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博物館の展示から(8) 『臼・竪杵雑感』
東北歴史博物館 館長 進藤 秋輝
二〇〇七年は日本と中華人民共和国にとって画期的な歳であった。九月十四日に種子島宇宙センターから日本初の月周回衛星「かぐや」の、翌月の十月には四川省西昌衛星発センターから中国初の月面探査衛星「嫦娥(じょうが)一号」の打上げに成功した。「かぐや」から地上に送られてくる月表面の鮮明な画像やレーザーによる月の殻の分析から、月の詳細な地形図が作成(本年二月十三日読売新聞)されるなど、科学の進歩はめざましい。
科学的な解明の一方で、私たち日本人は月に伝説的なほのぼのとした愛着がある。「ウサギ、ウサギ何見て跳ねる」と童謡でも謳われているように、「月にはウサギがいて、餅をついている」と古くから教えられてきた。満月の月影をよくみると、ぼんやりとではあるが、そのように見えるから不思議である。人間の想像力の凄さである。実は、先端科学の代表でもある「かぐや」も「嫦娥」も月に因んだ物語や故事からの命名である。「かぐや」はご存じのとおり、日本最古のかな文学である『竹取物語』に登場する月よりの使者「かぐや姫」からの命名であるし、「嫦娥」は「夫の羿(げい)が西王母に願って得た不老不死の薬を、妻の嫦娥が盗み自分だけ飲んだ咎で、天帝から月に追いやられ、今も竪杵と臼で穀物を搗いているのだ」という中国の故事に由来する。
月のウサギの説話は十二世紀の二〇年頃に成立したとされる『今昔物語』にある。「老人(帝釈天)に養うことを乞われた兎が、何も出来なかった代償に、自分を火に投じて糧として差出した。捨身のこの慈悲行を哀れんだ帝釈天が、ウサギの姿を永遠に皆に見えるように月に遣わした」とする説話は夙に有名である。大谷大学の神戸和麿氏(真宗学)の説によると、この説話の原典は、紀元前一世紀のインド仏教説話『ササジャータカ』であるという。日本の稲作文化の伝来元であるインドと中国に「月」を介した共通の説話が存在することは興味深い。
博物館の常設展示の弥生時代コーナーに仙台市中在家南遺跡出土の弥生中期の臼と竪杵が、古墳時代のコーナーに多賀城市山王遺跡出土の竪杵が陳列されている。これらの道具は稲作の伝播に伴って、インドや中国を経て招来された脱穀用具である。臼は現在の臼と変わらない刳物であるが、竪杵は竪木を削り、長さ一メートル強の円柱を作り出し、その中央部を細工して握部を作り出したものである。竪杵は上下両方とも使用可能で、左右の手で交互に持替えながら作業した。神戸市桜ヶ丘遺跡出土の弥生時代の四号・五号袈裟襷文銅鐸(国宝)には「臼と竪杵で二人がかりで脱穀している」絵が鋳出されている。竪杵の歴史は古く、古代、中世はもとより、近世初期まで、杵は一貫して竪杵であった。古川瑞昌氏の風俗絵の検討を通した研究『餅の博物誌』によると、現在の「餅つき」などで一般的に使用される杵部に直角に柄をつけた横杵は、江戸時代の元禄以降に現れたものという。
弥生時代や古墳時代に脱穀だけでなく、お餅もあったかどうかはよくわからない。関根真隆氏の『奈良朝食生活の研究』によれば、餅の語源の一つでもある「望月=満月」を連想させる円形の餅が『豊後国風土記』に、大豆餅、小豆餅なども正税帳にみえるという。また、平安時代になると、三月三日の節会に草餅、五月端午の節会に柏餅を食するなど年中行事と密接に関係して餅が搗かれるようになったという。
先日、当博物館の博学連携事業「宮城の餅食文化」の一環で、多賀城市立城南小学校と白石市立深谷小学校の生徒さんとの交流会があった。学校のある地域の父兄や教育委員会の協力を得ながら、餅つきの実演や種々の餅を味わった。臼と杵で餅を搗く機会が見られなくなった昨今、これまでの日本の農耕文化を支えた臼と杵、そして「月のウサギ」に感謝しつつ、餅を嗜みたいものである。
