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         多賀城市史跡案内サークル十五周年
               
               ごあいさつ             大山 真由美
 
 当サークルの機関誌「いしぶみ」をご愛読いただき、ありがとうございます。
 平成五年に結成された当サークルも今年の五月、十六年目を迎えます。今まで多くの方々と一期一会の出会いを大切にガイド活動や講演会、研修等の企画を行ってきました。
歴史を身近に感じてもらうために発行している「いしぶみ」も今年で八年目を迎えました。厚かましくも紙面に登場する諸先生方からはボランティアで貴重な原稿を寄せていただいております。
 これまでのご自分の研究成果や私たちの知らない考古学の舞台裏を「いしぶみ」を通して伝えていただけることはこの上ない喜びです。心から感謝申し上げます。また、多賀城市教育委員会をはじめ、東北歴史博物館・宮城県図書館の方々には常日頃、ご指導、ご協力いただきありがとうございます。
 特別史跡である「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府と多賀城、友好都市をきっかけに南北の交流を深めたい思いで太宰府古都保存協会の方々のご協力を得て「いしぶみ」に原稿を頂いています。多賀城市には私たちサークルの他に観光協会から委嘱された観光ボランティアの団体がガイド活動を行っています。私たちサークルも観光ボランティアと連携をとりながら、これからも活動していきたいと思います。   
 東北は遠く「蝦夷」と呼ばれた人々が住み、古代東北の中心地として栄え、今日まで多くの先人たちが歴史の足跡を残してきました。これからも皆さんの足跡をこの「いしぶみ」に書きつくすとともに地域の歴史学習のお手伝いを続けていきたいと思っております。是非、当サークルや「いしぶみ」に関して皆様のメッセージをお寄せください。


            史跡案内サークルに入りませんか
            
                             会員  松川 和夫
 
 『史跡案内サークル』は、今年(平成二十一年)4月で一六年目に入るようです。私は、実は入会後、未だ8年目であり、案内としての活動は、実質四年程しか経過していないのです。それは案内をするようになるまで三〜四年の修業が必要などと言うようなものではありません。具体的に言えば、あまり真面目でもなく、出来も良くなかったのです。にも拘らず、手足を自由に伸ばさせて頂き、楽しい人生を送らせてもらっているのは何故か?
 それは、この会の体質にあると思います。
私は、自分の職業が終わってしまった時、内心は、もっと働きたい、体力は十分に余っているという心境で、第2の人生に対する展望など何も持っていませんでした。
 通勤のため、勢い良く車に乗り込む人、駅に向かって急いで足を進める人々が実に羨ましく、晴れたウィークデーに散歩する自分を恥ずかしく思っていました。私の住まいは浮島。悶々として、人ごみの少ない多賀城跡を目標もなくさ迷っていました。
 そんな時、すぐ近くにお住まいの、サークルの中心の方からお誘いを受けました。私は、『案内』と言う言葉に抵抗がありました。専門でもないのに、歴史の基礎知識も持っていないのに、どうして案内が出来る?
『このサークルは、歴史の専門家の集まりではない。多賀城はどんなところか、どんなところだったのか、日本の歴史にどのように関わっていたのか、少しでも勉強したい人々の集まり』
 そのとき、私は思いました。一体誰のためなのか?
 地域社会に貢献するため?・・・これは究極、自分の人生のためだと気がついたのです。千数百年前の、奈良平安時代(もしかするとそれよりも前からの宿命として)、まだ不安定な中央政府(大和朝廷)は、東北に勢力を広げ、且つ統一するための拠点として、この多賀城を選んだ。彼らにとっては、道の奥というほど未開で、且つそこの住民は,言うことを簡単に聞かず、思うようにならない。野蛮と言う言葉で片付けてしまいたいほど手に負えない民族の集まりに見えた。
 それは同時に、未知で美しい自然の憧れの世界であったに違いなかったのです。誰言うとなく、歌にうたわれ、歌枕となって、又あこがれを生む。中学校の歴史にも出て来る、坂上田村麻呂、万葉集の大伴家持などの登場。やがてそれは、貴族から武家社会に転ずる時代にも、源義家や源頼朝も、多賀城のどこかに座ったかもしれない。
 そして、創建当初から一〇〇〇年近く後には、松尾芭蕉までも歌枕に引かれ、この地を訪れ感激の涙を落としたという。まさに多賀城は悠久のロマンの地と言えます。時間が多少あって、少しは歴史を紐解いて見たいと思っている方々に申し上げたいのです。会のため、地域のためというよりも、気軽に勉強できて新鮮な自分を発見できるかもしれない場所として、(私自身の実感からお勧めしたいのですが・・・)
『史跡案内サークル』に入って見ませんか?


