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いしぶみ29号(1)

博物館の展示から(7)
              『東北産最古の須恵器』
   
                       東北歴史博物館 館長 進藤 秋輝
 
 私たちがいつも使っているお茶碗や皿で代表される焼物にも技術革新を経た長い歴史がある。焼物は焼上げる温度によって、土器(七百度〜八百度C)、陶質土器(千百度C)、陶器(千二百度C)、磁器(千三百度C)に大きく区別される。
 土器は縄文土器に始まり、弥生土器、古代の土師器を経て、今も神社で使用されている「かわらけ」や身近なものでは「植木鉢」に繋がる系譜の焼物である。日本の縄文土器は世界でも最古であり、一万二千年頃に遡るといわれている。この長い「焼物」の歴史のなかで、幾つかの画期があった。第一の画期が五世紀に開始された須恵器(陶質土器)生産である。第二の画期が古代末期に萌芽がみられ、中世初期の十二世紀頃には本格的な生産体制が確立した備前焼、常滑焼、信楽焼、瀬戸焼などで代表される中世陶器の出現であり、第三の画期が近世初期に朝鮮半島の技術を導入した伊万里焼、九谷焼、清水焼などの磁器生産の開始であった。今、私たちはこれらの長い歴史を経て成立した個々の焼物の特性を選択して生活を謳歌しているわけである。
 須恵器そのものは四世紀から五世紀前半頃にも、韓国から移入されている。その分布は東は岐阜県(遊塚古墳)、西は熊本県(江田船山古墳)まで知られており、西日本に限定される。なかでも、手工業技術や宗教、言語などを日本にもたらした渡来人が定住した飛鳥の軽地方や檜隈地方をはじめ、朝鮮半島との交渉に活躍した「紀氏」一族の本拠地である和歌山県の紀ノ川流域に集中するという「中村浩『須恵器』」。
 第一の画期となった日本での須恵器生産は大阪府南郊外の堺市・和泉市・岸和田市・狭山町に広がる泉北丘陵で開始される。「陶邑窯跡群」と呼ばれる一大窯跡群は東西十五キロ、南北九キロに及び、既発見窯跡数は六百基、総数は千基を越すとみられている。生産活動は平安時代後期まで続くが、その盛期は五・六世紀にある。初期の製品は朝鮮半島の百済や伽耶地方の須恵器と似るという。これらの五世紀の製品は全国各地に伝播しており、仙台市南小泉遺跡や岩手県水沢市膳性遺跡(管見では北限)からも出土している。
 この地は『日本書記』祟神天皇七年紀にみえ、当時は「茅淳県陶邑」(ちぬのあがたすえむら)と呼ばれていたらしい。窯跡群の命名もこの記事に由来している。雄略天皇七年紀『日本書紀』には、訳語(おさ=通訳)を併せて、東陶直掬(やまとあやのあたいつか)を難波に遣わして、陶部、鞍部、晝部、錦部などの渡来人の技術集団を上桃原・下桃原(大和国高市郡)、真神原(飛鳥寺付近)に移住させたという記事がある。そのなかに、新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりべのこうき)の名前がみえる。陶部高貴は陶部の長として、部民集団を率いて「陶邑窯跡群」で生産にあたっていた人物とみられる。
 東北歴史博物館の古墳コーナーには仙台市宮城野区東仙台六丁目の大蓮寺窯跡から出土した灰色の須恵器の  (はそう)二点が展示されている。 は小型の壷の胴体に円形の小孔を穿ったもの。本来はこの孔に筒を插込んで、酒などを注いだ容器である。
大蓮寺窯跡はJR東仙台駅の北西四百メートルに所在する。昭和五〇年に古窯跡研究会が発掘調査を行い、焼成室から煙道部まで長さ四メートルを残す地下式窖窯一基を発見した。生産された須恵器には、壷、甕、高杯、把手付碗、 、器台(壷を乗せ飾る大型の台)などの器種がある。その技法や形態の特徴を「陶邑窯跡」の製品と比較すると、五世紀中頃に近い後半のものであることがわかる。また、器種に坏や蓋などの食器が見当たらない。このことは専ら、古墳への副葬品として製作されたことを示している。
 仙台市太白区西多賀の裏町古墳は五世紀後半の帆立貝形の前方後円墳である。河原石積施設内の木棺を納めた主体部の周辺からは須恵器の器台、樽形 、台付壷が出土しており、同様の須恵器は近くの金山窯跡でも採集されるという。
 五世紀の須恵器生産は在地の集落の農耕祭に使用された土師器にも影響を与えた。仙台市若林区荒井の藤田新田遺跡からは須恵器をそっくり倣ねた南小泉式(五世紀)の土師器の がみられる。ともあれ、仙台平野の豪族が河内の須恵器生産者との密接な関わりもって、逸早く新技術を導入したことは確かである。導入のルートをはじめ、言語も違う仙台と大阪の首長がどのように意を交わしたのか、興味が尽きない。


