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「所在地」:徳島県三好市池田町白地 「形 式」:平城(土居) 「遺 構」:土塁(虎口)、石垣 花駒屋敷の平面図ですが描いてみました。描いてみましたと言ってもね〜。これでは・・・って感じですがなんとなく写真のみでは伝わらないイメージをつかんでもらえたらって感じです。あおれんじゃーさんみたいな見事な鳥瞰図は描けませんからからこれでご勘弁を。「歴 史」
白地城 主の大西氏の家老花駒弾正の館。この館は特に北方面、西方面に点在する各支城から白地城への最後の中継地点として非常に重要な位置にあった。 長宗我部氏の時代になってもこの館は長宗我部氏家臣の屋敷として利用されたと伝わる。 「花駒屋敷訪問記」
花駒屋敷のある地は、吉野川、馬路川の合流地点にあり川に向かっては険しい崖となっており、こちら方面からの攻撃は不可能である。 今、この地を見ると広大な城域が確保できるスペースはないが、西方面と北方面への展望に難がある白地城の出城として各支城との貴重な中継点であったことは、容易にうかがえる地形である。 |
徳島県の城(阿波)
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「所在地」:徳島県阿波市吉野町西条 「形 式」:平城 「遺 構」:石碑、井戸?、天守台? 「歴 史」
この城の築城年代についてははっきりしないが、貞和2年(正平元年1346年)秋月城の支城として築かれたとの資料がある。 天文年間は、岡本美作守清宗が城主で、勝瑞城主細川持隆に仕えていた。 その後土佐の長宗我部元親の侵攻により落城した。 天正14年、蜂須賀家政が阿波を与えられ、家政はこの西条東城を阿波9城(西条東城の役割は讃岐方面押さえである。)の一つとして修築し、家臣の森監物政国(禄5000石)に兵300で守らせた。 その後元和元年の一国一城令により寛永15年に廃城となった。 この付近は古城山と称した小高い山丘(これが天守台と伝わる)だったが昭和始めに山地が堀り崩され今は平地である。訪問時はただの藪や竹藪である。今も水をたたえる井戸があったが当時からあるものかは分からない。「西条東城訪問記」
西条東城は阿波9城の一つとして押さえておきたい城ではあったが、遺構があるわけでなく石碑のみの城であることは訪問前からわかってはいたんですが・・・・・ しかしこの城、どうしても訪問したい歴史ロマンのある城なのである。 「細川家、三好家を手玉に取り、両家を衰退させ、しいては阿波一国を傾けさせた悪女の生まれた城」なのである。 この女性上記に記した、岡本美作守清宗の娘であるが、この娘「小少将の局」が生まれた城であると言うだけで訪問するに値する歴史ロマンが詰まった城なのである。 「小少将の局」のエピソードは下記に示します。 「小少将の局について」「小少将の局物語」
時の西条東城主岡本美作守清宗は野心家で(記事にリンクします)勝瑞城主細川持隆(9代阿波屋形)に正室の待女との名目で娘を差し出した。 絶世の美女と言われたこの娘を細川持隆は小少将の局という名を付け寵愛した。寵愛したと言うよりすっかり魅力に溺れて、政務を怠り酒池肉林の生活を続けた。 しばらくして小少将は細川真之(最後の阿波屋形)を出産した。 (正室に子がなく小少将の生んだ細川真之は細川家嫡子となった。) 細川持隆は京管領細川家(本家)との関係で京に赴くことが多く、持隆が留守の間、細川家重臣の三好義賢(三好長慶の弟)と親密になり勝瑞城で実権を握るようになる。 やがて細川持隆と三好義賢は政治上の意見の違いで不仲となり、天文21年8月三好義賢は謀反を起こし、勝瑞城内の見性寺で持隆を自害に追いやった。 乱後、義賢は幼い細川真之を阿波守護に付け自身は執事となるも、実質的な勝瑞城主となった。 小少将の局は夫細川持隆を殺した三好義賢の妻に納まり「大形殿」と名を改めた。 三好義賢も彼女の虜となり、大形殿の意のままに政治を動かすとともに、その間、「長治」、「存保」の男児2名の子を授かった。(存保は讃岐十河家の養子となり十河存保と名乗る。) しかし二人目の夫、三好義賢は泉州で討ち死にし、三好家の跡目は息子の三好長治が継いだが、当時まだ30歳ほどだった大形殿は、勝瑞城で権力を持ち続け、今度は三好氏の家臣木津城主篠原自遁と通じた。 大形殿と篠原自遁の醜聞は阿波国内に広がり、自遁の兄で三好家家老だった、(記事にリンクします)上桜城 主篠原長房は自遁を諫めたが、これを聞いた大形殿は怒り、息子長治に「篠原長房に謀反有り」と吹き込み、弟十河存保とで上桜城を攻めさせ、篠原一族を滅亡させてしまった。 うるさい家臣も消え、勝瑞城で権力をふるう大形殿であったが、今度は自分の腹を痛めた二人子供、先の夫の子細川真之と三好長治兄弟が阿波国内を二分して争うことになる。 持隆の子・真之は、義賢とその子の三好長治の元での傀儡でしかなかったが、長治が悪政により阿波を混乱させると、真之は新たに台頭しつつあった土佐の長宗我部元親と手を結び復権を図り、長治を滅ぼしたが、天正10年(1582年)に長治の弟の十河存保に攻められて自刃し滅亡した。 (この三人は小少将の局の実の子である。