|
私は地元生協の組合員活動として農産委員をしている。食べ物の基本は地産地消、不土不食。昨今は一年中食べたいからと言って地球の裏側からかぼちゃを運んできたり、お隣の中国からは安いよと言って、いろんな野菜がやってくる。季節感はなくなり旬がわからなくなり、残留農薬の問題もある。 |
つれづれなるままに
[ リスト | 詳細 ]
|
ぎょっあぁぁーっ!! 起き抜けに出し抜けに、台所へ足を踏み入れたとたん大きなゴキブリと鉢合わせしてしまた! なんてこと。越冬ゴキブリだ。風呂場でコオロギさんと会った時はほんわり和んだけど、ゴキブリにはそうはいかない。やおら手を伸ばしてなんでもいいから殺虫剤を噴射した。さすが弱っているのかヤツはもはや逃げることもできないで、のた打ち回っている。殺しておいてあまりいい感じはしない。はい、台所はちゃんときれいにしておかないといけませんね。反省。 |
|
私の活動母体である9条の会in****などが実行委員会を作って企画推進している、市民参加型憲法9条ミュージカルの後援を県や市に申請したところ、憲法改正論議の最中、中立を保たなければならないから護憲色の強いミュージカルの後援はできないという理由で断られて以来、中立ということを考えている。 中立を保つ。なるほど一見説得力はある。しかし私の友人は憲法改正については中立などありえないと言って憤慨している。 賛成か反対かしかないでしょう。 憲法そのものについても守るか守らないしかない、と彼女は言う。いわく、 憲法を守る気持ちがないから中立だなんて言って逃げてるにすぎないのだ。憲法はどんな条例、法律より上に位する最高法規なのだから、それを守ろうと言うテーマのミュージカルを後援することのどこがいけないのか。護憲の反対は改憲であるより前に違憲であるはずではないか、という論理だ。
恐らく、後援を断った行政側の論理を支持する人には彼女の論理は通じまい。それはそれで仕方ないと思う。
しかし私がいまだにモヤモヤしているのは、中立という言葉に隠されたものだ。 話は少し変わるが、一般にテレビをつけるとどのチャンネルにもコメンテーターなる人たちが入れ替わり出てきて、気の利いた風なことを何十秒間かしゃべって納得し、させている。 人それぞれだからみな自分の好きなコメンテーターというのがいるかもしれないが、贔屓目を外してじっくり顔ぶれを眺めると、あるいはしゃべっている内容を吟味すると、どのコメンテーターも(辛口とか過激とか言われる人も)、足元踏み外さないように(まあそれが自分の言葉に責任を持つということかもしれないが)、核心の1歩手前で足踏み、後戻りしている人ばかりのような気がする。 この喩えは自分でも気に入っているのだが、ゲームセンターのコイン落としゲームの、落ちそうで落ちないもどかしさをコメンテーターのコメントに感じるのは私だけだろうか?いや私がゲームセンターの喩えを引いたのは、それがそのように仕組まれている、という点である。 テレビ局、あるいは番組プロデューサーは、中庸のコメンテーターばかり集めているような気がする(特にレギュラー陣は)。無難だからだ。そしてそれこそが「中立」という耳あたりのよい言葉で言い換えられているのではないだろうか。 こんなこと言うのも、先日のテレビ番組で各局のベテランアナウンサーが揃ってオダを上げ、オンエア中のスタジオになだれ込んで言った言葉が「中立」だった。 「この番組はいいねえ。司会者がいつも中立保ってくれているもんね。安心して見ていられるよ。」というふうに。 そうか、人は自分が大勢から外れたところにいたくないのだな。大勢の中に紛れ込んでいるほうが安心なんだな。そういう気持ちはもちろん私にもあるけれど、でも事が重要な議論のとき、自分の考えより世間体や世間の目を優先させるなんて、そしてそれを「中立」だなんていう言葉で言いくるめるのはやはりよくないと思う。それは逃げだ。 それで再び、後援を断った行政官に話は戻るけれど、彼らも独自の論理を構築してまで護憲ミュージカルを後援しようという際どさを選択しなかったということなのだろう。そこでは「中立」という言葉はとても簡便な言葉ではある。
|
|
ウチの風呂場で越冬しているコオロギさんに出会った。 |


