強制削除について、皆さんといろいろお話したいと思っています。
そして「生きること」「死ぬこと」についても・・・。
先日、美優音ちゃんのHPの強制削除(彼女のHPはヤフーでなくPepsでした)について少し思いを書きました。
コメントにあったように小さい子供が画像を見てショックを受けてしまう可能性とかも
たしかにあるかもしれませんね。
だからこそ、皆でいろいろ考えなければならない問題だと思います。
ただこの間削除された美優音ちゃんのHPは、
自傷の内容が含まれています、と入室前に表示をしていて
自傷の写真もパスワードを彼女にメールで聞かないと見れないようになっていました。
彼女は本当に大きな苦しみを抱えてそのなかでずっと頑張ってきた子でした。
でも、きっとその限界を超えてしまったのでしょうね。
心の病気になりました。
リストカットや心の病気にかかるなどをしてしまう人達・・・、
私が出逢った彼女たちは、みんなとってもやさしい人達です。
ふつうは、周り人たちを恨んだり、憎んだりしてしまう状況にあっても、
彼女たちは、その矛先を自分に向けてしまう・・・そんな、ほんとに優しい人達なのです。
わたしの親しい友人は10年前に自死しました。
愛する人に何度も裏切られ、心の病にかかったのに
それでも彼女は、彼を恨むこともせず、ただ彼への愛をいっぱいに心に抱いて
天国へ一人旅だっていきました。
彼女が入院した病院は、田舎でもあり病院を選べる場所でもなかったのもありひどい病院でした。
カウンセリングもほとんど行わず、薬だけ与え、患者への不当な扱いも日常茶飯事であったそうです。
その後も、知り合いの心の病気にかかった若い子たちが、
10年ほどの間に4人も自死や薬の事故でなくなりました。
でも、また、リストカットやODをしていたけど、
その後元気になって、いまは苦しんだ分、本当に素敵な女性になっている大好きなお友達もいます。
今、ブログやHPで心の病気を抱えた人達が、
さまざまな心の叫びやその苦しみに至った過程を、苦しみもがきながら、死にたいと思いつつも
必死で生きているその「生」を書き綴ってくれています。
そしてその場所は彼女たちの命綱となっていることだってあると思うのです。
彼女たちの「逝きたい」は「生きたい」ということであり、
「生きたい」ということは「逝きたい」ということでもあるのだと思います。
ちょうど、コインの裏と表が全く反対のもので、でも同じ一つのものであるように・・・。
デーケン氏は
「死を見つめることは、生を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を問い直すことだ。」
と言います。
日本で死というものは、不吉なもの忌まわしいものとして嫌われてしまう傾向にあります。
しかし、真実に「生きる」ということを見つめる時、
「死」というものと向き合わざるを得ないのではないでしょうか。
かつては、身近にごく普通に「死」がありました。
人は誰でも病気になったり、老いていくこと、
人は誰でもそんな弱さを抱えていて、生というものは、死の時に向かって進んでいること・・。
それでも、みんなで助け合って看取って・・・
しかし、死は全ての終わり・断絶ではないこと・・
愛した人、深くかかわりを持った人の死は、かけがえのない心の宝物を残していってくれること・・。
かつては、そんな身近な人々の「死」の中から「いのち」そのものから、
そんな何物にも代えがたい遺産を受け取ってきました。
昔は暗くなるまで勉強もせずにいろんな学年の子供たちが入り混じって
外で遊んでました。
その遊びは、体と体が触れ合うような遊びがいっぱいありました。
いじめっ子もいたけれど、必ず守ってくれる子もいました。
でも、今は、みんな病院でなくなります。
次第に弱っていくその過程を苦しみを共にしながら、
でもたくさんの愛を思いを差し出しあい、受け取りあいながら看取っていく・・・
そんな時間も少なくなりました。
核家族化で、お年寄りを知らない子も多いです。
自然の中で遊ぶことも少ないですから、当然「いきもの」に関わる時間も少ないです。
ゲームでは死はバーチャル化され、「生」はなんどでもリセットしてやり直すことができます。
競争社会の中で子供たちは心に十分な愛を受け取り育み考える時間も少なく、ストレスがたまり
残酷ないじめが起こります。
そんな環境の中で、
人と関わったり繋がったりする心の訓練ができにくい今の日本の環境の中で育った子達が、
いじめにあったり、家族や友人との関係がうまくいかなかったり、
心に大きな傷を受けたりしたときに、
誰が、彼らの病気や自傷を非難できるでしょうか。
水谷先生は、子供たちがひとりひとり持っている花を咲かせられないとしたら、
それは大人たちや社会の責任だ・・・とおっしゃいます。
わたしも、ほんとうにそう思います。
自傷する彼らは、彼らを傷つけたそんな周りの大人たちや環境を恨むことすらせずに
全ての責任を自分に負おうとするほど優しい子たちが多いです。
そうしてたった一つの居場所として、
自分の苦しみをブログやHPに綴る子供たちや若い人たちのなんと多いことか・・・。
そしてその中の多くの人たちは、その場所で他の人々と出会い、
さまざまなことを語り合い、そうして「死」と同時に「生」を見つめていくことにもなるのだと思います。
もちろん、自死の勧誘サイトなどは問題があると思います。
それに触発されてなくなってしまう人たちもいます。
でも、彼らの多くは自死を誘ったりはしていません。
リストカットに関しても、
「もう、こんなことはしたくないのに・・・」
「またやってしまった・・・」
と罪の意識に苦しんでいます。
誰も、切るのが心地よくて切っているのではありません。
苦しくて、苦しくて、心が壊れてしまうから、
彼らの腕が、代わりにその苦しみを負い、その命を守っていてくれているのかもしれません。
そうして、もうずいぶん世の中の汚いことにも慣れっこになってしまった私などは
そんな彼女たちのグログに書かれた記事の中に溢れるピュアな感性から、忘れかけていた
優しさや、「生きること」を見つめることや「死ぬこと」を見つめていくことを気づかされます。
苦しまない人生のほうが、苦しみの中を生きる人生より価値があるのでしょうか?
