気まぐれ日記

気まぐれグランピーの世相やぶにらみ

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年の初めに東京都立中央図書館企画展示
「東京凸凹地形 ―地形から見た東京の今昔―」を見に出かけた。
普段自転車に乗っていると、わずかな起伏にも敏感になり、地図を見るときも自然に土地の高低にも意識が働き、どこかへ出かけるときもなるべく登りの緩やかなルートを選んでいる。それでもどうしても避けて通れない上り坂はあるものだ。
おおよそ自分のチャリ範囲のところの地形は頭にインプットされているが、全体図をいっぺんに俯瞰するのは、グーグルマップがせいぜいである。

この凸凹展示会には都内都心部の微地形模型が展示されていて、その凸凹具合がよくわかる。山手線沿線上で一番標高の高いのは新宿高層ビル群のあたりで、それが海抜41mであることがわかるまで海面から1メートルづつ海抜が地形模型を上っていく(満ちて行く)さまはおもしろかった。

会場には図書館が所蔵するたくさんの関連書籍が並び、自由に手に取って閲覧できるのも楽しいが、そこですべて見られなくても、展示目録ができているので、一覧表は今後何かと役立ちそうだ。

暗渠好きの私には魅力的な暗渠関連本が並んだコーナーもあって、あれもこれも読みたい本ばかり。

都立中央図書館のある有栖川公園も土地の高低を活かした趣のある公園だが、チャリで都心へ到達するまでにはいくつか登り坂を越えなければならない。その分帰路はだいたい下り基調になるので、今日もルンルン気分で有栖川からチャリで帰ってきた。

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邦題が少しばかり癇に障るが、前から気になっていた映画をようやく観ることができた。
映画については公式サイトを。 http://www.anohi-movie.com/

この映画は名曲Speak lowのために作られたとしか思えない展開だった。最初にラストシーンありきで、そこから逆算して物語を作ったのだろう、と観終わってから思った。
ラストシーンで石のように固まってしまった登場人物を見ながら私も息を飲んでしばらく動けなかった。

それほど落差が大きかったからだ。
そもそも大手術で貌が変わってしまったからといって、妻だった女性を見て、声を聞き、軽く触れあってなお、わからないなんてことがあるだろうか。それに大整形手術をしても手術の形跡が窺がえないなんてあるものか、のようなごく現実的な事を思いながら、ふんふんと観ていたのにー。

それが最後の最後で、そんなことはこの映画ではどうでもいいことだったんだと気づいた。

この映画の宣伝文句で、夫ジョニーは妻ネリーを愛していたのだろうか、それとも裏切ったのだろうかそれが問題だ、みたいに投げかけているのもあるが、それすら二次的問題のように思えた。

これは言って見れば人間の「格」の違いを問題にした映画なのではないか。「格」と言って語弊があれば「ハク」の違いと言えばいいかもしれない。

ヒトラー政権時代を生きたジョニー(非ユダヤ人)は妻(ユダヤ人)を愛していたはず、ナチスから妻を一生懸命かくまったはずではある。ただし狂気の時代には限界があった。つまりジョニーは人間の弱さを併せ持つごく普通の男だったのだろう。
一方ネリーは悪夢のユダヤ人収容所から奇跡の生還を果たした、地獄の淵を覗いてなお生き延びた筋金入りの強靭な女である。

戦争は、ごく普通の夫婦だった男女の人間の格まで大きく変えてしまった。
二人はこの先元通りの夫婦に戻れるだろうか、、いや戻れるはずがないと私は思うが、ネリーの歌の最後の言葉は、たしか"I'll wait,"だったから、やり直す気持ちを暗示したのかもしれない。


Speak lowは大好きな曲。(この曲を作ったクルト・ワイルもユダヤ人で、迫害を逃れてアメリカに亡命した。)You Tubeでこの歌手がこんな風に歌っているのを見つけた。

