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いしぶみ13号(1)

史都に刻んだ子規の想い出
      
                      宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
 
 明治二十年代、正岡子規(一八六七〜一九〇二)は俳句革新に挺身し写生俳句を主唱し、文芸性の高い俳句を力説しました。子規は松山市(愛媛県)出身で、日本新聞社に入り、俳諧を研究しました。雑誌『ホトトギス』に拠って写生俳句・写生文を主唱、「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めました。
 子規は、芭蕉二百回忌にあたる明治二六年七月一九日から八月二〇日までの一ヶ月間、芭蕉の足跡を訪ねて東北を旅しました。子規は四年間明治二二年に喀血して倒れており病臥の身を押し、死を覚悟しての旅でもありました。『はて知らずの記』はその紀行を句文で著した作品で、同年、自社の新聞『日本』に連載されました。紀行文からそのあとを辿ってみます。
 「松島の風象潟の雨いつしかとは思いながら病める身の行脚道中覚束なくうたた寝の夢はあらぬ山河の面影うつつにのみ現われて今日としも思い立つ日のなくて過ぎにしを今年明治二六年夏のはじめ何の心にかありけん、松島の心に近き袷(あわせ)かな」
 旅立つにあたっては多くの人たちが、餞別の句を贈りました。
 
 「松島で日本一の涼みせよ       瓢 亭」
  松島で風に吹かれてひとへ物     子 規」
 
 上野駅を後にした子規は、宇都宮、那須野を経由して白河に立ち寄りました。
 「涼しさやむかしの人の汗のあと」

須賀川、郡山、二本松・黒塚を経て福島に入り、人力車に乗って飯坂温泉に向かいました。医王寺で古をしのび、葛の松原では古歌に思いを馳せました。
 「世の中の人にはくずの松原と
         いわるる身こそうれしかりけれ」
 宮城に入った子規は、七月二九日塩竃から小舟に乗って松島へ向かいました。松島へ着いた子規は、富山・観月楼から松島の絶景に感動、そのあと観欄亭ではその襖絵の美しさを嘆称し、瑞厳寺を訪れ臥龍梅にも心躍らせ、五大堂を訪れました。
 「五大堂に詣づ。小さき島二つを連ねて橋を渡したるなり。橋はをさ橋とてをさの如く橋板をまばらに敷きて足もと危うくうつむけば水を覗ふべし。すずしさや島から島へ橋づたひ日ようよう暮れなんとす。
 松島や雄島の浦のうらめぐり
    めぐれどあかず日ぞ暮れにける」
三十日は雄島で遊び、そのあと舟に乗り塩竃へ向かいました。船頭は帆を順風に任せて、己 は舵を操りながら一つ一つの島を指し示し説明してくれました。
 
「十符の菅菰の事など尋ぬるに朧気に聞き知りてはなしなどす。耳新らしき事多かり。舟塩竃に着けばここより徒歩にて名所を探りあるく。路の辺に少し高く松二〜三本老いて下に石碑あり。昔の名所絵図にある野田の玉川なり。伝うらくには真の玉川に非ずして政宗の政略上よりことさらにこしらえし名所なりとぞ。いとおかしき模造品にはありける。
  
 末の松山も同じ擬名所にて横路なれば入らず。市川村に多賀城址の壺碑を見る。小さき堂宇を建てて風雨を防ぎたれば格子窓より覗くに文字定かならねど流布の石摺りにより大方は兼ねてより知りたり。
 のぞく目に一千年の風すずし蒙古の碑は得見ずして岩切停車場に汽車を待つ。
 蓮の花さくやさびしき停車場 この夜は仙台の旅宿に寝ぬ。」
 
 仙台に想い出をとどめた子規はそのあと、作並温泉から山形に入りました。館岡、東根、大石田、そして最上川では存分に自然の雄大さを堪能しました。
「夢枕夢路重ねて最上川
   ゆくへもしらず秋立ちにけり 子 規」
  
