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今年はナイトハイク三昧の年だった。夜の俳句ではない。闇山歩きにハマって、しばらく行かないでいると禁断症状の出る常習者になってしまった。 暗闇の山中に入るのだから、1人では無理どころか友人と一緒でも行かれない。そこはそれ闇歩きのスペシャリスト中野純さん( https://twitter.com/_nakanojun_)という頼れるリーダーがグループを先導してくれるのだ。だから危険な場所は行かないし、迷子になる心配もない。そうは言っても、現場に行って初めてわかる道、トレイル、登山道を、月明かり、星明りを頼りに、あるいは小さな懐中電灯を頼りに上り下りするのだから、そしてグループから置いてきぼりを食らわないように必死で進むのだから、一瞬も気が抜けない。その緊張感とスリルが魅力で病み付きになっている。 写真提供:中野純氏 ナイトハイクがあまりにも楽しいので友人を誘ってみるが、ほとんど誰も興味を示さない(年齢もあるけど)。しかしナイトハイクは現在のように四六時中「便利」の世話になってすっかり後退している現代人の人間本来の五感六感を研ぎ澄ます絶好の機会となる。 ナイトハイクでは無燈で小休止するが、暗闇の中で私はただ1個体の人間となり、無意識に夢中で目を開き、耳を澄まし、においを嗅ぎ付ける。すると闇の中には実にさまざまな色合いや音やにおいや皮膚に伝わってくる感覚のあることに気付く。そうしているといつも初めは怖さを感じる闇も、いつのまにか優しい闇になって私を包んでくれるのだ。優しさばかりか闇に包まれて森呼吸すると、これぞデトックス効果で全身が浄化されるのか何ともすっきりした気分になる。若返りの魔法の空気も含まれているのではないかと秘かに思っている。 写真提供:中野純氏 高尾山のミッドナイトハイクでは、日の出を拝んで下山途中の見晴しポイントですれ違った人が、そんな時間に上から降りてくる私たち一行を見て怪訝な顔をしていた。とはいえそれは初秋のことだったので、深夜の薬王院境内にはあたり一帯に憚ることなく声を響かせて夜明かししていると見られる人影グループがいくつもあった。 高尾山から日の出を望む ナイトハイクには、怪談闇歩きのバージョンもあって、それには加門七海さん(https://twitter.com/kamonnanami) という怪談専門の、見かけに似合わず現地でフレッシュに怖い話をしてくれる作家さんが中野さんと共に案内してくれる。先日も冬の秩父山中にオオカミ信仰の名残を探してミッドナイトハイクを楽しませてもらった。 釡伏山ではいくつもの狛オオカミさんに出会ったが、それぞれとても個性的な貌カタチをしていた。 日の入りから終電で帰ってくる時間まで楽しむナイトハイク、深夜から日付をまたいで日ノ出を拝んで帰ってくるミッドナイトハイク、どちらも明から暗へ、あるいは暗から明へと流れる時間を体感し、自然界で行かされている自分を感じる。流れる時間との邂逅は今日の日だけでなく、過去の時間とも境目がなくなっているようでもあり、昔みちを歩いているときなど、昔の旅人になったような心もちになる。 「ほらそこに、編笠をかぶった人が、、」なんて加門さんがまた言っている。 葉っぱを落とした冬枯れの木々が、空に向かって長い枝々を伸ばした先には、満天の星がきらめいている。クリスマスツリーのイルミネーションの発祥はこれに違いないと中野さんが言う。 ナイトハイクの一行は、時に寡黙に、時に感動を共有し合って、そして実に謙虚になって、一歩一歩進んでいく。
魅力は尽きない。 |
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東海大学出版会が出版している月刊誌『望星』を1冊初めて手にして読んだ。今までは掲載されたエッセイを取り出したものをコピーで読んだことはあったのだが、武蔵野市の図書館「武蔵野プレイスに」に所蔵されていることを知って、実物を見ることができた。 バックナンバーも一度に見られるので重宝だが、これが総じて充実した内容だった。 例えば最新号1月号の主な目次は、http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/ から見ることができるが、この中で なぜ「不都合な歴史」と向き合うのか と題したインタビュー記事は、2013年に長野県阿智村にオープンした満蒙開拓平和記念館の専務理事(ご両親が開拓団員)に、「本当の開拓」ではなかった満蒙開拓について聞いている。 この記事はネット上の目次でさわりを立ち読みできる。 国策で行われた満蒙開拓だから、国や県で記念館を造ってほしいと要望したそうだが、それは適わず結局民間団体で建設したという。その記事の最後の数行に目が留まった。今年11月17日に天皇皇后夫妻がこの記念館を来訪されたという。地元紙ではこれを報じたhttp://megalodon.jp/2016-1117-1827-59/www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161117/KT161117ASI000004000.php が、全国紙ではほとんど掲載されていないとあった。