               入会して七年
            
                              会員 佐藤 淳子
 
 「いしぶみ」を読んで多賀城の話が聞きたいと思い、入会して七年になります。専門の先生方、市主催の講座を受けさせて頂いたり、明日香、平泉、登米、その他現地研修、又会員の集い等々で歴史の大切さを感じます。本・資料も数多くなり、整理しながら読み返しています。多賀城に居住して良かったと感謝、住みよい環境を心がけたいと思います。


             十五年の活動を振り返る
          
                              会員  佐藤 利昭
 
 サークル十五周年を迎え、これまで当サークルを支えて下さった方々に御礼申し上げます。 入会して十五年、私とサークルの出会いをお話します。子供が小学校四年生の時、夏休みの宿題が「多賀城市内の史跡や名所等」に関する調べがテーマでした。政庁跡・多賀城碑・阿部の待橋・末の松山等を子供と一緒に歩きました。市内には貴重な史跡が多くあることをその時、知りました。当時、子供が調べた記録を現在も残してあります。私は歴史に興味を持ったことはなかったのですが、会津の同級生が地元の教師で、小学校の修学旅行は、一泊二日、仙台〜松島。行程に多賀城国府の見学が入っていました。「多賀城に住んでいるのだから、国府跡について説明せよ」との依頼がありましたが、この要請に応じることはできませんでした。そのあと、史跡案内ボランティア講座があったので、多賀城跡に関する歴史を知ろうと思いました。講座終了後に、史跡案内サークルが創立しました。私も何とはなしに入会しました。これがサークルへの関わりの始まりとなります。当初のガイドは多賀城国府跡について、知識は皆無に近い状態だったのでパンフレットだより、中途半端な説明、質問にもお答えできずに、「後日調べてお知らいたします」というお粗末なものでした。現在は時代背景も入れてわかりやすく説明しています現地研修での感動は多々ありますが、特に明日香と平城京、五日間の探訪の旅は最高でした。古代において天皇や貴族(政治家j)等の権力争いの場で当時どのような政治と生活であったのかには興味津々です。もう一度訪ねたい地です。
 十五年間のサークル活動を通じて日本の古代〜中世にかけての日本史を一部分ではありますが、断片的、表面的に知ったことは良かったと思います。故郷会津の歴史についても今後勉強しようと思っています。


              延喜式内社・多賀神社

                               会員  小澤 操
 
 延喜五年(九〇五)醍醐天皇の命により編修された律令の施行細則が、延長五年(九ニ七)に整った。これが延喜式である。国が官社として神明帳に登載した神社が延喜式内社であり、全国三千百三十二座、陸奥国は一百座である。
 旧宮城郡には、鼻節神社(七ヶ浜町)志波彦神社(仙台市岩切、現・塩竈市)伊豆佐比売神社(利府町)多賀神社(多賀城市)の四座となっている。多賀神社は多賀城市内の高崎一丁目に一座、そして市川字六月坂に一座、合わして二座が鎮座している。その二座についての由来を追ってみた。

○ 式内社・多賀神社のこと
 
 鹽松勝譜 多賀神社祭る所二座、一は浮島にあり、一は多賀崎にあり、両社を合わして多賀神社と曰う。
封内名蹟志 多賀神社は今の鹽竈一ノ宮也。郷説の所謂浮島明神なり。
観迹聞老志 多賀神社は、舊多賀城址中に在り。今其祠する所の神明を詳かにせず。
安永風土記 浮嶋村・村鎮守多賀の神社、往古多賀御城主江州多賀神社を御勸請被成奥州一百座當郡四座之内に御座候申傳候・・
奥州名所図会 多賀神社多賀崎にあり、土人、高崎村と呼ぶ。また塔の越と云ふ。高崎明神とも云ふ。

宮城縣史 多賀神社 在ニ多賀碑東岡一
○ 多賀神社 一座(多賀城市高崎一丁目)
 神頭掲示によると、江州多賀神社(現滋賀県多賀大社)を遷祀したとされていること、明治五年九月延喜式内社として村社格に加列されたこと、そして祭神は武甕槌命・経津主命(タケミカヅキノミコト・フツヌシノミコト)であることなどが記されいる。
 江州多賀大社の祭神は国生みの二神、伊獎諾尊・伊獎冉尊(イザナギノミコト・イザミノミコト)であり、各地の分霊社祭神も同二神が慣わしであるが、なぜか常陸国一の宮・鹿島神宮の軍神である武甕槌命。下総国一の宮・香取神宮の武神である経津主命が祭神となっている。近隣の古老の人たちは、この多賀神社を昔より「お伊勢さま」と呼んで祭っている。

○ 多賀神社 一座(多賀城市市川字六月坂)
 明治四十二年陸奥総社宮に合祀となっているが、代々「お多賀さま」と呼ばれており、いつの時代にか焼失し、その大社殿跡は畑地となり、耕作者は神威をはばかり肥料を施さないで耕していたと伝えられている。発掘調査・遺跡保存に伴って、同社は現在地に仮置きとなっているが旧地の参道跡には、杉の古木二本がその面影を残している。同社の棟札には「延喜式所載宮城郡多賀神社是也」として次のように記されている。

○ 浮嶋神社 (多賀城市浮島一丁目)
 宮城郡浮嶋村に鎮座する神社は、式内社。多賀神社であると古書に見え隠れしている。
 古くには「社之竪額多賀明神四字」とあるが、現在の竪額は「浮嶋神社」である。社伝によれば、御祭神は奥塩老翁神・奥塩老女神。明治四年村社に列す同四十三年奏社宮に合祀せんとせしも由緒ある神社なる故を以て許可なかりき・・・・・・。とある。


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