気まぐれ日記

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暗殺リトビネンコ事件

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 アンドレイ・ネクラーソフ監督作品の「暗殺・リトビネンコ事件」を見た。

  http://litvinenko-case.com/aboutcase.html

 リトビネンコ暗殺から1年たつ。その当座は、ベッドから空ろで寂しげな視線を投げかけているリトビネンコ氏の映像と、放射性物質による毒殺という死因に日本中が衝撃を受けたが、今では「リトビネンコ」と名前をはっきり覚えている人はかなり減ってしまっただろう。

 そしてほぼ同じ時に同じく不条理にも暗殺されたロシア人ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤ氏のことにしても、日本では十把一絡げにして過去の物になってしまったようだ。

 しかしこの映画を見て、リトビネンコ事件やポリトコフスカヤ事件は現在のロシアで起きた事件だが、このような暗殺、つまり国の中枢が犯罪に絡んでいるかもしれないという不信を残す暗殺事件は、究明、解明されないまま古今東西を問わず起きていた(いる)のではないかと思った(程度の差こそあれ日本でも。)

 だとしたらこの事件を外国で起きた、自分には関係ない暗殺事件だとして、簡単に忘れ去ることはできない。

 映画を見て印象に残ったことがいくつかあるが、アンナの言葉の中に「国際社会の無関心」というのがあって、気持ちが寒々とした。こういう事件の場合、各国はうわべの批判をしても本気にならないらしい。それを象徴するのが事件の容疑者とされているルゴボイの言葉だ。
 事件の舞台となったイギリス捜査当局は、ロシアに対して、アンドレイ・ロゴボイ容疑者の引き渡しを求めていると言われているが、当のルゴボイは「どこにも逃げ隠れもしていないのに、誰も来ない。話の一つも聞きに来やしない。」と拍子抜けしたようなセリフを吐いていた。
 
 映画では生前のアンナが何度も登場して精彩を放っている。
 アンナの記事を載せた新聞を求めて、ネクラーソフが街頭の新聞スタンドを探しまわるシーンがあったが、行けども行けどもなくて、ようやく1軒で隅に押し込まれて埋もれていたのを引っ張り出すところがあった。もちろん売り切れで無いのではない。取り扱ってないのだ。マイナーということなのか。マイナーである限り、国民のマジョリティが知るものにはならない。
 アンナも暗殺されてしまった今は、むなしく聞こえるが、こんな事を言っていた。
「政府は私が何を書いてもお構いなしよ。どうせ誰も読みはしないだろう。読んでも誰も信じないだろうって。」
 アンナの読みは甘かったのだろうか。あるいは閾値を越えてしまったのだろうか。

 ネクラーソフは西暦が2000年になる以前からリトビネンコに注目していて、彼を追っていたからこそ、このような奥深いドキュメンタリーが出来上がっている。彼の私生活にも踏み込んでいて、親子3人で街を散歩するシーンがあるのだが、そこだけ見ているとほんとうに微笑ましく暖かく幸せに満ちたシーンで、それだけ悲しみが募る具合になっている。

 そう、この映画の登場人物はネクラーソフも含めて、みんな被写体としてすばらしい顔つきをしている。俳優でもないのに俳優顔負けの演技ではない、生き様を見せている。その姿をとても美しいと思った。

 リトビネンコやアンナのような良心の人間がむざむざ暗殺されないためにも、私たちはこの事件を忘れてはいけないのだと思う。
 映画を見て、そうは言っても自分に何ができる、と無力感に襲われるかもしれないが、
知っている事と知らないでいる事の差は大きい。
知っていればいつかどこかで何かの暴走のブレーキがかけられるかもしれない。

 まだ渋谷のユーロスペースで上映しているはずなので、ぜひ見てください。

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 歴史上の伝説的大泥棒ジェシー・ジェームズと、ジェシーを暗殺した手下のロバート・フォードが織り成す心理ドラマ。
160分という長編でしかも派手目のスペクタクルシーンは序盤の列車強盗のシーンぐらいで、
あとは延々と地味目の腹の探りあいのような筋書きの映画なのだが、それでも一気に見た。
画面に出ている人物の表情一つ、言葉一つ、つまりディテールを思わず注視して見るうちに、
気がついたらラストまで来ていたのだ。ということはうまくできている映画なのかな。

