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いしぶみ14号(1)

史都に刻んだ与謝野鉄幹と鮎貝槐園の想い出
      
                    宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 明治二六年の夏、鮎貝槐園(あゆかわかいえん)は与謝野鉄幹と共に、仙台、塩竈、松島の旅をし、想い出の記録を『松風島月』と題し日本新聞に発表しました。槐園は気仙沼出身の落合直文の実弟です。『松風島月』は、七月二一日から九月四日まで十九回にわたって連載されました。各所に文学的表現が散りばめられ、精神的にも高揚しているようすがうかがえます。

   あつさをば避けむ車のなかなかに都の夏を載せて行くらむ  鉄幹
 
 七月十五日上野を汽車に乗って旅立った二人は、古河、塩谷の松原、那須、白河を経て仙台に到着しました。仙台では広瀬川沿いの小高い場所にある名所南山閣を宿としました。南山閣からは仙台市内ばかりではなく、閖上、松島、石巻、金華山も身近に見えます。数日間ここに滞在し仙台の名所旧跡を見て回り、槐園と鉄幹は心ゆくまで歌のやりとりを楽しみました。(中略)二一日、二人は飄然と南山閣を後にしました。一蓑一笠はまるで西行にでもなったような気持ちで、箱馬車で塩竈に向かいました。十符の里の茶店に寄ると襖のやぶれをつくろって一枚の短冊が張ってありました。大変すすけていましたが、詠んでみると
   
    みちのくの十符のすがこも三符にねて七符はゆつる秋の夜の月

という歌でした。大変興を感じたので買い求めました。詠み人の名が書かれていないのが残念です。この里の続きに比丘尼阪、今市というところがありました。比丘尼阪で売っている甘酒は名物で、槐園は二椀を傾けました。豆と栗とはた米とを黒砂糖で固めたものです。これも名物だというので鉄幹一人で一袋を食べてしまいました。
宮城郡燕沢村には蒙古碑というものがありました。たけ六尺、幅三尺の石に文字が刻まれていますが難しくて読めません。弘安の役のとき、筑紫で死んだえみしを弔って、胡元の僧某が立てたものだそうです。古字をもちいているのでなかなか読めません。岩切村では途絶橋という名の場所がありました。古歌に、

    あやうしと見ゆるとだえの丸木橋まつほどかかるもの思ふらん

と詠まれたのがこの場所です。

 宮城郡市川村では天平宝治年間に建てたと伝えられる壺碑を見ました。碑の高さは六尺、その廻りは九尺六寸、仮屋を造って覆っています。鎮守府将軍藤原恵美朝臣の撰で筆勢古、字体寛雅です。これは見雲真人の書と伝えられています。
槐園と鉄幹の二人が八幡村に着いたのは午後四時ですが、ここで夕立に遭ってしまいました。とある寺で雨宿りをしました。寺の後には小高い岡があり、松がたくさん生い茂っています。しばらくして雨が晴れたので、槐園はその岡に登りました。大変見晴らしが良いから来てみろというので、鉄幹も登ってみました。松の間から見渡せば、海から一里半、波濤が天に接して、目に前に落ちてきます。本当に良い眺めなので、二人でしばらく見とれていました。しばし休息し、この寺を出発し、次の里に着くと、鋤を担いだ農夫に出会いました。「末の松山は何処ですか」と聞くと、すでにお前達は通り過ぎてきたというのです。「それは何という村ですか」と尋ねると、八幡村というところに宝国寺という寺があり、その後の岡は、松が大変多く、そこが末の松山の跡であると伝えられているという答えが返ってきました。先ほど二人が雨宿りした場所です。そんなことも知らないで、ただ漫然と見ていたかと思うと口惜しい限りです。戻ろうと槐園はいいますが、もう十町ばかりも通り過ぎて来ましたし、時間もないのに再び戻るのはどうしたものかと思案しながら、結局は戻らず歌をとどめました。
    
    立つ虹の末の松山浪ならで木ずゑをあらふ夕立の雨   槐園
 
    浪ならで末の松山こす雲に入日も白しゆふ立の雨    鉄幹
 
 野田の玉川は塩竈の南にあります。流れは狭く水は大変澄んでいます。ここでは日が暮れました。
槐園は、
    萩にくだくる夕月の影

と挑戦したので、鉄幹はとりあえず、
   
    千鳥なく野田の玉川浪こえて

と上の句を返し、さらに、
   
    月もそこゆく野田の玉川

と詠じると、しばらくして槐園は、
   
    夕されば清き流れの涼しさに

と上の句を付けました。夜に入って塩釜に到着、勝画楼を宿としました。家々の燈火が水に点滅しています。糸竹(楽器の総称)の音が、波の音とともに高く聞こえます。二人は勝画楼を拠点に塩竈、松島の名所旧跡を見て回り、歌を交わしながら楽しい旅の想い出を『松風島月』に刻みました。


