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多賀城跡の想い出(三)『多賀城跡調査研究所の創設』
初代東北歴史博物館館長 岡田 茂弘
私は、昭和四十二年(一九六七)四月、文化財保護委員会事務局記念物課(以下「記念物課」という)に配置換えになり、毎月給料日に給料を手にすることができるようになりましたが、同時に「二年経ったら奈文研に戻す」との口約束は反古になりました。なお町田章氏は二年、坪井清足氏は三年で奈文研に戻りました。記念物課では埋蔵文化財担当になり、土地開発と遺跡保護との調整が緊急の業務でした。同四十年から遺跡地での土地開発をルール化するため、日本住宅公団(現(独法)都市再生機構)等と「埋蔵文化財包蔵地の取扱いに関する覚書」を交換して事前協議体制を作り、発掘調査費の原因者負担の原則を確立しましたが、民間の土地開発に対する事前協議は不可能で、負担能力の無い開発事業には国庫補助で地方公共団体が発掘するように指導しました。当時は都道府県主催の発掘調査でも各大学に丸投げ状態で、精粗まちまちでした。そこで、土地開発に伴う遺跡発掘調査での最低な必要事項を記した『埋蔵文化財発掘調査の手引き』を奈文研と記念物課の職員で共同執筆しました。この頃平城京跡内を通過する予定だった国道二十四号線バイパスを東方に迂回させる建設省(現国土交通省)との交渉等多くの開発調整を経験しましたが、別の機会に譲りましょう。
もう一つ私が担当したのが、埋蔵文化財緊急調査費国庫補助金を都道府県教委からの要求を査定して配分原案を作る仕事でした。同四十三年度末に行われた次年度に交付する文化財関係補助金のヒヤリングの際、宮城県教委から自ら来年度から多賀城跡を発掘調査するとして八百万円(国庫補助額四百万円)の計画を出してきました。多賀城町が実施していた多賀城廃寺跡の環境整備は同四十三年度で終了するので、今後は宮城県が発掘調査する計画で、地方公共団体自身が発掘調査するよう勧めてきた記念物課としては、筋の良い計画です。しかし、当時の宮城県教委の埋蔵文化財専門職員は一名のみだったので、私は説明に来られた村上係長と相原庄一氏に「宮城県教委で誰が発掘調査を行うのか」と質問しました。すると両氏は妙な顔をして答えませんでした。その夜の記念物課で埋蔵文化財補助金のヒヤリング状況と査定方針を報告し、「多賀城跡の調査は採択するが調査体制不明だから、補助金額を半減したい」としました。会議では特に異論は無かったものの、終了後に史跡担当の二人の調査官から誘われて飲むに行くと、「多賀城跡の調査補助金は要求額通りにして欲しい」との話があり、理由を聞くと「多賀城跡の保存整備のため、仲野浩調査官が高橋進太郎宮城県知事と面談して来年度から宮城県自ら調査を実施する了解を取り付けている。調査担当職員として東北大学助手の工藤雅樹氏と多賀城町嘱託の桑原滋郎氏が宮城県に移り、さらに君(岡田)が調査主任に考えられている」とのことでした。突然の話でしたが、行政事務より遺跡調査の現場が好きな私は即座に了承し、同時に村上係長らが質問に答えられなかった理由も判りました。だが自分が使う調査費補助金を全額復活するのは文字通り「お手盛り」なので調査体制の見通し判明を理由に若干の増額にとどめました。しかし、私が宮城県教育委員会へ出る件は,同年度末まで調整がつかず、実際に赴任したのは同四十四年六月一日になりました。同年五月十日に多賀城廃寺跡環境整備完成式が挙行され、東日本最初の史跡公園完成として今日出海文化庁長官(前年四月に文化財保護委員会は文化庁となり、今氏が初代長官に就任)が出席されましたが、長官に随行した中西貞夫記念物課長と宮城県教委との協議で、私の出向が決まりました。宮城県では多賀城跡調査研究所を設置したとのことでしたので、私は研究所独自の研究費が必要だと主張し、少額でも予算化するよう要望したところ、研究旅費・需要費として合計一五〇万円が補正で予算化されました。
