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いしぶみ14号(2)

   多賀城の地名 「佐貫(さっかん)」
      
                  宮城県地名研究会会長 太宰幸子

 作貫地区は、多賀城政庁跡の管理事務所のある所から北に道なりに歩いて行くとまもなくの地で、道の右手の覆屋の中には、自然の地形を生かした空堀跡が露出展示されている。 
この地区からは、8世紀後半から10世紀にかけての建物跡が多数発見されている。中世の館があった時代もあり、さらに近世になると、塩釜神社の神官であった志賀屋敷もあったという地区だ。
 作貫という地名は、初めから「さっかん」と呼ばれたかどうか怪しい。江戸時代の伊達藩の記録、「安永風土記」には、「作貫(さくぬき)屋敷 弐軒」と記載されており、古くは「さくぬき」と呼ばれていたことがわかる。たぶんこれが「サッカン」以前の地名としての呼び方であったと思われる。
 「さく」は、「サコ=迫」などと同じで狭いエリアあるいは狭間をいうことが多いが、もっと旧い時代には、「サク」ではなく「サ」だけだったのではないか。そうであれば「サ」は接頭語ということになり、四国の「サヌキ」と同じ意味になる。
「ヌキ」は、抜けるということで、鉄砲水や土石流などが流れた地或いは地すべり(土地が抜けた)のあった地を言うことが多い。残念ながら作貫地区の地質を調べたことはないが、何時の時代かにあのエリアで地すべりがあったと思われる。地すべりは、表土の下の方が粘土質になっている土地に多くみられる。
同じく多賀城市内に「花貫=はなぬき」と言う地名があるが、これは、「ハナ」が顔の中の鼻と同じで、突き出た土地を意味し、「ヌキ」は同じく抜けたということになる。
 国内には「ヌキ」という地名がたくさんあり、大きく抜けた地の大貫(田尻町など)があり、小さく抜けた小貫や佐貫もあり、全国的に見られる。
 地名は、発音が解決の基本であり、それが漢字で表記されたことにより、読みが変ることが度々あり、作貫も同じ原理で、漢字の読み方で地名の呼び方が変わったことの例である。


   「史跡めぐり」雑感

                      浮島会館館長 大槻哲雄
 
 浮島地区の年間行事である「史跡めぐり歩け歩け大会」でありますが、区民の連帯と健康増進をはかりながら地域の歴史を理解するという考えで毎年コースを選定して実施をしております。
実施にあたっては、多賀城市史跡案内サークル会員の方々にも多大な協力をいただき同行をお願いして懇切な説明を頂きながら埋もれている歴史に耳を傾け、または新しい施設等に感嘆をしたり、真夏の汗を拭き拭きも楽しく充実した行事に多くの区民の方々より大変喜ばれております。
 市民ならどなたでもご存知のように壺の碑・多賀城碑には「去京一千五百里」云々とあります。果たしてこの数字がどの程度の日時を要するかは十分に把握されていたのでしょうか。現在だからこそ、京(現 奈良平城京跡)と多賀城を地図の上で認識して新幹線で六時間もすれば到着できる距離を昔はいかほどの思いで移動していたのでしょう。今、徒歩で京へ上ろうとしたら気が遠くなりそうです。
 歴史にも芸術にも疎い私にとってその意味するものが十分に理解出来ないのですが、町の塩釜の壱番町館一階に「源融大臣」の彫刻があります。塩釜高校卒業生で東京町田市在住の彫刻家佐藤充了氏の作品だそうです。「みなもとのとおるのおとど」と読み、八六四年とありますから、多賀城が創建されて一四○年位あとになるのでしょうか、今から千百四十年前の四三歳のとき、多賀城に「按察使」として下向された、と何かの書で読んだことがありました。この地にどれほどの期間居られたかはわかりませんが、のちに京都に帰着し現在の京都六条本覚寺辺りに居を構え、藻塩焼く塩釜に想いを馳せたとか、風流な面も伺われます。七四歳で生涯を終え、かつて大臣宮(おとどのみや)に祀られた左大臣「源 融」は、明治の合祀で「浮島神社」に合祀されたと聞いております。歴史はいろんな所に「道」を拓き、心を彷彿させるものだと感心しております。
 今年の行事も一人の落伍者もなく無事に終了できましたことにホッとしております。最後に史跡案内サークルの益々の発展をお祈り致しますとともに来年もまたよろしくお願い致します。

