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いしぶみ19号(2)

           『友情の人形』
     
                       宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
 
 喪中だったので、新年の挨拶を遠慮して静かに正月を過ごしていたところ、18日に母が亡くなり、急遽札幌に飛び、慌ただしく葬儀を済ませてきた。両親は樺太=サハリンの人だ。父も2月だったから、二人共に極寒の時節に死出の旅立ち。寒い故郷が懐かしかったのかもしれない。40数年前宮城県に来て、ここ数年県内で最も温暖な山元町に住むと、冬は零下43℃にもなる樺太の地で生まれ育ったことや、その後帯広・旭川など厳しい冬を経験したことは忘れがち。父の葬儀の時もこの度も寒さ厳しい大雪。季節の良いときしか北海道には戻らないので、こういう時に自分が北国の人間であったことを実感する。
 葬儀の後、妹と買い物に出て、何時もは外から眺めるだけでの時計台に入った。明治の建物に見惚れていると、突然妹「アラー!あのお人形ヨ!」と言う。無骨な男に何故人形?と訝る私。それ「青い目の人形」の別名もある『友情の人形』。80年ほど前の昭和初頭、悪化の兆しみえる日米関係。それを案じた日本縁りの米国人シドニー・ルイス・ギューリックが、両国の友好が長く続くよう願い、アメリカの子供達から日本の子供達に、人形を贈ることを提案した。話は忽ち全米に及び、何と13,000体近くの人形が集まり、日本に贈られた。箇々の人形は名前を記したパスポートを持っていたという。日本側の受け入れには、財界の大物渋沢栄一翁が中心になり、全国の小学校・幼稚園に届けられた。受け取りに当たり各学校は盛大な歓迎式を挙行した。
 当時の本最北端の樺太北部鵜城(ウシロ)町の小学校にも人形が来た。歓迎式で人形を手渡したのは、大場節太郎町長。代表で受け取ったのは2年生の大場夏、歓迎の遊技には6年生の大場都が居た。人形は男の子で、名は「ヘンドリック」君。
 歓迎の遊技を披露した大場都は後の母、町長は祖父だ。時計台にあった人形を前に妹は、「お母さんから聞いたのよ」と、こんな話を楽しげに語ってくれた。私は初耳。『友情の人形』がにわかに身近に感じられた。昨年来東京に住む3年生の孫咲子(サクコ)とメールのやり取りをしている。札幌から帰ってのメールには、このことを話題にした。すると「ジージ!私、興味津々よ!、続き早く書いて下さい」とすぐ反応があった。孫にとっては、祖父(私)の母親が直接関わった、ささやかな歴史がとても興味深かったらしい。
★宮城県内でも三本木小、桃生小など数体が保管されています。贈られた当時は友情のあかしとして大切にされていました。太平洋戦争中は敵国の人形、スパイとして焼かれたり壊されたりするなど悲しい運命をたどりますが、戦後、人形が発見、現在300体あまりの当時の人形が全国の小学校、幼稚園で保管されています。ギューリック宣教師は」子供の頃からお互いの国の文化を理解することが両国の友好につながる」と訴え多くのアメリカ人が友情人形に賛同し、昭和2年3月3日の雛まつりに間に合うように日本に送られました。まさに民間レベルで行った草の根国際交流のシンボルです。宮城県には221体の人形が集まったそうです。


              常陸国府を訪ねて      
                             会 員 松川 和夫

  昨年11月12日、当史跡案内サークルの年次計画にもなっている野外研修で、茨城県石岡市の「常陸国府跡」を訪ねる計画に参加した。 現地石岡駅には11時過ぎ到着。講師として、石岡市教育委員会 田崎課長と佐々木さんのおふたりが、わざわざ駅まで、お迎えに見えた。
 常陸国分寺跡、同尼寺跡を見学。本命の常陸国府跡は、現在の石岡小学校の敷地内にあり、更に国衙機構の中で重要な位置を占める常陸国総社宮は、この小学校に隣接していた。 昼を挟んで常陸風土記の丘、鹿の子史跡公園を見学し、最後に船塚山古墳に上り、石岡駅からの帰路は午後4時半を少し回っていた。
 六四五年蘇我入鹿がクーデターにより暗殺されたいわゆる大化の改新。これを契機に、翌年には東国の行政組織として常陸の国は新たな編成が成され、国府は石岡に置かれた。これは、既に5C半ばに同地に舟塚山古墳(全長186mの前方後円墳で、東日本では
No.2)を築き上げる程の大きな支配力が同地にはあったからと言われます。
 七一三年の詔により、「常陸国風土記」が編纂されるが現存するのは、これも含めて5件のみとか。
 この風土記にも記載されているとのことですが、この舟塚山古墳からの眺めは、筑波山から、霞ヶ浦への一直線上にあり、目を見張るばかりです。
 記録には、七一九年藤原宇合(うまかい)が常陸守になるとあります。七二四年の大野東人の多賀城創建と、深く関わって来るのでしょうか。
 石岡駅前の数キロは、江戸末期から昭和初期の由緒ある店舗の美観を維持する為、電線を地下に埋めているとのこと。講師の田崎課長、佐々木さん、誠に有難うございました。追記・11月14日の朝刊に、大化の改新の舞台、蘇我入鹿邸の可能性の強い焼け跡を発見の記事。何かの因縁を感じました。