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年末に映画『ハンナ・アーレント』 http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
を観て以来、「悪の凡庸さ」について頭から離れない。アイヒマンを捕えてみれば、悪の権化のイメージとはかけ離れた、あまりにも小粒のどこにでもいそうな小市民であった。すなわち、ユダヤ民族撲滅を図った史上最悪の罪業といえども、それを引き起こしてしまったのは一人の特異の極悪人(ヒットラー)がいたからではなく、それを支えた無数の普通の人々がいたからだとする考え方である。
裁判にかけられたアイヒマンは言う、自分は上官の命令に従っただけだ。たとえば自分が命令に従わなかったとしても、代わりの誰かがそれを遂行したであろう。それだけのことだ、、、。
そのありふれた開き直りを聞いて、「それは通常の上司の命令とは問題のレベルが違いすぎる話だろう」と簡単に捨てておけるであろうか。いったいどこまでが通常の命令で、どこからが尋常ではないと判断できるのか。それに尋常ではないとわかっていて、人はどこまで上司の命令に背くことができるだろうか。しかも戦時であればなおさらのこと。

また「悪の凡庸さ」と関連して考えてしまうのは「無関心ゆえの加害」である。
いったい私は無関心であってはならないことに対して無関心であるがゆえの加害者に、どれほどなっているだろうか―。
「無関心であってはならない事」は時々に変わるかもしれないし、人それぞれで大きく異なることではあろうが、それにしても「悪の凡庸さ」と関連して「無関心ゆえの加害」を考えてしまうのは、目の前のどんな社会状況にも思考停止で無関心になってしまうことの恐ろしさを自戒を込めて思うばかりである。

もう少し具体的な話をするなら、昨年12月6日にあのように強引に秘密保護法を成立させてしまったこと。また沖縄の基地問題で、あるいは福島原発被災地で、多くの人の苦悩をよそに、それをどこ吹く風で暮らしている現在の日本の多数派。(私ももちろんその一人なのだが、、。)
そのような現状を見て、今の「思考停止」が「凡庸の悪」と重なるところ、重ならないところ、など考えると無能の頭ではますますもやもやしてしまうのだ。

身近な引き合いを出すと、私は選挙のたびに自分の子供などに投票を促し、その理由も簡単に説明している。秘密保護法案審議の時も注意喚起した。
しかし私よりもっともっと将来影響を受けるはずの世代者であるのに、関心は薄く、のれんに腕押し状態だ。ただし明らかなのは、彼らは毎日の生活で精一杯だということ。それ以前に考えることをしないのも確かではあるが。

そういう無関心層は、今後ますます息苦しい時代が来たとしても自業自得と言って諦めるべきなのか?
それとも鈍重な無関心層はどこまで行っても無関心を通して、息苦しさにも無感覚でいられるのだろうか。そのような人間は馬鹿なのか、小利口なのか、幸せなのか、不幸せなのか、、、

などなど、現状と絡めて、また自分と絡めて、「悪の凡庸さ」とそれを思い通りにする見えない力の存在を感じて、もやもやは晴れない。

2月9日には都知事選が待っている。

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前評判も賑わっていたが、一般公開後の評判もうなぎ上りで、つい先日の日本禁煙学会からの苦言が逆に袋叩きに遇っているようだが、この映画を見ても今一つ気持ちが乗れなかった。
私は宮崎駿アニメのファンというほどではないにしても、過去の作品で大好きな作品はいくつもあるし、先ごろの憲法へのメッセージ(憲法を変えるなどもってのほか―「熱風7月号」)も力強く思っている。 

でもこの映画は正直のところ、掴まえどころがなかった、というか共感するところがあまりなかった。宮崎監督と主人公の飛行機(大空)への憧れが強すぎて、それが何よりも優先されているみたいで、底流にも「反戦」は感じ取れなかった。反戦ならOKと言う意味ではないけれど、無理やり「反戦」を嗅ぎ取って「反戦・平和」を訴えている映画などと言わないほうがいいと思う。