   多賀城をめぐる人々(2) 大野 東人
              
                   東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
多賀城外郭南門を入ったところにある多賀城碑には七二四(神亀元)年に大野朝臣東人(おおのあそんあづまひと)が多賀城を造営したこと、七六二(天平宝字六)年に藤原恵美朝臣朝獦(あさかり)が多賀城の修造(大改造の意味とする説が有力である)を行ったことが記されている。
大野は氏(うじ)の名、東人はもちろん個人の名前であるが、その間にはさまれている朝臣は姓(かばね)のひとつである。姓はそれぞれの氏の家格をあらわす称号である。大野氏の姓は古くは君(きみ)であったが、六八四(天武(てんむ)天皇一三)年に、それまでは臣(おみ)および君の姓だった、あわせて五十二の氏の姓が朝臣と改められたものである。平安時代の初めに成立した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という多くの氏の由来がまとめてある本によれば、大野氏は群馬県地方ゆかりの毛野(けの)氏から分かれたものだという。
毛野氏は大和朝廷の時代から蝦夷との戦いにも深くかかわる武の家柄であった。大野東人の父は六七二年に勃発した壬申(じんしん)の乱の時の大友皇子方の将として知られる大野果安(はたやす)で、果安(はたやす)も武人の血が流れていたのである。壬申の乱は天智天皇の弟の大海人(おおあまの)皇子と天智天皇の子息である大友皇子が皇位を争った事件である。天智天皇の時代の都は、近江(滋賀県)の大津にあり、大津を拠点とした大友皇子の陣を大海人皇子側が攻撃したのであるが、古都飛鳥をめぐる攻防戦も行なわれた。果安(はたやす)は大友皇子がわの将軍として、近江と飛鳥を結ぶ要衝である奈良山の戦いで、大海人皇子がわの将軍大伴吹負(ふけい)を破り、ために一時は大海人皇子がわは苦戦を強いられることになった。事件は結局、大海人皇子がわの勝利に終り、皇子は即位して天武天皇となる。しかし果安は敗者のがわの将軍であるにもかかわらず、罪を免れて天武天皇にも仕え、直広肆(じきこうし従五位下にあたる)・糺職大夫(後の弾正台(だんじょうだい)の長官)にいたっている。武人の才能ゆえであろう。
東人が東北地方に登場する七二四年にはかなり大規模な蝦夷の反乱があり、陸奥大掾(だいじょう国司の三等官)であった佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)が殺されるという事態になった。そのため、藤原宇合(うまかい藤原不比等ふひとの三子)が持節大将軍に任命されて陸奥の蝦夷と戦い、小野牛飼(うしかい)が鎮狄(ちんてき)将軍に任ぜられて出羽方面の蝦夷と戦っている。そして東人もこの年の蝦夷との戦いで重要な役割を果たしているが、彼はおそらくは七二四元年以前にすでに陸奥守(かみ)、兼按察使(あぜち出羽国の国務も監督できる)に任命されて東北地方の最高責任者となっていたようである。多賀城を造営して仙台市郡山遺跡から多賀城に陸奥国府を移したのも東人が行なったことのひとつであった。東人が手がけたこととしては、ほかに宮城県中部の大崎平野やその周辺に色麻柵(しかまのさく)、新田柵、牡鹿柵など複数の城柵を造営し、これらの城柵を中心施設とする多くの郡を置いたこと、それまで山形県庄内地方にあった出羽柵を七三三(天平五)年に秋田市内に移したこと、七三七(天平九)年には秋田県を縦断して秋田の出羽柵の付近で日本海にそそぐ雄物川の中・上流地方にも城柵を築き、そこに郡を建てることを目的とした大作戦を展開したことなどがあげられる。ただしこの作戦は完全には成功しなかった。
 こうして大野東人は10数年の長きにわたって東北地方にかかわり続け、後までの政府の対蝦夷政策の基本を定めたのである。そして東人は七三九(天平一一)年には参議(さんぎ)となって都に戻り、その翌年には九州で勃発した藤原広嗣(ひろつぐ)の乱では持節(じせつ)大将軍として乱の平定に尽力し、七四一(天平一三)年には従三位に昇進したが、その翌年に亡くなっている。東人の子孫には東北と関わりを持った人物や都の内外で武人として活躍した者が多く出ている。


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