        多賀城の地名「湯坪 ゆつぼ」(塩竃市)

                      宮城県地名研究会 会長  太宰幸子

 多賀城政庁跡から陸奥総社宮そばの道を過ぎ、塩竃市赤坂方面へ向かうと坂道になる。昔は一里塚があったという近くの右側、現在の母子沢町エリアに、小さな池があり、その近辺を湯坪と呼んでいた。今は住宅地になっており、それを知ることはできない。
江戸時代の記録「安永風土記」塩竃の項に、「ゆつぼ 母子沢堤」「ゆつほ坂 長さ三十間」の記録がみえ、湯坪坂があり、付近には湯坪堤があったことを伝えている。知人のお話によると、堤は五、六十年前まで確かにあったようだ。以前、地元の方にお尋ねしたときには、「あそこにお湯が沸いていて、湯気がたっていた。」とのお話をいただいた。
しかしそれは、考えられない地質ではなかろうか。もし、そこにお湯が沸いているとすれば、温泉として人々は棄てておかなかったはずであり、記録や口伝に残されていたはずである。
 多賀城国府エリアには、金属地名がいろいろある。加瀬沼に面したエリアには、金沢という地が広がっており、湯坪の側には大日向地名がある。また、前回の金堀という地名があり、政調エリアからは製鉄や鍛冶の行なわれた際の滓(鉄滓)がたびたび見つかっている。
 湯坪地名も、やはり金属地名であろう。古代より農具や武器製作のために、たくさんの鉄が用いられてきた。その鉄器を加工する人たちを鍛冶師というが、鍛冶師たちが鉄を溶かす容器を「るつぼ」、あるいは「ゆつぼ」という。
 鉄は高温で熱すると液状になるが、それを「湯」と呼ぶ。湯坪・湯壷と文字が変わっても意味は同じで、この周辺で鍛冶が行われていたことを伝えている。
湯坪という地名は各地にあり、鉄だけではなく、金や銅に関わる地にもみられる。ただし、近くに温泉などがある場合は、金属地名に該当しないこともある。大分県には湯坪温泉があるが、これは、お湯の方かもしれない。


      多賀城小『お年寄りとの交流会』に参加!
          〜当サークルは、こんなことにも利用されています。〜

「史跡案内サークル」は、一月二十五日(水)、多賀城小学校の要請を受けて、科目「総合」の一環として実施された『お年寄りとの交流会』に会員6名が参加しました。孫にも等しき6年生の可愛い生徒さんからの質問(昔のくらし、戦争体験など・・・)に、その目線で答え、楽しい交歓のひとときを過ごすことができました。
 生徒さん方は私達の「つたない話」をもとに「新聞」に整理し、あるいは「作文」など、実習後のアフター処理をしてくれました。あまつさえ個々の「お手紙」までいただきました。ありがとう!多小!
        (会員 五十嵐敬之輔さんより)

★前回、サークル会員が史跡を案内した多賀城小学校の6年生、今回は「戦争時代の子供たちのくらし」をテーマに当サークルの中から戦争当時小学生だった会員の方が生徒さんと給食まで一緒に楽しい交流を行いました。担当の先生たちの子供たちへの熱心な教育の取り組みに深く感心した1日でした。生徒さんたちはかなりネット等を利用して調べたらしく戦争についての事前学習がしっかりされていて積極的な質問に会員全員熱が入りました。生徒さんばかりでなく先生も聞き慣れない戦争当時の体験談に真剣に耳を傾けてくれました。
 今回、多賀城小学校の生徒さん一人一人が「新聞」を作成しました。どれも素晴らしく会員のお話を熱心に聴いて理解した作品ばかりでしたが皆さんにご紹介するために代表として5人の生徒さんの作品を選びました。生徒さんの素直な気持ちを読んでください。

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