天皇ご夫妻は「不都合な歴史」に向き合うことに徹しておられるのか、「山の中のマイナーなテーマの小さな記念館」訪問を選ばれたのは、どのような経緯であったのだろう。 また12月号には映画から歴史を読み直すという、池内紀、川本三郎の対談記事があり、ここではヒトラーを描いた様々なドイツ映画について興味深い話が展開していた。記事中に紹介されていた池内紀氏のweb遊歩人というブログで取り上げていた、ヒトラーの時代「小市民について」が、とてもおもしろい。 http://www.bungenko.jp/yhj/blog/tag/%e3%83%92%e3%83%88%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%80%80%e6%b1%a0%e5%86%85%e3%80%80%e7%b4%80/ さらに遡って8月号では、わが子は戦場へ行くのか いたたまれずに声を挙げた自衛隊の家族、の記事も読みごたえがあった。自衛隊員の息子を持つ父親が、母親が、同じ境遇の自衛隊員の家族に向かって自衛隊の海外派遣の違法性を全国行脚して訴える様子は心に重く響く。 毎号チェックする雑誌にこれからは『望星』も加えようと思う。
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「戦争が廊下の奥に立っていた」という俳句。
普段の日常の暮らしの中に、いつのまにか非日常の戦争が 忍び寄ってきていたというおそろしい様子を謳っています。 「廊下の奥に」なので、暮らしに中にすでに深く入り込んでしまって いて、もはや後戻りできない状況ということなのでしょう。 作家の中島京子が「平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反する ものではなく、気味悪くも同居してしまえる」と語っています。 政治家や軍人、官僚など、歴史を動かす決断をした人たちではなく、 一般の人々にとって、あの時代はどういう時代だったのか、なぜ戦争 に向かっていったのか? 当時の記録に触れると、文化的には円熟期であり、都会の市民層には 教養もあり、分別もあり、平和主義的な傾向すらあったように見える。 しかし、歴史の教科書が教えるように、軍国主義が力を持ち、他国を 侵略し、おびただしい犠牲者を出した時代だ。その明るくて文化的な 時代と、暗くて恐ろしい残酷な時代がどう共存していたのか、 どこで反転したのか? 私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人々の日記などを 読んだ。出来るだけ当時の考え方、価値観がわかるものを調べた。 するとだんだんわかってきた。そこには、恋愛も、親子の情も、友情も 美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。 いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしが あった。 一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な 宣伝に簡単に騙されてしまう主体性のなさも、浮かび上がってきた。 豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争はどこか遠い何処か で行われている他人事のようだった。 廬溝橋で戦火が上がり(1937年)日中戦争が始まると、東京は好景気 に沸いてしまう。都心ではデパートが連日の大賑わい。調子に乗って 外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様 たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴」なんて、デパートから戦地 へ「直送」してもらっていたようだ。戦闘の事実は市井の人々から遠か った。これは1939年の「朝日新聞」の記事から読み取れる。 廬溝橋事件からは2年が経過している。しかし、この後、戦況は願った ような展開を見せず、煮詰まり、泥沼になってきて、それを打開する ためにと言って、さらに2年後に日本は太平洋戦争を始める。 また勝って景気がよくなるのだと人々は期待する。 しかしそうはならない。坂を転げ落ちるように敗戦までの日々が流れる。 人々の無関心を一方的に責めるわけにはいかない。戦争が始まれば、 情報は隠され、統制され、一般市民の耳には入らなくなった。 恐いのは、市井の人々が、毒にちょっとずつ慣らされるように、 思想統制や言論弾圧にも慣れていってしまったことだ。 現代の視点で見れば、さすがにどんどんどんどんおかしくなっていっ ているとわかる状況も、人々は受け入れていく。当時流行していた言葉 「非常時」は、日常の中にすんなりと同居していってしまう。 日常の中に入り込んでくる戦争の予兆とは、人々の慢性的な無関心、 報道の怠惰あるいは自粛、そして法整備などによる権力からの抑圧の 3つが作用して、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿状態が作られ ることに始まるのではないだろうか。その状態が準備されたところに 本当の戦争がやってきたら、後戻りすることはほんとうに難しくなる。 平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反するものではなく、 気味悪くも同居してしまえるのだと、歴史は教えている。 (2014年8月8日 朝日新聞より抜粋)