苦しみの中をもがきながら生きていることは、隠すべきことなのでしょうか?
私はそうは思えません。
苦しみや、弱さの中にこそ、真実はあると思うからです。
もし、神というものがいるならば
なぜ、神は人をこんなふうに不完全な、弱い、罪ばかり犯す存在に造られたのだろう・・・。
私も十数年前に、私にとって何より大切なことを失いました。
それさえあれば、恋人も要らない。結婚もいらない。
そう思って、大切に大切にしていたことであり、わたしの生きることそのものでした。
でも、ある病気がきっかけで、わたしはそのことを失いました。
真っ暗な闇の中で泣くこともできず、消えてしまいたいと毎日思って、
悪夢の中をさまよってるような日々でした。
心に受けた傷・・というものが、どうしようもないくらい、自分の意思とは関係ないところで、
体や心を氷のように硬く冷たく凍らせてしまうものなのかを初めて知りました。
そうして、そんな心の傷に、いまでも時折どうしようもなく私の心や体を凍らせられてしまう時があります。
そんな氷を溶かしてくれたのは、
そしていまでもそんなとき私の心の氷を溶かしてくれ続けているのは
いろんな人たちから届けられる言葉や、
本や、TVのドキュメンタリーや、映画や、自然のなかから届けられる
そしてそんな中に感じる、いのちを超えた存在から届く「思い」たちでした。
私は思うのです。
何故、人間は完全な強くて罪など犯さないものに造られなかったか・・・。
そのことにはとっても深い意味があるのではないでしょうか。
命って、ひとりでは決して命をつなげない仕組みになっていますよね・・。
それはすごく不思議なことだと思うのです。
光でも神でも仏でも宇宙のもとでも・・・
それは皆さんがどのようにに感じてくれてもいいんだけど
命が何かの偶然でなくこの地球上に生まれて進化したとするなら
一人で子孫を増やせれば、ずっとその方が簡単だし合理的ですよね。
でも、花でさえ、風や虫の助けを借りないと実を結べない・・・。
ましてや動物は出逢って愛し合わなければ新しい命は誕生しない・・・・。
人は一人では生きていけない弱いものだということ
人は罪を犯しながら生きていく存在だということ
人は、一人では生きていけないから、そんな弱い存在だから
誰かと出会い、愛し合い、助け合い、思い合って生きるようにと造られている・・・
人は罪を犯してしまう存在だから、
赦されることを知り、赦すことを知っていくのだと・・・
苦しみを知っていくということは、本当に辛いことだけど
そこから何物にも変えがたい優しさや愛を育むことになっていく・・・・
そんな苦しみの中で出逢った、人の優しさや思いは
人の優しさや思いが、どんなに素敵なことかも教えてくれる・・・
もし、人間の命を超えた存在があるとしたら、
その存在は、そんな「出会い」をとおして「人と人とのつながり」をとおして
そんな「再び起きあがる力」を届けてくれたのではないかと思います。
そして、私は、ブログやHPは、そんな働きをもできる可能性を持った「道具」でもあると思うのです。
だから、強制削除というシステムは、もっともっと皆で考えていかなければならない問題だと思うのです。
彼女たちの記事に書いた言葉は、彼女たちの「生きた証」であり、「生きる証」です。
「証」というものは、その人にとって何物にも代えがたいものではないでしょうか・・・。
せめて、強制削除を行う人は、そのブログやHPを隅から隅まで読んでほしい。
それが礼儀というものです。
それでも、彼女たちの苦しみに何の心の痛みも感じずに、
紙っぺらのように握りつぶせると思ったら仕方ないかもしれません。
でも、その時でも、せめて、1週間前に知らせてあげてほしい。
彼女たちが、心から噴出し続ける血に痛みもがきながら書いた記事を
そこで、彼女たちを優しく包み込んだたくさんの人の言葉たちを
せめて、どこかにコピーして、「生かし続ける」時間をください。
皆さん、ご意見をお聞かせください。
そうして、皆で彼女たちのブログやHPを、
そして彼女たちの、私たちの「いのち」を守りあっていきませんか?
私達は一人では、何もできない小さなものです。
でも小さな輪が繋がれば、硬く結ばれた鎖になっていきます。
ご賛同いただけましたら、転載をお願いします。
長い文を最後まで読んでくださりありがとうございました。
〜注〜 私は自殺と言う言葉が痛くて使えません。
苦しみのあまり生きていけなかった人々を
自分を殺したという名で呼ぶのはあまりにも
辛いです。それで自死という言葉を使いました。
転載元: フルリーナの部屋
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