 山形、秋田、岩手に想いでを刻んだ子規は、この旅を通して芭蕉を再評価し、一歩進めて「歌よみに与ふる書」を発表し、雑誌『ホトトギス』を刊行して、俳句・短歌の革新を進めますが三五歳で没しました。この俳風は高浜虚子、河東碧梧桐らに、短歌は伊藤左千夫、島木赤彦、土屋文明らに受け継がれますが、この旅は子規にとっては自分の信念を確認する大事な旅でもありました。
「始めよりはてしらずの記と題す。必ずしも海に入り天に上るの覚悟にも非らず。三十日の旅路つつがなく八郎潟を果てとして帰る目あては終に東都の一草庵をはなれず。人生は固よりはてしらずなる世の中にはてしらずの記を作りて今はそのはてを告ぐ。はてありとて喜ぶべきにもあらず。はてしらずとて悲しむべきにもあらず。無窮時の間に暫らく我一生を限り我一生の間に暫らく此一紀行を限り冠(こうむ)らすにははてしらずの名を以てす。はてしらずの記ここに尽きたりとも誰れか我旅の果てを知る者あらんや。
   
   秋風や旅の浮世のはてしらず  子 規

※12号で校正にミスありました。「松井泉椽」は「和泉椽」でした。

 多賀城をめぐる人々(1)奈良時代
     
                   東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
   
 いうまでもなく、多賀城は陸奥国の国府の所在であったから、多賀城には歴史に名を留めている多くの人々が去来した。
多賀城碑には七二四年に大野東人(おおのあずまびと)が多賀城を造営したこと、七六二年に藤原朝獦(あさかり)が多賀城の修造(大改造の意味とする説が有力である)を行ったことが記されている。東人は壬申(じんしん)の乱(六七二年)で大友(おおともの)皇子がたの将軍として活躍した大野果安(はたやす)の子で、武人としての素質にも恵まれていたと考えられる。東人は長年にわたって東北地方に居り、多賀城を中心とする東北支配のネットワークを立案し、実行したようである。
東人の役目を受け継いだのが、朝鮮半島の百済(くだら)国の王族の子孫である百済王(くだらおう)敬福(きょうふく)である。彼は七四九年の陸奥国産金の当事者でもある。涌谷町の黄金山産金遺跡は敬福(きょうふく)ゆかりの遺跡でとして有名である。
藤原朝獦は時の政界の最高実力者だった藤原仲麻呂(なかまろ)の子である。彼が東北とかかわりをもったきっかけは、都で反仲麻呂派によるクーデター計画が発覚し、陸奥国の官人のなかにも、その計画にかかわっていた人物がいるということで、その処分を行うために陸奥国に派遣されたことであった。しかし彼は、反仲麻呂派の人々を処分した後も陸奥国にとどまり、多賀城の大改造をはじめとして、桃生城と雄勝城の造営、鎮守府制度の確立などさまざまな改革を推進したのである。
歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)も多賀城に赴任している。このころ、都では藤原氏が着々と全盛時代にむけての足がかりを築きつつあった。しかしそのような傾向を喜ばない人々もあり、さまざまな政争がくりひろげられた。大伴氏は反藤原氏的傾向がきわめて強く、朝廷の高官であった家持は、一方では大伴氏一族の長でもあり、微妙な立場に立たされていた。家持の陸奥国赴任の背景には、このような状況があったのである。
多賀城を足がかりに、都に出て名をなした人物もいる。道嶋嶋足(みちしまのしまたり)は牡鹿(おしか)郡の長官一族の出身である。舎人(とねり)として都に出、さまざまな政争事件がくりひろげられるなかで巧に身を処し、武人として名をあげ、地方出身者としては破格の正四位上(しょうしいじょう)まで出世した。そして彼の同族の道嶋三山(みやま)、道嶋大楯(おおだて)、道嶋御楯(おたて)なども陸奥国において大いに勢いを振るうことができたのである。
多賀城は朝廷側と蝦夷の世界との交流の窓口でもあり、この窓口を通って蝦夷の族長たちは、さまざまな形で朝廷側との関係を取り結んだ。七八〇年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の張本人である呰麻呂の伊治公という名の中に含まれている公(きみ)という称号は、朝廷側から与えられたものであった。また彼ははじめ蝦夷爵(えぞしゃく)の第二等、後には外従五位下(げのじゅごいげ)という位階(いかい)も持っている。はじめは朝廷側と友好的な関係を保持していた彼が後には反乱にふみきり、彼の仲間が多賀城を焼打ちするまでにいたる過程は、朝廷側と蝦夷がわとの複雑な関係の縮図といえるであろう。岩手県胆沢地方の蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)などと朝廷側との関係も、多分に呰麻呂と似かよった部分があるように思われる。
これからしばらくの間、これら多賀城ゆかりの人々を紹介しながら、奈良時代の多賀城に思いをはせてみることにしたい。

※ 今号から東北歴史博物館に4月から赴任された
工藤雅樹館長に執筆を依頼いたしました。次回をお楽しみに。


 


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