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2013.2月 緑フォーラム報告
2月の寒さを吹き飛ばすような郡司さんの講演でした。いわき市で生まれ育った郡司さんは、今は県外に住んでいるためもどかしい毎日を送っています。福島県内に住んでいる人達と県外に出た人達をつなぐ仕事をするため、講談師の神田香織さんたちと一緒に2011年10月に「ふくしま支援 人と文化ネットワーク」を設立し、日夜奮闘されています。昨年9月には会の人達6人と原発事故(核事故)があったウクライナを訪問されています。今回はその報告を中心に語ってくれました。
原発事故があり、福島の原発は止まっていますが、代わって福島にある火力発電所がもうもうと煙をあげて、やはり相変わらず東京のために発電し、電気を送り続けているのです。
みなさん、福島とチェルノブイリとどちらが大きな事故だったか、どちらが放射能汚染がひどいかという問題はありますが、ウクライナは広大な平原です。林業や農業が主体な土地です。住んでいる人口密度が福島と比較にならないのです。いわき市・郡山市・福島市がそれぞれ約30万人、原発から70km離れた仙台が100万人です。人の数が違うのです。これらの人々を移住させることは非常に困難なことです。それで飯館村のように小さな村に目をつけ、仮設を建てて移住させているのです。長崎大にいた山下俊一「先生」が、抜擢(ばってき)されて福島へ来た時、県内20ヶ所を講演して回りましたが、まず訪れたのがいわき市でした。いわき市は原発が爆発した時、風下になっていたため放射能(爆発で最初に出るヨウ素)に最初に汚染された地です。ですから政府も県も非常に警戒しており、住民の不安をなだめるため山下「先生」を派遣したわけです。
ウクライナではチェルノブイリの核事故のあと94の町と村が閉鎖されました。ソ連政府は、いろいろ問題はあったにせよ、すぐに永住できるアパートを用意し、今でも家賃は無料です。日本では、地方交付税が人口によって支払われるため、福島県は県民が県外へ出ることを嫌っています。したがって放射能で汚染された町や村を閉鎖することはせず、新しい土地と住居を提供することもしていません。チェルノブイリ原発4号炉の核事故の翌日、1200台のバスで住民を避難させましたが、なんと1〜3号炉は稼動を続け、廃炉になったのは2001年だったのです。
私達はチェルノブイリ原発から西へ70km離れたナロジチ市を訪問しました。事故前の人口が28500人、事故後が11500人です。ここで公立おひさま幼稚園を訪問しました。事故前には320人いた園児が今は140人に減っていました。訪れて最初に驚いたのは、私達のイメージにある幼稚園とは違って、子ども達の歓声がまるでなかったことです。子ども達が静かで走り回る子どもがいないのです。その理由はすべての子どもが、呼吸器・消化器・視力障害・骨異常・倦怠感などを患っているからです。政府は毎年1ヶ月間の保養を与え、事故後は外国のミルクを与えて育てていたにも関わらず、子ども達の病気を防ぐことはできませんでした。ナロジチ地区中央病院副院長のお話を聞く機会があり、彼の話によれば、事故後2〜3年後に子どもの異常が出始めたそうです。内部被爆によって、3〜4才はかぜをひきやすく、5才からは白血病が増え、甲状腺がんは、子どもは2〜3年後から、大人は5〜6年後から増え始めたそうです。
副院長は、事故後医者が来ないため医師不足となり、補助金も不足していると話していました。彼は日本人に対し、子どもを守るため、子どもの健康状態を毎年1回チェックしてほしいと言っていました。
私達はまた、チェルノブイリ原発労働者の街プリピャチから移住した人たちが作っている互助団体「ゼムリャキ」(同郷人)という所を訪問しました。ここは、政府が永住住宅と補償金を与え、今でも家賃は無料でした。医療費も無料ですが、薬代は自己負担となっていました。住民のもつ病気の内訳は、48%が心臓病、35%ががん、10%が自殺を含む精神疾患でした。これからはがんがもっと増えていくだろうと心配していました。
私はチェルノブイリから日本に戻って、何としても子ども達を守らなくてはと思いました。山下「先生」が福島へ来て20ヶ所を行脚したのですが、最初に来たのがいわき市でした。彼らは、最初のヨウ素が流れたのがいわき市だったのを知っていて、住民の不信感をなんとかなだめなければと思っていたと思います。日本の甲状腺検査は0〜18才まで行われていますが、希望者のみです。
しかも、判定基準というものを勝手に作っていて、A(A1・A2)、B、Cに分類し、検査を受けた子どもには「A1」とか「A2」とかだけ通知が来て、次の検査は2年後です、と言われるだけなのです。これでは、親は安心できません。例えば、A2は「5mm以下の結節または2cm以下ののう胞」となっていますが、これがどうして1年後ではなく、2年後に再検査なのか、2年後の検査で大丈夫なのかという納得できる説明をされたことはありません。 (ちなみに福島県の甲状腺検査の目的は、「福島県健康管理調査における甲状腺超音波検査について」によると、保護者の不安の解消と今後福島県民の甲状腺がん増加がないことを確認していく礎として必要、ということだそうだ。編集者注)
