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以前岩切界隈のブログで八坂神社を取り上げましたが、その200m西、今市橋のたもとに「東光寺」があります。石窟仏や板碑が数多く残る寺で、いときんは3〜4歳のころここの幼稚園に通いました。
板碑というと中世に盛んに作られた供養碑なんですが、この辺に特に多く、当時の領主は留守氏で、居城は高森城。ここ東光寺には親戚筋の余目氏が居城していたようです。
最近多賀城で発掘された遺物から多賀城の現在位置での存続が12〜3世紀まで下るのではないかという説が発表されました。しかし、それ以降の例えば南北朝、室町期の遺物は発見されていませんし、国府という政治経済の中心がここ岩切周辺に移ったと考えられています。
中世、この辺りは今市という地名の通り「河原宿五日市場」「冠屋市場」が定期的に立ち七北川(冠川)の水運を背景に繁栄したようです。
京都から多賀国府に入るには、まさに700年代からずっとこの東街道を人々は利用してきたわけで、歴代の陸奥守や、蝦夷を攻略せんと図ったあまたの将軍たちも、また能因法師、西行、宗久、芭蕉などの歌人、俳人もここ岩切の川沿いの道を通ったに違いないのです。個人的には17歳で多賀国府に来て、南朝方の武将を連れ京の尊氏を敗走させた北畠顕家のファンなので、彼が指揮したり争奪戦を繰り広げた国府の場所は大きな関心事であります。
志波彦神社は志波彦大神をお祀りしている神社です。
岩切郵便局がある辺りは若宮という地名で長く呼ばれていました。
郵便局前を洞の口方面に行けば国府へ向かい、北に向かえば紙屋(神谷沢)、化粧坂、菅コモの菅谷、村岡へ通じます。そして勿来の関を越えれば府中の外。
しわという辺境を守るべく置かれた古きこの神社はもともと若宮に鎮座し、のちに明治時代まで八坂神社の境内にありました。
『延喜式』の神名帳に記載されている3132座の中でもわずか224ヶ所しかない「明神大社」と言う最高の崇敬を朝廷より受けていた神社で、明治時代塩竃神社に合祀されました。全額国費を以て造られた最後の神社とも言われているそうです。
さて、郵便局前を洞の口に向かう途中「鳥居前」というバス停があります。今は鳥居の姿は跡形もないのですが、通りから七北川の堤防に出たところに石造りの立派な鳥居が30年位前までありました。その姿は東北本線に乗り岩切鉄橋にさしかかると見ることができいわば、ランドマークのような存在でした。
長く、どこの神社の鳥居か気になっていたのですが、地元の人に聞いたら「青麻神社」の一の鳥居だそうで、四キロ以上手前にあるということです。
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