※毎回コースが楽しみです。今年も浮島地区の皆さんからいろいろと地元の情報をいただきました。


          もうひとつの船形山神社

                            会員 小澤 操

 多賀城市に語り伝えられている伝説に「色ノ御前」がある。
 昔、多賀城の八幡方面に大津波が押し寄せた時に、岩佐姫命という美貌の神様が社殿もろとも押し流されて南宮神社に漂着し居候の身となったという。岩佐姫命は年も若く見目うるわしく、闊達な振る舞いが近隣の目を引き「色ノ神様・色ノ御前」と呼ばれるようになった。ある夏の昼下がりに隣村にある山王神社の男神様が岩佐姫命に言い寄るのであったが、なぜか好みのタイプではなかった。隙をみて逃げだすと青々と茂る麻畑に身を潜めた。間もなくに追ってきた男神様に見破られてしまい、危うくのところを抜けだして身の丈ほどの里芋畑に駆け込んだのであるが芋の茎に足を滑らせ転んでしまった。その時お茶の木に目を突いて痛めてしまった。痛さをこらえながら一目散に走り逃れて、やっとの事で黒川郡吉田村の船形山神社に辿り着き、別当に事情を話したところ大木をくり貫いて作りかけていた臼の中にかくまってもらい、別当は何知らぬ顔をしてノミを叩いていたために難を逃れることができたという。・・・・・・・・・・・・・・・
 以来、南宮地区では麻と里芋そして茶畑はつくらないようになり、隣の山王地区の男衆は船形山神社に参詣すると災いが降りかかるととして参詣しない事になったという。

 岩佐姫命が宮城郡南宮村より黒川郡吉田村の船形山神社まで走り逃れたち伝えられるみちのりは、五十キロメートルは優に超え、いくつもの沢を渡り、曲がりくねった険隘な山道である。そこまで走り通して逃れたと伝説は超人間的な話としてまとめられている。
 「超」とか「怪」とかの話は「ざっとむかす」として語られそして聞かされたものであるが、今は語って聞かせてくれるお年寄りもいなくなり、活字としてしか伝えられない時代である。
 多賀城市新田地区は仙台市との行政界であるが七北田川をはさんでの対岸は、仙台市宮城野区岩切字余目・堰下・鴻巣北・鴻巣南・余目西・余目前などの地区である。
 鴻巣地区は、古墳時代中期頃より中世にいたるまでの遺構や建物跡などが数多く発見される所であり、北方系との交流がうかがわれる石器や土器が出土するなど、そして竪穴住居の集落が形成されていて有力な人物が居住していたことなども考えられる所として、仙台市教育委員会文化財課では継続して発掘調査を実施している地域である。
 現在の余目地区は、中世に留守氏の所領であった余部村・余目保また余戸郷などと記されてみえる所ではないかと日本歴史地名大系にみえる。そして安永風土記には岩切村端郷余目とある。余目という地名は他にもみることができるが、五十戸を単位に「村」とし残りを余目としたとも伝えられ、七北田川流域には前述のように古くより人々の営みが認められる所である。
 そして、ここ余目地区にも船形山神社が祭られているのである。(東北電力電柱札・余目枝線6南1)
 船形山神社は水の神様であり、実りをもたらす使者である。山の雪解け水が里に流れる五月、黒川郡の船形山神社の例祭には梵天の青竹を奪いあう喧嘩祭りが行われ、その青竹を持ち帰って田圃の水口に弊束とともにさしておくと病害虫が流入しないと信じられ今も祭りは賑わっている。
 七北田川流域に広がる豊饒の地に耕作を営む鴻巣や余目地区の人々が、この地に船形山神社の精を分霊祭ったとしても何ら不自然なことではないはずである。
 そして、ここ余目地区は南宮地区とは目と鼻の先、ひとっ飛びである。岩佐姫命は黒川郡の船形山神社ではなく、ここ余目の船形山神社に走り逃れて身を潜めた。
 異聞・もうひとつの船形山神社と色ノ御前である。


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