三人は父親違いの兄弟なのであるが・・・・) こうして阿波国内は混乱し、その隙を突いて長宗我部氏が阿波に侵攻、勝瑞城も落城するのであるがこの時、息子十河存保は讃岐に敗走、愛人篠原自遁は淡路に逃亡・・・・ これ以降、大形殿の消息は判然としない。息子存保とともに讃岐に逃れたか、愛人篠原自遁とともに淡路に逃亡したか、また今度は長宗我部元親に近づき、土佐へ行ったとの伝説まで残るのであるが・・・。 また、生家西条東城に逃れて井戸に身を投げたとの伝説もある。 夫をもて遊び、夫を殺した男の妻となり、城内で権力を握り、家臣と不忠の仲を戒める忠臣を讒言で滅ぼし、自分の産んだ子供三人は権力闘争で生死を分け合い、決して女性として幸せだったのだろうか?と思うのだが、最後くらい常識論では勝瑞城落城時に将兵らと運命をともにしたと思いたいが・・・・。 |
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「所在地」:徳島県美馬市脇町大字脇町 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、空堀 『この記事は2007年12月の記事「徳島県:脇城」のリメイク版です。』
以前の記事では山城部と里城部を一連として記載していましたが、再訪問により山城部の井戸とか、空堀、里城部の堀跡などの確認が出来たため、前記事と重複するところはありますが再度記事として紹介します。 「歴 史」
脇城は戦国期のはじめ脇権守という人物が館を構えたと言われる。後の天文2年三好長慶が城を築き三河守兼則に守らせた。 弘治2年(1556)3月三好長慶によって、武田上野介信顕が大和から脇城に入城した。武田大膳大夫信虎の庶子で、有名な武田信玄の異母弟であった。 天正6年(1578)信顕は岩倉城主三好式部少輔とともに、一度は土佐の長宗我部元親に降るが、天正9年三好氏の説得によって、元親と縁を断った。 同10年8月、長宗我部親吉の率いる3000名の土佐勢は、脇城へ押しよせた。城兵はよく防ぎ容易に抜くことはできなかったが、8月22日脇城は落城した。 この時、城主信顕は、讃岐に逃げたが、東かがわ市白鳥附近で敵に捕捉されて戦死した。遺体は東かがわ市東照寺に葬られた。信顕の長男信定(16才)は落城の際捕えられて自殺した。のち脇人神社にまつられた。 天正期には長宗我部氏の手に落ちるが、豊臣秀吉の四国征伐の折秀次を主将に蜂須賀家政を先鋒にした約3万の兵に岩倉城とともに包囲され長宗我部軍は降伏し開城した。 その後阿波に入った蜂須賀家政は家老稲田種元に1万石を与え脇城主とした。脇城は阿波9城の一つとして兵500名で守らせた。稲田氏は江戸期淡路で4000石を加増され洲本城代となり、脇城は一国一城令によって寛永15年に廃城となった。 脇城下はその後も郷町として西阿波の中心地として栄え、街角は「うだつの町並み」として城下町の面影を残している。 「脇城訪問記」
脇城は近世は阿波9城の一つとして蜂須賀家の筆頭家老稲田種元が1万石を与えられ脇城主となったことで、整備されたであろう城趾は歴史案内看板もなく鬱蒼とした竹藪の中に、ひっそりと存在する。 城趾はとにかく藪・・藪・・藪・・・・ただし主郭部を守る大堀までは林道が延びているのでなんとか到達できるが、それから先は藪の中をさまよう。 井戸を探しているときは藪の中、目の前に急に井戸が現れるのでちょっと危険な思い(井戸に転落する。井戸の周りもブッシュがある。)をするかもしれないので日本城郭大系に掲載されている実測図を参考にして探索することをお勧めします。そうしないと本当に落ちます。・・・・・ 「脇城山城部の場所」脇城へは県道12号線から四電工脇町営業所前から北に延びる市道に入り、路地を右折すると左に貞真寺山門が見える。貞真寺横に「秋葉神社」があり神社前から山に伸びるセメント舗装された狭い道(小型車なら通行可能)があるがそれを登る。
登り切った辺りで道は大きくヘアピンカーブするが、カーブ手前から農地へと伸びる農道が左に見えるのでその農道に入りとそこからら城跡と思われる遺構が続く。奥に向け農道がかろうじてあり主郭手前の空堀までは農道が続いているが確認できる歩道も掃滅寸前である。 詳しい地図で見る |
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「所在地」:徳島県板野郡上板町七条 「形 式」:平城 「遺 構」:石垣、井戸、城趾石碑 「歴 史」
城主は七条兼仲。 城主七条兼仲は、天正10年(1582年)中富川の合戦(阿波の関ヶ原と言われる合戦)に参加し戦死したと言われる。 「七条城訪問記」
日本城郭大系には、七条城の中心部分は宮川内谷川の川底になっているとあり、城があった当時と現状は川の位置も変わり当時の様子を想像することは難しい。 現地を訪れてみると川の南岸はかなりのブッシュで立ち入ることさえ難しい状態で遺構は未確認であるが、北岸の堤防には城趾石碑や、古い石垣や井戸が見られたが、古い石垣が城の遺構による物か堤防工事の基礎の石垣か判断がつかなかった。 「七条城への道しるべ」
県道14号線。上板町役場の案内のある交差点を北に進む。橋があるので渡って直ぐに堤防に右折する。堤防の道に入り直ぐ左折(ヘアピン上)したところに城趾石碑がある。 |