飛行機の事など全くわかっていない私が言っても何の意味もないかもしれないが、それでも乏しい知識の中で「ゼロ戦戦闘機」というのは乗り手の人間の命より戦闘機としての機能を優先した「非情」な飛行機だと思っていた。日本軍の命令でそれを設計した人の話だから、最初からこの映画に「反戦」は当てはまらないと思った。(宮崎監督も反戦がテーマではないと言っていたような気もする。)その意味では韓国からの抗議(この映画は戦争に協力した人の話だ)の方がわかりやすい。

主人公が憲兵から追われて身を隠していたというエピソードも無理やり挿入されているようで結局よくわからないままだった。ゼロ戦を設計していた重要人物なのだから身辺護衛されるならわかるが、なぜ追われていたのだろうか。その辺も映画を曖昧にしていた。

しかしタバコの描き方は逆にこの主人公を表すのに上手に使われていたと思う。   
 そう、この主人公は優しくないのだ。たとえば重病の愛妻の枕元でタバコを当たり前に吸っているのは当時としては普通の風景だったにしても、私には主人公の温かみの無さを伝えるのに充分だった。飛行機の機械的なところ(夢や空想も含めて)ばかりが目立ち、人間の内面の優しさとか温もりが余り感ぜられなかったところが、この映画に共感できなかったひとつかもしれない。

映画の終盤でゼロ戦の無残な残骸が野ざらしになっているシーンが、戦争の結末を表しているが、そこにはもう主人公はどこにもいなくて、回想シーンだけに登場しているのも、何か分断させられた感じだ。ゼロ戦の残骸とこの映画の主人公とは関係性を持たせたくなかったのかもしれないが、妻の命と引き換えにしたともいえるゼロ戦の最後を見つめる主人公の眼も見て見たかった。

結局私は特別の感動もないまま映画を見終えてしまった。

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今日、こんなニュースが出ていた。

 テレビ東京・大江麻理子アナがNY転勤 「モーサテ」NYキャスターに

  「アド街‐」や「モヤモヤ‐」などの番組はすべて降板。後任については調整中という。同局広報で  は大江アナのニューヨーク転勤について、「通常の人事異動です」としている。


そ、そんな、、。私は大江アナのファンで、モヤサマ大好き。 
モヤモヤさま〜ず2と言う番組を見始めたのは、ゴールデンに移ってからだったけれど、深夜版がおもしろくてツタヤで何度も借りてきて見ている。ツタヤでは他には何も借りない。モヤサマだけ借りている。
なぜかと言うと大江麻里子さんが魅力的でおもしろいからだ。

モヤサマのユニークなところはたくさんあって、どこがおもしろいのか数え上げればキリがないが、その要にいるのが大江アナだ。番組中に何度も流れるシーンで、お決まりのBGMをバックに、さま〜ずの二人が前面に立ち歩き、その真ん中を一歩下がって大江アナが歩いて進むシーンがあるが、さま〜ずと大江アナの立ち位置を象徴しているようなこのシーンも、私の眼には水戸黄門の逆バージョンに見える。大江アナは一歩さがっているけれど、さま〜ずは介さん角さんにしかみえない。

いつかどこかのモヤサマ番組評で、大江アナは「お城の中から城下町に降りてきたお姫様みたい」という表現を見かけたが、まさにその通りで、モヤサマでの大江アナの振る舞いにはどこかあの、ローマの休日のオードリーを彷彿させる、天真爛漫さと好奇心旺盛さと、まじめで上品な匂いがある。
お転婆で、どんな滑り台でも滑りたくなったり、負けん気で、水風船を本気で投げ合ったり、思わぬところで涙ボロボロだったり、はてはコックリコックリ居眠りしたり、その一部始終が「捨てておけない」のだ。

もちろん大江アナ以外にも、モヤサマにはいろいろおもしろいところがあるけれど、4月以降、要のいなくなったモヤサマなんかみたくない。これからはまたまたツタヤでDVD借りてきてこれまでのモヤサマを見ることとしようか。

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