多賀城をめぐる人々(十六)菅野真道と藤原緒嗣
東北歴史博物館、前館長 工藤 雅樹
『日本後紀』の延暦二十四(八〇五)年十二月七日条に次のような記事がある。
是の日、中納言、近衞大将、従三位、藤原朝臣内麻呂(ふじわらのあそんうちまろ)を殿上に侍(はべ)らしむ。勅ありて、参議・右衛士の督(かみ)・従四位下・藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそんおつぐ)と参議・左大弁・正四位下・菅野朝臣真道(すがののあそんまみち)とに天下の徳政を相論せしむ。時に緒嗣議して云はく、「方今(ほうこん)天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば、百姓安んぜん」、と。真道異議を確執し、肯(あ)へて聞かず。帝、緒嗣の議を善(よ)しとす。即ち停廃に従ふ。有識之を聞き、感嘆せざるはなし。延暦二十四(八〇五)年といえば桓武天皇の最晩年であるが、勅命により藤原緒嗣と菅野真道の二人の高官が、征夷と造都を停止すべきか継続すべきかについて論議したというのである。
桓武天皇の時代は都づくりと蝦夷との戦いにあけくれた。桓武天皇の登場は、宝亀十一(七八〇)年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の直後であった。朝廷の東北政策の最高責任者だった按察使(あぜち)・紀広純(きのひろずみ)が殺され、多賀城が反乱軍の手中に落ちたこの事件は、中央政界にも大きな影響を与えた。宝亀一二(七八一)年正月には、伊勢国に美しい雲が出現した祥瑞(しょうずい)により天応(てんのう)と改元され、この年の四月には光仁天皇は衝撃のあまり皇太子に譲位して桓武天皇の時代が始まったのである。桓武天皇は当初から、蝦夷問題を背負って即位したといってよい。それから二〇年余、政府軍と蝦夷側との武力による対決はますます大規模になり、政府側は都合四度にわたる作戦を展開させざるを得なかったのである。そして、坂上田村麻呂の登場により、ようやく盛岡市以南を朝廷の直轄支配地に組み入れることができたものの、なお岩手県北部から青森県方面を直轄支配地とするための、五回目の作戦計画が進められ、延暦二三(八〇四)年正月には関東地方の諸国や陸奥国に命じて食料を陸奥国小田郡中山柵に運ばせ、征夷大将軍として坂上田村麻呂が任命され、やはり数万人規模の軍を編成することが考えられていたのである。
造都、すなわち都づくりもまた、桓武天皇一代の大事業であった。桓武天皇といえば、平安京を造営して京都に都を移した天皇として知られているが、実は平安京造営に先立って、長岡京(京都府長岡京市・向日市)が造営され、天皇即位の四年めにあたる延暦三(七八四)年には平城京から長岡京への遷都が行なわれていたのである。実際に、遷都が行なわれ、一〇年間都でありつづけたのであるから、長岡京が首都機能を備えていたことは間違いなく、発掘調査によってもそのことは確認されている。それにもかかわらず、大火とか地震による被害があったわけでもないのに、桓武天皇は長岡京を捨てて平安京の造営を行なったのである。その理由については、さまざまな説があるが、それにはふれない。長岡京から平安京への遷都は延暦十三(七九四)年であった。
