にあるような主郭を取り巻くような石垣は発見できなかった。 主郭は、公園として整備された形跡があるが、主郭の前後には曲輪跡がはっきり確認できる。 国分寺城には福島正則や藤堂高虎などが城主となり、同時期には加藤嘉明が松山城主であり、愛媛には名将が配置されたことはいかに戦略的重要地点だったかがわかります。 「国分寺城への道しるべ」 詳しい地図で見る |