例によってあらすじはこちらでどうぞ。


 女、子どもはまったくカヤの外の映画だ。19世紀の荒涼としたアメリカ中西部の大草原と、そこに暮らす人々の生活ぶりがそのまま画面から伝わってくる。
背景にある自然環境は情け容赦なく人間を鍛えている。そこにはみじんの甘えも油断も忍び込めない。
凍てつくような寒さの中、薪を割り暖を取るように、
自分で自分を守るしかない四面外敵の環境下で、人は自然に銃を手に取った。
銃社会アメリカの原点を見るようだった。

 ブラッド・ピットのジェシー・ジェームズも良かった。同時代人も後世の人も彼を英雄と讃えるが、この映画のジェシーは孤独と諦観と厭世で包まれている。暗殺されたといっても、この映画ではまるで自分から暗殺を誘導したような描き方で、半分自殺のような死に方だった。
彼は病気持ちだったそうだし、人生の希望とか展望とかには全く無縁だった。

 それでもそこにいるだけで大きな存在感のあるジェシーと、臆病で小心者のロバートとの対比が鮮やかだった。映画のロバートは、しかし小物を演じて小物に終わらず、堂々と英雄ジェシーと対峙している。

 ジェシーを暗殺したのはジェシーの手下のロバートだったが、ロバートには同じく手下の兄がいたし、姉も絡んでいたし、ジェシーにも兄やいとこがいた。
つまり登場人物の血縁関係が結構重要なモチーフになっていて、フロンティア時代の血縁の繋がりは、厳しい自然条件下で生きるための大事なカギだったのかもしれない。

 厳しくも美しい大自然のロケはカナダのマニトバで行われたようだ。
人間に寄り添ってくれているような日本の自然とは全く違う、大陸の自然というものが良く現れていた。
自然環境が違えば当然違った人間が育まれるはずだ、と納得した映画でもあった。

 

The Good Shepherd を見る

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二時間半を越える長編だが、ぼんやりする間もなくエンディングまで一気に見てしまった。
時間の流れが1940年の開戦前後と1960年代初頭と、ほぼ20年のギャップで複層して進み、
それにつれて登場人物も若返ったり年を取ったりして、かなりわかりにくい部分もあった。

所詮はアメリカ人のためのアメリカ映画である。
いくつかのキーワードがあり(CIA, FBI, Skull&Bones, 愛国心、カストロ、JFケネディ、エスタブリッシュメント、キューバ、ソ連、、)アメリカ人にとっては「常識」だから肌感覚で掴めるのだろうが、
外人(そとびと)の私は、年齢的には適用範囲内に達していながら、アメリカ人と同じ土俵で見られる映画ではない。

とはいえ、そういうことを差し引いても、かなりおもしろかった。

最近日本では「愛国心」を押し付けあったり、なすりつけあったり、強要したりで、ある種の鬱陶しさがあるが、この映画から感じられる愛国心は、WASP(White Anglo-Saxon Protestant=白人のエリート支配層)ならではの愛国心で、この国は自分たちWASPのものだとする、ある種の傲慢さと偏狭な使命感がぷんぷん臭っている。

映画の主人公エドワード・ウィルソンも超エリートWASPで、国(軍)から目を付けられてCIA諜報員になり、中枢まで上り詰めていく精鋭である。自分の家庭より国家が大事、をモットーに歩んできたエドワードだったが、二者択一を迫られる時が来た。


*Skull and Bones(S&B、頭骸骨と骨)はアメリカのイェール大学にある秘密結社。構成員同士が協力し合い経済的・社会的に成功することを目的としている。入会と同時に、過去の恥ずかしい秘密を暴露させられ、その秘密を共有することによって結束を深めるという。
一方で、ユダヤ財閥と密接に繋がっているとも言われている。
ブッシュ現大統領も、その父、祖父とも三代揃ってS&Bのメンバーだった。