その天皇が最晩年になって、一代をかけたふたつの事業について総括を命じたのである。緒嗣は藤原百川(ももかわ)の子、この時はまだ三十二才ながらすでに参議に昇進していた。緒嗣の父・百川は、光仁天皇の腹心で、桓武天皇が皇太子とされた出来ごと(他戸〔おさべ〕親王廃太子事件)にも尽力したようで、のち桓武天皇は百川の子緒嗣を殿上に召して百川の功をたたえている。一方、菅野真道はこの時にはすでに六〇才を越えており、延暦十四(七九五)年からは造宮亮(平安京造営を担当する役所の次官)をつとめ、平安京造営に尽力していた人物であるから、天皇の事業を肯定的に評価することは予測されていたにちがいない。果たして真道は、征夷と造都の継続を主張して譲らなかったが、天皇は「天下の苦しみのもとは軍事と造作である。この二つの事業を停めなければ、民衆は安んじないだろう」との緒嗣の意見を是とし、天皇の裁断によって両事は停廃されることになったのである。それからわずか三ヵ月後の(延暦二五八〇六)年三月には桓武天皇は亡くなっている。
こうして、この段階までに政府側が確保した盛岡市と秋田市を結ぶ線が、以後長い間にわたる政府側の直轄支配地の北の限界線となるのである。
城柵検討会
宮城県考古学会前会長 桑原 滋郎
二月二十一・二十二両日盛岡市で『第三十五回古代城柵官衙遺跡検討会』があった。この会は、東北歴史資料館発足間もない昭和五十年正月に第1回目が開かれ、以後毎年途切れることなく開かれている。当時東北地方でようやく「城柵官衙遺跡」の発掘調査が活発化したので、各地の調査員の情報交換を目指してスタートしたものだ。記憶もおぼろげだが、二、八人かの仲間に手書きの案内を出し、八〇人ほど集まった。今回は、三〇〇名近くの北は北海道から南は九州までの研究者が集い、大盛況だった。会則も会員も無い会が良く三十五年間続いたものと、最初から関わった一人として感慨一入だ。初めの四回は資料館を会場に開催したが、以後多賀城とそれ以外の地とで、交互に持ち回るようになった。その第一回が盛岡市で、昭和五十四年のことだ。
九世紀になると胆沢城(八〇二)・志波城(八〇三)が相次いで造られ、北上盆地は盛岡近くまで律令政府の支配が及んだ。しかし、志波城は建造後まもなく廃止され、替わって徳丹城が造られたことが知られている。昭和五十四年当時、胆沢城跡(奥州市水沢)と徳丹城跡(矢巾町)は既に所在地が明らかになっていたが、志波城跡だけが所在不明だった。当時は誰もが、志波城は徳丹城の南に遷ったに違いないと信じ、徳丹城の南で遺跡探しが行われていた。そうする内に、徳丹城の北、盛岡市で「太田方八丁遺跡」を調査したところ、古代城柵ではないかと思われる遺跡が検出され俄に注目を集めた。もしや「幻の志波城では無かろうか」と言うわけである。そこで第五回は、この遺跡の検討を主目的に、開催されたのである。
当時岩手県には鬼よりも怖い林謙作先輩がおり「築地らしき物が出たから見に来い」等と電話があり、私も生意気盛りで「林さん良く築地だとわかりましたね」と放言し雷が落ちたのも懐かしい。考古学的には「城柵」の要件を十分に満たしており、志波城跡の可能性は高い。しかし、遺跡の所在は後の志波郡内には属さないので、その点が難点であるという指摘が、文献史の研究者から出た。私はシンポジュームの司会などを担当し、考古学の立場で頑張ったが、検討会当日に結論を得るには至らなかった。いつ頃からかは記憶が定かではないが、暫くして太田方八丁遺跡は志波城跡であろうと言うことに落ち着き、現在ではそれを疑う人は居ない。
ところで、研究会の発表には制限時間があり、三分前・一分前・タイムオーバーには、一鈴、二鈴、三鈴を鳴らすのが通例だ。考古学の研究者には厚かましい人も多く、制限無視も少なくない。検討会を始めようとすると、事務局はベルを用意していない。困った挙げ句事務局の先生、自宅から仏前の「オ鈴(リン)を以ってきてくれた。「リン・リン」を「チン・チーン」で代用しようと言う寸法。当時多賀城の研究所には旧石器の鎌田俊昭和尚が居たので「お前本職だろ」とタイムキーパーに起用した。時間が来るたびに、和尚様がオリンを鳴らすので会場は笑いの渦。嶮しくなりがちの議論もスムーズに進んだ。
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