不安を感じ、医療機関を訪れる家族が多発することを防ぐため、甲状腺学会の理事長である山下「先生」は、その地位を利用して「甲状腺学会の会員の皆さんへ」という通知を出しました。
「保護者の皆様から問い合わせやご相談が少なからずあろうかと存じます。どうか、次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、十分にご説明いただきたく存じます。なお、本検査は20歳に至るまでは、2年ごとに、その後は5年ごとの節目検査として長きにわたる甲状腺検査事業となり・・・」
福島県の人々は囲い込まれているのです。
放射能被害は、福島だけの問題ではありません。ウクライナには「復興省」などありません。あるのは非常事態省だけです。復興というのは言葉のまやかしです。原発事故ではなく核事故です。補償ではなく賠償です。加害者である東電が賠償のルールを決めるなんて許せません。「本当にごせっぱらやける(腹が立つ)」 底冷えする2月の最終土曜日、お集まりいただいたみなさん本当にありがとうございました。講演していただいた郡司さんも遅くまでありがとうございました。
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報告
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10月 緑フォーラム
なぜ冤罪はつくられるか
―無実の死刑囚・袴田巌さんの再審を求めてー 講師:無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会 副代表 門間 幸枝 さん 10月27日、無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会、副代表の門間幸枝さんに来ていただき、講演をしていただきました。門間さんの講演では、獄中46年を迎えた袴田巌さんの事件が全くの冤罪であること、数々の無実の証拠があるのに裁判所は頑なに(かたくなに)再審を拒否していることが訴えられました。門間さんは、袴田さんの事件に関わって35年が過ぎたそうです。早く袴田さんを刑務所から出してあげて、救う会を終わりにしたいと話されました。
救う会を行っていることで、よく「ご親族ですか」と聞かれます。実は私は、困っている人を見て見ぬふりをすることは、見せかけの人生、見せかけの信仰、見せかけの家族なんじゃないかと考えたことがあり、新しい家庭、新しい信仰を求めてピースボートで世界を見て回ったことがあったのです。いろんなショックなことがありました。日本に帰って来て、袴田さんのことを知り、たった5人しかいなかったけど、救う会があって良かったと思いました。でも、世界でいろんな困っている人たちがもっともっといる。どうしよう。私たちにできることは何だろう。そうだ、家族で歌を歌おうということになって「門間ゴスペルファミリー」を作ったのです。
日本には140人を越える死刑囚がいます。半数以上が再審を願っています。
皆さんも、その中の一人と知り合いになってください。冤罪は私たちの無関心が作るのです。袴田さんは拘置所の中で拘禁症や糖尿病になって苦しんでいます。私たちは袴田さんに元気になってほしいと思い、千羽鶴を作って拘置所に持って行きました。ところが千羽鶴を拘置所に入れてもらえなかった。なんと「千羽鶴は拘置所の生活に必要ない」と言われたのです。「刑務所を見るとその国の文化がわかる」と言われます。死刑を廃止しているコスタリカという国に行き、刑務所を見せてもらったことがあります。日本の刑務所は高い壁に囲まれて逃げれなくされていますが、コスタリカの刑務所はいつでも逃げられるのです。中に入ると、花が咲き公園のようで、受刑者は絵を描いていたり、料理を習ったりしていました。刑務所から学校へ通うこともできるのです。刑務所の所長さんは、「ヒューマンライツ(人間の尊厳)を中心に運営している」と話していました。面会も毎日でき、半日会うことができます。日本ではたった30分、それも見張りがいてメモをとっていて自由に話せないのです。袴田さんの姉の秀子さんでさえ、もう2年間も会っていないのです。袴田巌さんには46歳の息子さんがいるはずです。 日本は「主権在民」ではなく、「主権在官」なのです。そして「主権在官」にしているのは私たちなのです。私たち自身を大切にし、おかしいと思ったら声を上げる、ひとりでだめならみんなで声を上げようではないですか。袴田さんは洗礼を受けてクリスチャンになりました。袴田さんは、「弱者の正義のために闘っているのです」と表明しています。
門間さんは最後に、世界から権力犯罪をなくしましょう、代用監獄をやめ、取調べの可視化を実現しましょう、と訴えました。
まだまだ解決されない冤罪がたくさんあります。1992年、小学校1年生の女の子2人が殺害された飯塚事件では、逮捕された容疑者に死刑判決が下され、死刑を執行してしまっています。死刑になった久間さんは、一貫して無実を訴え、弁護士が再審請求を準備していたにも関わらず、当時の自民党麻生内閣は非情にも死刑を強行したのです。なんとこの麻生太郎は、飯塚市を含む福岡第8区から選出されている国会議員なのです!こんなことが許されていいのだろうか!