歴史雑感
会員 熊谷 恵一
五〇年前ある雑誌で朝河寛一に関する記事を読んで、朝河なる人物を知った。彼は明治六年(一八七三)旧二本松藩士の子として生まれた。旧制福島中学(現安積高校)の卒業式で代表として答辞を流暢な英語で述べた。参列した来賓の人たちは、ど肝を抜かれたという。在学中の彼は毎日、英英辞典1枚を暗記し、破いて捨てたり食べたという。級友たちは彼のことを、辞書食いの朝河と呼んだという。残った表紙を校庭の桜の木の根本に埋めた。この桜を朝河桜と名付けた。以後五〇年頭の片隅に朝河の名は消えることなく残った。
昨年、矢吹晋(横浜市立大名誉教授、朝河博士顕彰協会代表理事)著「朝河貫一とその時代」に接し、五〇年前の初恋の人と再会した様な懐かしさであった。
朝河は欧米に名を知られた歴史学者であり、と同時に平和学者であった。朝河が語る平和学は、彼自身戊辰戦争で薩・長によって叩き潰された藩士の子であり、日清・日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争の中の生涯であった。日米戦争の時は「敵国アメリカ」の大学で研究生活を送った人ですから切実に平和を考えていた。彼の脳裏では、平和と歴史学が直結していた。戦争とは何か。国民同士が戦い合う国民性とは何か、国民性は歴史によって作られる。「歴史研究=国民性の研究=平和学」であらねばならない。平和を求めるなら国民性を作り上げて歴史の研究が重要であるというのが、彼の固い信念であった。
朝河のプロフィールをみると、福島中学、東京専門学校、現早稲田大学・文学部を首席で卒業、アメリカのイエール大学に入学した。中学卒業式の英語のスピーチを聞いた英国の教師は驚嘆し、今の世界の人が朝河を知るだろうと述べたといわれた。イエール大学卒業後帰国する予定であったが、教授に大学に残るように引き留められ、残るようになった。朝河は日本とヨーロッパの中世を主に研究し学位論文は「大化改新」それに「入来文書」、「比較封建制論集」この三部作が世にその名を広めた。イエール大学では大学の東アジア図書館長を長く務め、東アジア学の基本資料と図書一万冊を揃え、又米国議会図書館にも東アジア学の基本資料と図書四万五千冊を揃えた。欧米特にアメリカの日本史学の源流は朝河その人であり、アメリカにおける日本史学研究の最大の拠点になったのである。
朝河は平和のために行動する人であった。日露戦争を終わらせたポーツマス講和会議のとき会議を見守り、「ボストン・ヘラルドのインタビューに答えて「日露戦争は正義を守る戦いだから賠償をと取ってはいけない」と力説している。しかしこの朝河の市民外交は戦争史のどの本でも無視されている。又明治の「朝鮮併合」についても鋭い批判をしている。
明治政府の言い分は「朝鮮が弱いから放っておくとロシアに取られる。だから日本が併合するのがいい」という論、朝河はその併合は間違いであると批判している。「朝鮮が弱いので心配なら独立できるよう支援すべきである」これが一番正しい道である。そうしないと肝心の朝鮮の人から恨まれ、世界中から糾弾されるだろう」結果は朝河の指摘のとおりになった。日中戦争前の「対華二一ヶ条要求」も朝河は批判している。
次は、日米開戦の前夜ハーバード大学美術史教授ラングドン・ウォーナーが朝河に話を持ちかけた。ルーズベルトから天皇宛の親書を書いて貰って、天皇に直訴する形で開戦を止める構想を考えついたという。朝河は「成功の希望はほとんどない。しかし万が一ということもある」として、大統領の原案を起草したという。