映画の舞台は1960年代だが、CIAもS&Bも諜報活動も、今現在に至るまで同じように続いているのだろうとたやすく想像がつく。もちろんドキュメンタリー映画ではないにしても、エドワードのような諜報員は過去にも今もいるに違いない。
エドワードのセリフのなかに、「一身を尽くして国の安全のために働いている。これからも家族を守るため必死で働く、、」のような一言があって、それを言われた妻が返した言葉が良かった。
「私たちの安全のために働くですって?!
 あなたがいっしょにいるときほど危険を感じて恐くてたまらなかった。
 だからこれからは安全を求めて、あなたから離れて暮らす事にするわ。」
そう言い捨てて実家の母親の元に行く妻を演じたのはアンジェリーナ・ジョリーだが、
愛情に飢えた苦悩と哀しみが、こちら側に伝わってきてなかなかよかった。

 映画の中の1960年代のセリフに、アメリカは軍産複合体の国家なので、戦争を探して来なければ機能しない。アメリカにとってソ連は脅威ではないことは明らかなのだが、脅威にしておかないと巨大な軍備の言い訳がたたない、、、と言うところがあって、今はそれがソ連ではなくて、テロリストなのかと思う。

 スタンダードジャズ好きの私には、場面のBGMにどんな曲が流れるかも、時代物映画の楽しみである。
 Blue sky, Embraceable you, Night and day, So in love, Fools rush in, ,,

 とは言え曲名がわかっても、その曲がヒットした時の時代背景、時代模様までは、やはり外人にはわからないままだが、どうにもならない。

 結論:ダビンチコードよりは面白かった。

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絵画鑑賞も良いのだけど、混雑してがやがやわさわさした会場で絵を見るのは嫌だ、、
そういう方には金曜夜の美術館がお勧めです。
一部の美術館は金曜日の閉館が午後8時だからです。
ということで今夜私は、損保美術館の『サーカス展』を見てきました。
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http://www.tokyo-art.info/web_f.htm
  2007年7月14日(土)―9月2日(日)
  損保ジャパン東郷青児美術館
  サーカスをモチーフにした作品を集めたユニークな展覧会が開かれています。

  サーカスの語源はラテン語の「円」「円周」。近代サーカスの円形舞台は「キルクス」
  というローマの円形劇場に由来し、今でも引き継がれています。 
 近代サーカスの始まりは、1970年イギリスのフィリップ・アストレーがロンドンに
  サーカス小屋を建て、曲馬にアクロバット、綱渡りなどの演目を加えていったもの
  と言われています。 

 アストレーのパリでの公演がきっかけとなり、19世紀フランスには
  たくさんのサーカス劇場ができました。

 このサーカスに魅了されたピカソ、クレー、ルオー、シャガール、マティス、ビュフェらと、
 海外の留学先などでサーカスを見て触発された安井曽太郎、東郷青児、国吉康雄など、
 また来日した巡業サーカスを描いた恩地孝四郎、長谷川利行などの
  日本人画家の作品が紹介されます。

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サーカスを題材にした絵がこんなにあったなんて、、、
でもサーカスは魅力的な題材の宝庫だろうと想像がつく。
観客にスリルや笑いや夢を与えるサーカス芸人の持つ哀しみや暗さ。
また美しさとのアンバランス性や多面性。
ここに展示されている絵画はサーカスの表舞台ばかりでなく、
舞台裏の表情を伝えるものが多い。
裏があって表がさらに輝きを増すというところだろう。

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国吉康雄
≪ブランコの女≫
1936年

料冶熊太と仲間たち

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 町田の国際版画美術館で開催中。
 
 料冶熊太と言う名前も知らなかった。しかしその仲間として上がっていたのは棟方志功、谷中安規などなじみのある名前が連なっていたので、見に行こうと思った。それに私は版画が好きだ。壁画とか緞帳などの大作は性に合わない。手のひらサイズのモノクロの習作などに心魅かれることが多い。

 それで会場で料冶熊太の生涯や作品を初めて知ったのだが、なかなか良かったです。私は風景描写より人間描写の作品の方がいいと思った。素朴でシンプルな構図ばかりなのに、質感、量感が豊かで、モデルの感じがそのまま伝わってくる。

 版画のほかに愛用した器なのか、染めのそば猪口が5つ6つ並んでいた。どれもちょっと使って見たくなるものばかり。

 目を引いたのは、中国との版画交流で、その時代が1930年代半ばというから、興味をそそられた。

                                        つづく

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