多賀城をめぐる人々(十五)あてるい阿弖流為 その二

                     東北歴史博物館、前館長 工藤 雅樹

 阿弖流為や母礼の正式表記は大墓公(おおはかのきみ)阿弖流為、磐具公(いわぐのきみ)母礼であった。「公(きみ)」は、朝廷が蝦夷の族長に授与した称号で、カバネといわれる。そして、七八〇(宝亀十一)年に多賀城を焼打ちした伊治(これはり)(栗原)公呰麻呂(あざまろ)の例からもわかるように、「公」の前に位置する伊治(栗原)はもともとは地名で、この場合でいえば呰麻呂は伊治(栗原)地方を代表する大族長であったことがわかる。
 したがって、阿弖流為は大墓という地を、母礼は磐具という地を代表する族長だったと考えてよいだろう。ところが、大墓や磐具という地名は現在まで残っていないので、阿弖流為や母礼のもともとの本拠地はわからない。いいかえれば、阿弖流為や母礼は、もともとはきわめて小地域を代表する族長に過ぎなかったが、次第に地域の人々の支持を得て勢力を伸ばし、最終的には胆沢地方全体のリーダーにまで到達した人物だと考えられるだろう。
 それでは、胆沢地方には、伊治(これはり)(栗原)公呰麻呂(あざまろ)が栗原地方を代表する大族長だったように、胆沢地方全体を掌握していた大族長は存在しなかったのであろうか。実は、阿弖流為らと同時代人で、胆沢公阿奴志己(あぬしき)という人物の存在が知られている。この人物、あるいはこの人物の父こそが、もともとの胆沢の大族長だった可能性が高い。
 胆沢公阿奴志己(あぬしき)はどのような場面で歴史に登場するかを見よう。七九二(延暦十一)年に、斯波(しわ)(志波)村の夷の胆沢公阿奴志己らが多賀城に使を遣わして、自分等は政府側につきたいのだが、伊治村の俘らにさえぎられて目的を果たすことができない。ついては伊治村の夷と戦ってでも目的を達したいと申し述べた。陸奥国ではこの申し出を入れて、志波村の夷に物を与えている。
 注目すべきことは、胆沢公阿奴志己は胆沢地方のリーダーではなく、斯波(しわ)(志波)村のリーダーとして登場するのである。斯波(志波)村とは盛岡市南部から矢巾町、紫波町にかけての地域である。多賀城が焼き討ちされた七八〇(宝亀十一)年の直後から、胆沢の蝦夷と政府軍とは激しい戦いを交えており、とりわけ七八九(延暦八)年の戦いでは、政府軍は大敗している。ただし、政府軍の攻撃目標は胆沢だけだったのではなく、和賀(北上市周辺)と志波も含まれていた。ところが、胆沢における戦いが政府軍不利に展開したために、和賀や志波に踏み込むことができなかったのである。
逆説的にいえば、胆沢勢力が頑強に政府軍に抵抗できたのは、和賀や志波の勢力の支えがあったからこそであった。この時期には胆沢と志波・和賀は、同盟関係にあって同一歩調をとっていたのである。
 ところがやがて、志波は政府側に接近する姿勢を見せるようになる。それが、七九二(延暦十一)年の、斯波(しわ)(志波)村の胆沢公阿奴志己らによる多賀城への遣使につながってくる。胆沢と志波・和賀の同盟が破綻したことがわかる。志波の人々の方針変更の背景には、朝廷側との長期にわたる断絶による、経済的な事情もあったように思われる。そして、胆沢・志波・和賀の同盟が崩壊したことが、後に阿弖流為らが坂上田村麻呂に投降する伏線となってゆくのである。
 以上のようなことから、胆沢公阿奴志己が志波のリーダーの地位についたのが、同盟破綻以前なのか以後なのかで、事情はいささかちがってくるものの、次のようなストーリーを描くことができる。胆沢公阿奴志己は、もともとは胆沢の蝦夷の集団の指導者のひとりであった。もしかしたら阿奴志己は、胆沢地方でももっとも格式の高い家柄の出身であったかもしれない。政府軍の胆沢地方への進攻が繰り返されるなかで、胆沢地方では阿弖流為らの徹底抗戦派と親政府的な方針へ転換すべきだというグループが対立するようになった。阿奴志己はこのグループの首領であったのだろう。結局、阿奴志己は胆沢地方からはじき出されて、志波地方の蝦夷の族長の地位におさまったのである。


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