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9月 緑フォーラム報告
9月29日、豊かな三陸の海を守る会代表・岩手県山田町議会議員 田村剛一先生をお招きして、「大地震・津波・原発事故―今 三陸の海を守るために」をテーマに講演会を開催しました。地震・津波の被害が次第に忘れられていく中で、東京で地震・津波が襲ったらどうなるか、3.11の深刻な経験を伝えるため上京していただいた田村先生には心から感謝申し上げます。
最初に山田先生は、日本には「海に放射性物質を捨ててはならない」という法律がないために、六ヶ所や福島で原燃や東電が海に放射能を垂れ流しても罰することができないをこと訴えました。そのため、田村先生たちは、「海に放射性物質を捨ててはならない」という法律の制定を国に求める請願を各自治体に要請して来たのです。その結果、岩手県の33の自治体のうち釜石を除く32の自治体で採択されました。「海に放射性物質を捨ててはならない」というごく当たり前のことさえ日本では規制されてないのです。
今日やって来ましたのは、災害は日本中、いろんな形で起こりうるということをみなさんと一緒に考えたかったからです。そして、3.11の震災を教訓にしてほしいのです。山田町は1万9千人の町です。3.11の時、私は商店街の事務所にいました。海岸からおよそ100m離れたところです。2度目の地震があったとき「ただいま、大津波警報が発令されました。津波の高さは3mです」と放送されました。私は、津波は堤防を越さないだろうと思っていました。私は自主防災の会の会長だったので、高齢者を避難させなければならなかったので、リヤカーを引いて海岸へ降りました。90才台の人がこたつにあたっていて避難しようとしません。10分説得しましたが動こうとしません。最後はあなただけでなく、私も死んでしまうのだから何とか避難してくれと頼んで避難させました。その後、防波堤に登って海を見ようとした時、生まれて初めて「津波だ」という声を聞きました。地震発生から津波まで30分。絶対来ないと言われた高台に住んでいた人でさえ7人亡くなりました。それほど大きな今までにない津波だったのです。でも、自主避難した人は助かったのです。適切に誘導したため、子ども達もみんな助かったのです。ただ、学校へ親が迎えに来て一緒に帰った2人の子どもが亡くなってしまいました。
その後、困ったのは食糧でした。被災した人だけではなくすべての人が困りました。被害を大きくしたのは火事でした。流されないで残った家で火事が起き、ガスボンベが爆発しました。町の消防車は1台以外水びたしで使えませんでした。役場に行ってみて驚きました。役場が真っ暗だったのです。以前、役場は自家発電があるから大丈夫だと聞いていたので、どうしたのかと聞いたら、自家発電があるのは町長室のある階だけだというのです。ろうそくもありませんでした。町長になぜ自衛隊は来ないのかと聞くと、ヘリは夜間飛べないという答えでした。その後、やっと来た自衛隊も水がないため見ているだけでした。火は3日間、燃え続けました。また、トイレが大問題でした。私が震災後にまずやった仕事はトイレの穴を掘ることでした。
復興についてですが、危険区域には住宅を建ててはならないという法律があり、被災地には1軒も新しい家が建っていません。年間660億円もの災害復興のお金が下りるのに、将来設計はと言うと、独立行政法人・都市再生機構(UR都市機構)へ丸投げです。仮設の商店街や養殖場はできたが、収穫できるのは2年後で、それまで現金収入はないのです。漁具やレーダーは自前で用意し、生活費は前借しなければならないため、漁師の3分の1は漁業をやめるだろうと言われています。釜石や宮古など大きな財源のある所は復興が早いのですが・・。
