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いしぶみ32号(1)

博物館の展示から(一〇)   『多賀城碑雑感』(二)
   
                       東北歴史博物館 館長 進藤 秋輝

 首部の「西」、「多賀城」の頭書きに続けて、本文最初の五行は多賀城と京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国までの里程を記している。

 多賀城   去京一千五百里。
去蝦夷国界一百廿里。
去常陸国界四百十二里。
去下野国界二百七十四里。
去靺鞨国界三千里。

 「去」は現在の中国語で「何処其処へ行く」という意味に使われているように、多賀城を起点として、都や各国境への距離が記されている。従って一行目は「多賀城から平城京へ行くに一千五百里」という意味になる。当時、一里は五三五m。多賀城と常陸・下野国界との極端な里数の差は、国府間との距離ではなく、当時の国境認識とみれば理解しやすい。
国界の配列にも妙なるものがある。「多賀城」を浮き出させるため、京と蝦夷国を対置する。次ぎに、律令制下の東海道端の常陸国、東山道端の下野国を対に置く。最後に登場する靺鞨国は渤海国(新羅に滅ぼされた高句麗遺民大祚栄が建国)とみる説が有力である。渤海国に支配されていた最多の現住民が靺鞨族であり、蝦夷国と同義対になるように靺鞨族としているのである。
 さて、多賀城コーナーには、多賀城創建瓦に国名や郡名を記した文字瓦が展示されている。創建期初期の文字瓦には「常、上、下、相」の型圧痕文字がみられる。これらは、常陸、上総、下総、相模国を一字で記したもので、上記の国々は東海道に属する。造営がピークを迎える次ぎの日の出山瓦窯の段階では、東海道諸国に東山道諸国(下毛や上毛)や陸奥国内の郡名も記されるようになる。文字瓦の意味は瓦製作の費用負担を示すとみられており、瓦が建物に使われることから、多賀城全体の造営費にも敷延できる証拠になる。
多賀城造営費は道単位で負担されているのである。城柵建設に伴う移民も、出羽国では北陸道諸国を陸奥国では東海・東山道諸国を中心に行われている。古代の「道」はこのように、実態として機能した行政区画であった。現在、日本政府でも、「道州制」が叫ばれているが、何と千三百年前に既に行われていた行政形態であったのである。
 靺鞨国については、多賀城碑以前の七二〇年(養老四)に「渡島・津軽の津司、従七位上の諸君鞍男ら六人を靺鞨国に遣わし、其の風俗を観(み)しむ」という記事がある。渤海国は日本との交易を目的に奈良・平安時代に三四回の使節を派遣している。なかでも、奈良時代の使節派遣一三回のうちは六回は出羽国に来着している。七二一年以降、出羽国は陸奥按察使の管轄下に置かれる。陸奥出羽按察使である朝猲は靺鞨国の実情も、十分に熟知していたとみられる。
 平成六年に秋田城跡の東辺外郭築地外側の鵜ノ木地区で、渤海使節用に作られたとみられる水洗式便所が発見された。床張建物内に三つの木樋による便槽があり、木樋先端は長方形の沈殿槽に接続している。沈澱槽からは様々な寄生虫卵が発見されたが、当時の日本人が常食しないブタを感染源とする有鉤条虫卵の存在が注目された。金原正明氏によると、有鉤条虫卵の検出は秋田城と当時の迎賓館である鴻臚館(福岡市)のトイレからに限られるという。多賀城碑は修造はもとより、当時の国際状況をも説く反映する内容をもつことでも貴重な史料である。


多賀城をめぐる人々(十八)