朝河の原文は「日本国民は長い歴史を持つ偉大な民族だ、史上いろいろ危機はあったが、全部クリアして発展してきた。今回の危機も必ずや克服できるであろう。日本人の心情に訴え、天皇にも訴えるという書簡の原案を書いた。しかし、現実は天皇に届いた「ルーズベルト親書」は、朝河が書いたものではなく、最後通牒であった。又、広島・長崎の次に京都・奈良が原爆投下目標計画のリストに乗っていたのを、朝河が友人を通して陸軍長官や国務長官を務めたヘンリールイス・スティムソンを動かして京都・奈良をリストから削除させています。朝河が京都・奈良を救ったといっても過言ではあるまい。しかし、京都・奈良の人々は、このことをどれだけ知っているのだろうか。
最後になりますが朝河史学は戦前は「右寄りの皇国史観」によって、戦後は一世を風した、「左寄りのマルクス史観」によって完全に無視された。
朝河没後六〇年になるが、この辺で朝河史学を見直し研究すべきではなかろうか。日本の歴史学会にとって必要なことと私は信じている。
「多賀城との深い絆に感動」
大宰府史跡解説委員 矢野 文夫
私どもが史跡解説に携わっている大宰府は、大和朝廷の西の拠点で中国大陸・朝鮮半島の国々との交渉の窓口であり西海道の態襲・隼人などの制圧拠点でした。同じように、多賀城は東北の蝦夷との対決の拠点であったと思います。太宰府天満宮境内ガイドの研修旅行で、平成十七年九月、岩手県東山町(現一関市)で行われた菅公夫人「吉祥女天神」の祭事に参加し、その帰路多賀城跡を視察することができました。大宰府は史跡として既に整備されていますが、多賀城は古の名残が残っている感じを受けました。また、歴史に残る大和朝廷の決定やそれに伴う著名な人の足跡が多賀城と大宰府に関わっていることを想い、深い感動を覚えました。福岡市博多の那津官家や筑紫大宰が持つ権能を、山に囲まれた大宰府へ移すきっかけとなった天智三年(六六三)の白村江の敗戦。これを指揮した阿倍比羅夫も五年前の斉明四年(六五八)に蝦夷討伐をしています。大伴旅人は養老四年(七二〇)、征隼人持節大将軍として筑紫に下り神亀四年(七二七)に、大宰帥として再度赴任した時は、子供の家持は十一歳でありました。その家持が神護景雲元年(七六七)大宰少弐となり、晩年の延暦四年(七八二)持節征東将軍として赴任し、二年後の延暦四年(七八五)に陸奥多賀城で死亡しています。天平十二年(七四〇)、大宰少弐藤原広嗣の乱で大将軍に任じられた大野東人は、その三年前の天平九年(七三七)には「多賀柵」を拠点に太平洋側の「出羽柵」とをつなぐ直通道路を作っています。大宰府政庁の東側、月山(辰山トキヤマ)にあったとされる時刻を知らせる漏刻設置の根拠は、宝亀五年(七七四)十一月十日条「陸奥国、大宰府に准じて漏刻の設置を請う」によっています。白村江の敗戦以降、設置された防人や軍団の兵士は東国から供給されていましたが、大和朝廷は蝦夷の平定を進めるため、数度の変遷を経ながら人数を削減し東国を対蝦夷要員(鎮兵)にあて、対外的な西街道の守り(防人)は大宰府管内で行うことにしたのでしょう。大宰府からの要請にも関わらず、天平宝字元年(七五七)の東国防人停止と陸奥国鎮兵の復活は意味があります。等々。
私は平成八年から一年半の研修を経て解説員に登録されました。当初は先輩解説員から人名や用語の読み方で注意されたものでした。一番気を使うのは子供達を案内する時です。例えば「天満宮の楼門の赤とお稲荷さんの赤は同じか」とか、菅原道真公が初めて朝廷に勤めたときの役職名「正六位下下野権少掾とはどんな仕事をしていたのかなど、然し勉強になりました。他県から来た子供達を九月に案内して、写真の交換から文通が始まり、その後クリスマスカードのやり取りから卒業文集への原稿依頼まで半年続いたことがあります。背後に担任の先生の思いを感じながら今も大切に手紙や文集をとっています。まだまだ未熟ですが、解説依頼があれば必ず下見をして、気持ちよく見て頂けるよう、そして印象に残る解説を心がけています。
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