かつて町があった所には、草がぼうぼう生え、町民が草を取る意欲がなくなっているということです。ストレスが多く、仮設で暮らす高齢者は「仮設からお寺行きだ」と話しています。早く災害公営住宅がほしい。自立心が失われていくのではないかと心配です。山田町は1万9千人の町ですが、今は1万7千人に減った。750人の方が亡くなり、あとの人は町を去ったわけだが、中には住民票はそのままにしてどこかへ移った人もいるでしょう。特に若い人たちは、よその土地へ移って行ったかもしれない。復興と言っても、隣の宮城県では漁業特区として企業を入れようとしている。あわび・うには漁師しか取れないわけだが、企業を入れたら資源が枯渇し、沿岸漁業は消滅する恐れがあります。
田村先生は、このほかにも岩手でも牧草・川魚・きのこから放射能が検出され、復興に福島原発が黒い影を落としていると話されました。今、私たちがやらなければならないことは、復興を早めること、そして放射能汚染をくい止めることと話されて講演を終えられました。
東北は震災後2度目の冬を迎えます。仮設はとても寒い。私たちは、これからも一層被災地の人々と連帯し、被災地の人々が希望を失わないように応援していきましょう。
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関東大震災と福田村事件
ー誤りを認め謝罪しない者は、再び過ちをおかすー
6月30日、東京都北区の銀河実験劇場で緑フォーラムが開催された。
今回のテーマは「関東大震災と福田村事件」。講師は部落解放同盟千葉県連合会事務局長の鎌田行平さん。
1923年9月1日に発生した関東大震災時、6500人以上といわれる朝鮮人や多くの中国人、日本人の社会主義者などが虐殺される事件が起きた。それは、日本の軍隊・警察・“朝鮮人が放火した”“井戸水に毒を入れた”などとするデマを信じた民衆によって殺された。
その9月6日に、千葉県福田村(現野田市)の利根川河畔で香川から来た行商団が「不審者」として疑われ、15人中妊婦子どもを含む9名が殺されたのが「福田村事件」である。
鎌田さんは、「大地震によって社会は大きく変わる。平安時代には地震で道が通れず、天皇の権力が届かず、武士の時代になったし、江戸時代には土地が津波で少なくなったために、農地から効率よく収穫をあげる為農業革命が起きた。良くも変わるが、悪くも変わる。関東大震災は、民主主義に向かっていた社会が一転ファシズム化し、震災当時できた帝都戒厳本部や自警団が1945年まで解散されなかったことからみても、一直線に戦争に向かっていったことがわかる。東日本大震災から良く変えていくかは私達の力にかかっている。
事件の底に流れている差別
福田村事件の被害者は被差別部落出身者。加害者は当然口を閉ざすが、被害者もまた、騒ぐと名前や地名も出て若者の就職や結婚に影響が出ると困ると口外しなかった。生き残った当時13歳の少年が年老いて死ぬ前に明らかにしたいと語り始め真相解明されてきた。朝鮮人とまちがって殺したのではなかった。方言はあったが、日本人であることを訴え、教育勅語をそらんじ、般若心経を唱え、薬の行商の許可証を見せても殺された。当時の防犯ポスターには「不正行商人」「浮浪人」「押売」が家庭に来たら電話ですぐ交番に通報するよう呼びかけていて、行商人、部落民への差別がある。被差別部落民の仕事には『穢れを清める』という任務がある。死んだ動物の皮をはぐ、身体から病気を除く薬で治療するなど。その技術を持った民が最下層に差別された。これは、80年前の事件だが、今も変わらず差別があり、事件は解明されない。まちがった事をしても謝らない者は、再びやる。だから、この事件を解明して追悼の碑を建てた。でも差別を無くしていかない限り、冤罪は続き、戦争へと向かう。国家権力や政治も悪いが、一人ひとりが人間としてどう生きるのかが問われる」と語った。
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