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「所在地」:香川県高松市高松町帰来 「形 式」:平城 「遺 構」:郭 「歴 史」
【現地案内看板より抜粋】 鎌倉時代の末期、建武の中興の功臣舟木(高松)頼重が讃岐守護職としてこの地に城を構えた。 建武2年11月26日足利尊氏の臣細川定禅らの軍勢に攻められ一族郎党30余人討ち死にし落城しました。 その後ここ高松城にて高松庄を領した高松頼邑は天正13年豊臣秀吉による四国征伐の一隊(宇喜多秀家ら7将の兵)約2万3千の攻撃を受け、香西氏からの派遣の兵を合わせてわずか兵200をもって勇敢に戦いましたが、城兵一人残らず討ち死にしました。 「高松城訪問記」 ここまでの写真や記事を見てちょっとおかしいな??と思っている城ファンの方がおいでではないかと思います。 香川県高松市の「高松城」と言えば生駒親正が築城した海城で江戸期には水戸系松平氏(初代松平頼重は水戸光圀の実兄)が治め、JR高松駅前に位置し現在は現存3重櫓2棟、現存門、石垣、海水を引き入れた水堀等が残る名城を思い浮かべたと思いますが、実は高松市内には「高松城」と言われる城が2城あり、この記事の高松城は別名「喜岡城」とも言われ、日本城郭大系にも「喜岡城」として紹介されています。 ただここでは、掲載写真にもありますように現地では高松城と表示されていますので紛らわしいですが「高松城」として紹介しています。 高松城は現在喜岡寺となり現状は改変されているとは思いますが、喜岡寺横の公園付近には掲載写真にありますように城の遺構を思わせるような地形も見うけられます。この付近が唯一の城をイメージさせる部分で城趾石碑がなければただのお寺と公園です。、 明治時代の野取図によると周囲に空堀跡が歴然と残っていたそうですが現在は宅地化も進み確認することは出来ません。 近世高松城は、高松勤務時周辺を良く利用していたので改めて城訪問モードとしては一回も訪れていないな・・・・。 「高松城への道しるべ」
琴電「ふるまかまつ」から道路を南に進み、国道11号線をそのまま縦断し、JR高徳線の踏切を越えしばらく進むと喜岡寺脇の公園に到着できます。喜岡寺が「高松城趾」です。 |
香川県の城(讃岐)
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「所在地」:香川県高松市香南町由佐 「形 式」:平城 「遺 構」:土塁 「歴 史」
建武3年(1336年)足利尊氏に従って京都東寺で戦死した益子下野守顕助の子弥次朗秀助が阿波屋形細川頼春に従って四国に渡り、父の功績により讃岐国香川郡井原荘を賜り、姓は由佐と改め由佐に屋敷を構えたのが由佐城の始まりです。 城は、東は香東川、南に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞で、天正11年(1583年)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城せず、和議を申し出たほどでした。 「現地設置案内看板より」 「由佐城訪問記」
由佐城趾は現在歴史民俗資料館となり、模擬天守が建てられていますが、以前は土塀に囲まれた由佐家の屋敷があると城郭大系に記事と写真がありますが、現状は大きく改変され当時の様子をうかがえる物は歴史民俗資料館内に残る土塁が唯一の物となっています。 由佐家に伝わる城絵図からは内堀とほぼ正方形の外堀に囲まれた8つの曲輪により構成され、北西と南西には望楼があったと伝わります。 平城でありながら、長宗我部軍の猛攻に耐え長宗我部軍から和議を申し出たほどの要害だったとは現状からは想像も出来ませんが、香川県内に建つ模擬天守は朝日山城とこの由佐城の2城です。 「由佐城への道しるべ」
R197号を高松市内方面から南に進み、県道13号との交差点を西に進むと川に架かる橋(城渡橋)のたもと模擬天守が建っています。城跡は歴史民俗資料館となっていますので無料の駐車場が完備されています。 由佐城趾 |
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「所在地」:香川県三豊市山本町神田 「形 式」:山城 「遺 構」:空堀 「歴 史」
神田城主は近藤但馬守。 はっきりした記録ではないみたいで正確かどうかは分かりません。「山本町史」では財田本篠城の出城であろうと推測されています 「神田城訪問記」
神田城趾は田園の広がる農村部の丘陵地帯にあるが、その丘陵はきれいに竹林として整備されています。この辺りは竹の子が名産となっています。 日本城郭大系では山頂部の南側には空堀が2条確認できるとあったので登城したかったのですが、あまりに綺麗に整備されていたので、無断で立ち入るのは竹の子泥棒と間違われてだめだと思い、残念ながら撤退しましたので遺構の確認は出来ていません。 「神田城への道しるべ」
R377号沿いの神田小学校と砂川の交差点の間の丘陵部にあるが、神田小学校付近から南を望むと丘陵の麓に緑色の屋根の倉庫が訪問時はありましたが、その倉庫の裏山が城趾です。 砂川交差点から東に最初の電柱脇から田園の中を通る比較的広いあぜ道を道なりに進むと、写真にある城趾石碑が建っているのが見えます。R377号からもよく見ると石碑が建っているのが確認できます。 神田城趾 |
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「所在地」:香川県三豊市仁尾町仁尾 「形 式」:山城 「遺 構」:なし 「歴 史」
仁尾城主は細川頼広。 天正7年長宗我部氏は細川氏が守る仁尾城を攻め、籠城する城兵側も良く守ったが3月3日に落城した。 この地方では仁尾城が落城した3月3日をさけて雛祭りを行っているという。 「仁尾城訪問記」
仁尾城趾は現在覚城院となる。 ここが城であると知っていると、その様子はいかにも近世城郭風であるが、これは城の遺構とは考えられない。 覚城院の裏山は現在山頂が公園となっている八絋山(標高42m)があり城域と考えられるが、今回は訪問できていない。 この地方で仁尾城が落城した3月3日を避けて雛祭りを行っているのは、いかに細川頼広が善政をひいていたのかが容易の想像できる。 |
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「所在地」:香川県高松市木太町 「形 式」:平城 「遺 構」:なし。 「歴 史」
城主は真鍋氏。真鍋氏は香西氏に属し、兵300を率いる武将であった。 家臣達は常に農業を営み城には出仕せず田んぼに出ても武具・食料をあぜに備え直ちに出陣できるようにしていた。 城の名は初めは奥城と言われていたが、対立する十河氏方の神内城と東西に向かい合っていたので、向城と呼ばれるようになった。 「現地案内看板より抜粋」 「向城訪問記」
神内城訪問の折、向城への道しるべもあったので訪れたのであるが、城趾をおもわす遺構は何もなく、小原神社が鎮座する場所は周りより一段高くなっているとはいえ、この段差が城の遺構による物かは確認のしようがない。 川が横を流れ堀の役目をしていたんだろうなと思う程度である。 向城から見る神内城(木太城)はほんと目と鼻の先にあり、この場所に(たぶん神内城の方が後から築いたと思うのですが・・・・)敵方の十河氏に属する神内氏が城を築いてる間、香西氏に属する真鍋氏はどのような心境だったんでしょうか。 妨害したくとも、それを口実に香西氏VS十河氏の全面闘争になるのを避けるため妨害も出来なかったのかもしれませんね。 また、本来なら忘れ去られる城趾であろうが、この木太地区では、「木太地区文化協会」が付近の文化財の道しるべや案内を設置してくれており、向城もその歴史を後世に伝えている。 |