                      東北歴史博物館、前館長 工藤 雅樹

               文室綿麻呂の「征夷」

 嵯峨天皇の時代の年号を弘仁(こうにん)という。この時期に朝廷の東北地方支配の責任者となり、腕をふるったのが文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)である。綿麻呂はかつて、坂上田村麻呂とともに「征夷」にあたったこともあるが、嵯峨天皇初期に勃発した薬子(くすこ)の変では、平城(へいぜい)上皇の側に属したため、一時嵯峨天皇側に拘禁されている。しかし事件の際、上皇の東国入りを阻止するための指揮者に任命された田村麻呂は、綿麻呂を副官として起用することを請い、綿麻呂は田村麻呂の信用に応えたのである。綿麻呂は大同五(八一〇)年九月十一日には参議・正四位上となって公卿(くぎょう・大臣・納言・参議及び三位以上の上級官人のこと)に列し、十六日には大蔵卿(おおくらきょう)・陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)に任じられ、東北地方に赴くことになった(大同五年は九月十九日に弘仁と改元された)。
 任に赴いた綿麻呂は、弘仁二(八一一)年二月には朝廷に対し、きたる六月上旬を期し、陸奥出羽両国の兵二万六〇〇〇人を発して爾薩体(にさったい)、幣伊(へい)の二村を征することを申請した。しかし綿麻呂は、三月になって兵士を一万人減らすという処置を講じている。このことを知った朝廷は、数は力であるという理由で、あらためて兵士数を減らす必要はないと命じている。そして、弘仁二年四月には綿麻呂自身が征夷将軍に任命されたのである。副将軍は大伴今人(おおとものいまひと)、佐伯耳麻呂(さえきのみみまろ)、坂上鷹養(さかのうえのたかかい)であった。坂上鷹養は坂上苅田麻呂の子、田村麻呂の弟である。なお、田村麻呂の場合が征夷大将軍なのに綿麻呂は征夷将軍なのは、指揮する兵力の差による。ところが弘仁二年五月には、この年の「征夷」はなお準備が不充分だという理由で、実施は翌年六月に延期するようにとの命令が下された。
 しかしながら実際には、弘仁二年のうちに、ある程度の軍事行動が行なわれたらしく、弘仁二年十月には綿麻呂は朝廷に対し、兵糧を運ぶために陸奥国から軍士一一〇〇人を追加徴発する許可を求め、許可されている。そして綿麻呂は十月五日には、「斬獲は稍多く、帰降は少からず」と報告し、弘仁二年十二月十三日には、坂上田村麻呂も完全には平定できなかった遠閇伊村(とおつへいむら)を平定したとして、綿麻呂に従三位を授けるなどの論功行賞が行なわれた。そして綿麻呂は、閏一二月十一日には「もはや冦賊は遺っていない」として、これまでの志波城や胆沢城に鎮兵を配置する方式を改め、段階的に鎮兵制度を廃止し、志波城の規模を縮小して別の地に移転するなどの政策を打ち出している。志波城を縮小移転したものが徳丹城(岩手県紫波郡矢巾町)である。
 ところでこの間、二月または三月には出羽守(でわのかみ)の大伴今人は雪をついて勇敢な俘囚三〇〇余人を発し、爾薩体(にさったい)を攻撃し、六〇余人を殺戮したということがあった。また七月には、出羽国が、邑良志閇(おらしへ)村の降俘の吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が「爾薩体村の夷の伊加古(いかこ)等が都母(つも)村に居り、幣伊村の夷を誘って自分たちを攻撃しようとしているので、兵粮を請いて先登して襲撃したい」と申し出たので米百斛(こく)を給いたいと朝廷に上奏し、許可されている。
このような経過を見ると、文室綿麻呂の「征夷」は、坂上田村麻呂の時のような大規模なものではなく、俘囚の軍をして爾薩体村、幣伊村の蝦夷を攻めた程度であったことがわかる。綿麻呂の「征夷」によって、この地域に新たな城柵が築かれたわけではなく、新規の郡が設置され、岩手県北部や青森県地方が政府側の直轄支配地域に組み入れられたのではないのである。したがって政府側の直轄支配地域の拡大を目的とする、大規模な政府軍を編成して蝦夷の世界に攻め込むというスタイルの「征夷」は坂上田村麻呂の段階で終わっていると見て良いのである。
 綿麻呂は、弘仁三年(八一二)十二月に大藏卿・陸奧出羽按察使に在任のまま左衛門督(さえもんのかみ)に任命されている。この人事により、綿麻呂は都へもどったのであろう。ところが、綿麻呂は弘仁四年五月に再度征夷将軍に任命された。ただしこれは、新たな軍事行動のためというよりは、鎮兵の段階的廃止など、綿麻呂が打ち出した新しい政策の実行のために東北へ赴任する必要が生じたためであろう。弘仁五(八一四)年八月の人事で綿麻呂は、陸奧出羽按察使に在任のまま右衛門督(うえもんのかみ)に任命されている。これにより、綿麻呂は再び都へ戻ったと考えられる。その後の綿麻呂は、弘仁九年に中納言となっているが、弘仁十四年四月廿六日に五十九歳で亡くなっている。薨伝によれば、この時の綿麻呂は、中納言兼右近衛大将(うこのえだいしょう)従三位・勲四等であったという。『公卿補任』(年次ごとに公卿に列した人物を記したもの)には綿麻呂の大将在任は八年。中納言在任は六年とあるので、右近衛大将となったのは弘仁七年のことであったであろう。また、おそらくは「征夷」の功により、勲四等を与えられたこともわかる。


注 爾薩体村は岩手県北部の二戸市・一戸町周辺、幣伊村は八戸市周辺、都母村は青森県おいらせ町・七戸町・東北町周辺と考えられる。
邑良志閇村の位置は不明であるが、爾薩体村などとあまり離れてはいない地と思われる。


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