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日本に勝利した
中国民衆の抵抗
―私が中国で見たこと、聞いたこと―
講師:山邉 悠喜子 さん 731部隊遺跡世界遺産登録を目指す会 会員
東北民主連軍で3年間、鍛えただけのことはある。鍛え方が違う。残念なことに東北民主連軍に加わった日本人の方々は、皆亡くなり、一番若かった山邉さんが最後の語り部として、貴重な体験を教えてくれた。 ハルピン市の平房区にある731部隊の跡地には、「謝罪と不戦平和の誓い」の碑がある。これを募金によって建てたのがABC企画委員会という団体である(山邉さんは元副代表)。「ABC」は核兵器( Atomic weapon ) 生物兵器(Biological weapon )と化学兵器(Chemical weapon )の英語の頭文字から取っている。現在は中国ハルビン市平房区の「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を世界遺産に登録させることや細菌戦と毒ガス戦による中国人被害者支援などの運動をしている。山邉さんもその一員である。
1941年、お父さんの赴任先である本渓湖市へ12歳で渡っている。中国で敗戦を迎え、両親が帰国する中、青年らしい衝動から、東北民主連軍へ参加するという貴重な経験をされた。帰国は1953年である。3ヶ月だけの予定が、実に8年(16〜24歳)にわたり東北民主連軍に参加したのである。その活動の中で、夫となった日本人男性と巡り会い、生まれた子を連れて、8年後に帰国し両親と再会する。まさか実の娘が生きて帰って来られるとは思っていなかったのであろう、父親は「中国の方々にお礼を言って来ただろうな」と言ったそうである。中国では1946年から1949年まで、激しい国共内戦が起きていたのである。しかし、帰国した山邉さんを待っていたのは、人民が力を合わせて国作りに立ち上がる新中国とは正反対の、女性が生きて行くためにアメリカ兵に媚(こび)を売って生きなければならない社会であった。アメリカ兵の豪邸、軒を連ねるトタン屋根の日本人の家々。山邉さんは再び中国に向かった。
山邉さんは、戦後を生きる者は、日中両国の歴史を認識し、理解しなければ、その生き方は不完全かつ一面的にならざるをえないと、書いている。中国への侵略戦争、日本人が中国で何をやったか、この戦慄の歴史を理解するということなしに、日本人としての解放はないということだ。私自身で言えば、撫順戦犯管理所のことや中国人養父母のことを長らく知らずに生きて来た。つい知ったのは訪中した去年のことであった。どうして戦犯を人間として扱うことができるのか、どうして苦しい戦後の生活の中で、敵国の子どもを育てることができるのか。驚きの連続であった。中国人養父母のことで言えば、我々はあまりに無頓着でいすぎた。3000世帯、4000人とも言われる養父母がどんな気持ちで、孤児たちを育て、別れたのか。別れたあと、どんな生活をしていたのか、日本にはあまりに資料がない。資料がないのは無関心の反映なのである。 山邉さんは、2016年、「難忘一家人——一個日本籍中国人民解放軍戦士的真実記録」という本を出版し、東北民主連軍に参加した自らの歴史を振り返ってどう思うかとの質問に、「中国の革命に参加したこと、青春を中国にささげたことを誇りに思う」と明確に答えている。我々もかくあらん。
ネット上にある山邉さんの記事を挙げておきますので参照してください。 http://japanese.beijingreview.com.cn/ztjl/txt/2010-12/09/content_318158.htm http://www.chinalaborf.org/wp/wp-content/uploads/2017/04/yamabey1703rep.pdf https://www.amazon.co.jp/私は中国人民解放軍の兵士だった |
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