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今日、天皇から投げかけられたメッセージを聞いて、私はかなり感動した。不覚にも涙がこぼれた。それは以下の部分を聞いたときだった。 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。 とりわけ「皇后と共に」と敢えて言葉にされた後、「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と述懐されたのを聞いて、天皇はいつも自分の方から国民のそばに寄り添う姿勢を貫いていらしたのだ、それはまた結構なラブコールであり続けたのだと認識した。 かつての大日本帝国憲法の中の、あるいは自民党の改憲草案の中にあるような、国の「元首」などという厳めしい存在からほど遠いイメージである。 御年82歳?の天皇は、10分以上のメッセージの文章を一度も閊えることもなく、穏やかに淡々と読み上げた、というよりスピーチされたことだけを取って見ても、それ相当の強い意志と自信を携えた方なのだなと推察した。逆にその意志と自信が揺らぐ時は、国民が目に見えて不幸になるときなのではないかと思った。 この天皇のメッセージを聞いた直後に、安倍首相のコメントを伝える映像が流れたが、この時の首相の表情、言葉のなんとギクシャクとしたぎごちないものだったか。これはいったいなぜなのだろう、何にイラついているのだろうと思ったら、「重く受け止める―」と言い捨てるようにして言うなりそのまま踵を返して立ち去ってしまった。 あれはいったい何? まるで天皇メッセージに後ろ足で砂をかけるような態度じゃないか。 ともかく、2016年のメッセージがかつての「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び〜」のメッセージの再来ではなくてよかった。
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参院選挙の前に、止むに止まれずこれまで政治がらみの話をしたことがなかった知人らに、言葉に気を付けながら、選挙の争点の最重要事項は国のカタチを変えることの是非が問われていること、野党に投票してほしいことをメールで訴えた(電話は苦手)。 私はたとえば地元の選挙で「〇〇さんに投票して」のような応援はできても、〇〇党はダメ、〇〇党に投票を、みたいなことは苦手であった。逆に自分が言われたらむしろむかつく。だから露骨に現政権を批判する言葉は避けたので、私の気持ちがどれほど伝わったかと反応を気にしていたが、返事をくれた人はほぼ一様に現政権の独裁的な手法を怒っていたが、、 しかし、選挙の結果は改憲発議ができる2/3を超える議席を与党に与えてしまった。 三度の与党の勝利も、巧妙な選挙制度、投票率の低さ、腰の引けたメディアが成せる業だろうと思う反面、今回ほんの少しではあるが知人とのやり取りから垣間見えたのは、現政権の政治手法を批判し、けしからん、と立腹しながらも、その程度は人さまざまで、一貫性が無かったり、党より人柄で選ぶとしたり、彼らの批判、怒りの矛先は必ずしも投票(選挙区と比例区)に直結していないのではないかという疑問だ。 平たく言えば危機感が薄いのではないか。私のメールにおおかた同意の返事をくれた人たちも、そこには「おとな」の社交辞令じみた気配もあって、怒りも批判もどこか他人事。その甘さが毎度毎度の結果を招いているのではないだろうか。 今日、ネット上の以下のツイートを目にした: 「長谷部恭男さんは、人々は日常や生活設計を楽しみ悩むべきで、日々憲法について考えなければならないのは不幸だと言った。憲法を忘れての幸福追求を可能にする立憲主義を壊させないことが、そうした不安から解放される早道だと。」 多くの私たちはこれまで憲法には無意識に暮らしていた。危機感が薄いのは平穏の裏返しかもしれない。憲法を忘れていられるほどほどの国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3原則に守られた世の中だったからだ。しかし今それを失くすため、形骸化するために、憲法を変えようとする力がある。 空気のように、無くして初めて現憲法の価値がわかるのでは遅い。
今こそ、危機感を持って憲法と向き合わねば。 |


