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いわゆる9.11テロから丸5年がたち、先週末あたりから各局で特集番組など放送され、あれはいったいなんだったのか、事件直後と違って少し冷静に分析されているようでもある。 それにしてもあの日を境にテロが始まったみたいな、対テロの起点として見ている視線はゆがんでいると思う。 国対国の戦争だけでなく、非政府戦闘組織の抜き打ち攻撃で大量虐殺された人民は、悲しいことだけどこの地球上に今も絶えない。たまたま日本で生まれ育った私はきょうまで戦闘による命の危険に曝されたことがなく、平和ボケ自体それはそれで大変ありがたいことではあるけれど、だからといってアメリカの言うことを鵜呑み、鸚鵡返しして、テロに屈するなあ〜!などと言うのは単純を通り越して単細胞。9.11以前も以後もテロで命を落とした無数の人々のことも、ほんの少しだけでも思いを寄せたい。 人の命に軽重なしとはいえ、9.11で亡くなったアメリカ人を気の毒に思えるのに、たとえばイラクで、アフガニスタンで、東チモールで、ペルーで、ロシアで、ルワンダで、虐殺された一人一人に思いが及びにくいのはなぜだろう。 それは一にも二にも、顔が見える関係かどうか、声が聞こえる関係かどうかだと思うのだ。 アメリカ人犠牲者は名前も顔も家族までテレビで放映され、悲しみが自然に伝わる。 一方その他諸国の犠牲者は映像は流れても、なかなかライブでは流れない。 日本と近しい国とそうでない国だから致し方ない、というくくり方もできるかもしれない。 でもちょっと待てよと言いたい。感情移入にゆがみはないだろうか。 意識的に仕組まれた感情移入ではないだろうか。 要はどれだけ自分事に置き換えられるかということなんだが、所詮人間というのは自分が好ましいと思う人の不幸には心が痛む半面、無関係の人の不幸には無関心でいられることも事実だ。 でもだからそういう性(さが)に付込んで、一方では感情に訴え訴えして身近に感じやすくされる人々と、まるで無視される人々との落差を、この際少しは考えられたらと思う。 わかりやすい話を一つ。 動物が擬人化されているアニメは数多いが、擬人化された動物が言葉を話すのに対して、擬人化された動物に食べられる別の動物は決して言葉をしゃべらない。それはなぜか。 食事の場面が殺しの場面になってしまい、子供の見るアニメではなくなってしまうもの。 それと同じじゃないかと思う。 動物同士でも主人公サイドしか言葉を話さない=感情移入できるのは一方だけ。 人間同士の戦争でテロで犠牲となる人の声が聞こえるか聞こえないか、それはどうやらこちら側の心の持ちようだと思うのだが、どうだろうか。 それで、何が言いたいのかって? 一方側からだけ見聞きして判断してはいけないって、当たり前のことを言ったまでかな、、、。 |

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