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日本の国のかたち・パート1 ー歴史と文化の源流を尋ねてー
仙台大学 客員教授(前宮城県図書館館長) 伊達 宗弘
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣山隠(ごも)れる 倭しうるはし(中略)愛(は)しけやし 我家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も 『古事記』
(大和は日本中で最も優れた真秀(まほ)の国だ。重なり合う青い垣のような山々に囲まれた大和は美しい。ああ懐かしい我が家の方から雲が巻き起こってくるなー。)
朝夕風 月にうそむき、歌を詠ずるばかりなり 柿本人麻呂
(明けても暮れても風月に思いを寄せ、歌を詠ずるばかりである。)
あまの原ふりさけみれば春日なる
三笠の山にいでし月かも
『古今和歌集』 阿部仲麻呂
(はるかなる空の月を見ると、春日の地にある山に出た月のことが思い出される。)
やまとうたは人の心を種として、よろずのことの葉とぞなれりける。力も入れずして、雨土を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、おとこおんなのなをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは 歌なり。
紀貫之 『古今和歌集』序文
何と美しく心豊かになる古典の一節でしょうか。どうして日本には千年以上前のこうしたものも数多く残っているのでしょうか。いまイギリスやフランスや中国で「五百年前活躍していた女性は」「五百年以上前の文学を紹介して下さい」といっても、ほとんど出てこないのではないでしょうか。出てきたとしても彼女らの詩や文学書などは残っているのでしょうか。
中国二千年、三千年の歴史といわれますが、中国は王朝と民族が変わっており、その都度大量の破壊が繰り返され、伝統文化の継続はありません。中国の代表的な古典劇「京劇」は清代に作られたもので数百年の歴史しかありません。それに対し日本は万葉の時代から今日まで脈々と様々なものを一貫して生成発展させてきた世界唯一の国です。どうして日本だけがこうしたものをジャンルとして語れるほどの蓄積を持ってきたのでしょうか。
第二次世界大戦で日本の敗戦が濃厚になった昭和十八年パリで、大正一〇年から昭和二年にかけて駐日大使を務めた詩人のポール・クローデルは、「日本人は貧しい、しかし高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」と発言しています。
大正十一年来日した、アルバート・アインシュタイは伊勢神宮を参拝したあと「近代日本の発展は、世界を驚かせた。一系の天皇を戴いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が、世界の一箇所くらいなくてはならないと、考えている」と語っています。
また英国人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) は、日本の印象を次のように語っています。
「自然と人生を楽しみ、愛すという点で、日本人の魂は、古代ギリシャ人の精神と不思議に似ているところがある」。
エッセー『極東初日』に 「その朝、わたしが最高に嬉しく思った印象は、日本人がわたしを見つめるまなざしが、驚くほどやさしかったことだろう」と記しています。 ハーンの心をとらえたのは日本人の微笑でした。西洋人にとって不思議に映るこの微笑は、実は日本人の精神の豊かさ、さらには「日本の文明は、物質的には発展途上国だが、それだけ道徳面では、西洋文明よりはるかに進んでいる」ということの象徴であるというのが彼が至った結論でした。
しかしハーンは急速な欧米化によって「微笑」が忘れ去られようとしている日本を感じるようになりました。彼は「西洋人が古代ギリシャ文明を愛惜するように、日本の若い世代が過ぎ去った日本を愛惜するときがくるだろう。そのさい、最大の驚きは、昔の神々の表情であろう。なぜならその微笑は、かつての自分たちの微笑だったのだから」と記しています。
ハーンは絶筆となる『日本』の中で、「日本が自分の先祖の信仰から、もはやこれ以上何も得るものがないと考えるのは、これは悲しむべき誤った考えである。日本の近代における成功は、ことごとくこの力によって助けられたものであると同時に、日本の近代における失策は、すべてみなこの国の倫理上の風習を必要もないのに破棄したために起こったこともあきらかである」と語っています。
さていま私たちを取り巻く環境は大変殺伐とし、また閉塞感も漂っています。こうした中で一番大切なことは、日本の歴史や文化をしっかりと再確認することではないでしょうか。それがあってはじめて力強く生きることができまた堂々と世界へ伍していくことができるのではないでしょううか。
こうした視点で日本の歴史や文化の基層に迫ってみたいと思います。(引用・参考文献 『名言で読む日本史人物伝』新人物往来社)
読者からの寄稿
遠の都の日向の家 本郷 哲二
昭和五十八・九年から平成五年頃に、土日家に居ると宗教団体が入れ変り訪れた。河南町広渕の住職まで拝んでお布施をもらって行った。最後に来宅して神様を説明してくれたのはエホバ神である。人は何処から来てどうなるか肉体と霊魂の話である。その話は脇に置いて本郷一族は何処から流れて来たかである。
先祖三代先の名前を紙に書いて、空の仏壇に置き、天空に居ます本郷家の先祖様、貴殿の事が知り得たく存じますので、良く見通せます様に力を借ります。又現世の私の心がぶれませぬ様に、常識の有る人、多賀城市民と面会した時円満に事が運びます様に、と合掌しました。三日後、家内が県外の本郷さんから電話だよと言うので「あっずい分早く効いたなラッキーだ」、話は二日後、多賀城に来るついでに私と会いたいと、彼は背の高いイケ面の五十九才だった。更に県外に九十一才の老女が健在との事、後日、老女とコンタクトを取ったら笠神日向の家、金の鶏の伝説、氏神様、家紋の件等知らされ、早速行動に出た。本郷総本家(日向の家)は、西暦七九七年、桓武天皇の時代、第四次蝦夷征伐に坂上田村麻呂の時であり、菊池一族も来た。笠神新橋の 阿元(たもと)に有る砂笠山だと言う(元の西園寺か天真小学校であろうか)、その時代はお寺と本郷とその後、板橋家であったと言う。世帯が増え東北学院大宿舎と警察学校一帯に屋敷が連なって居たが、昭和の初め海軍工廠が出来るにつき、家屋は壊され、土地は国に八割返させられ金鶏神社は無く成り、山は削られ平地に成る。
多賀城市に市川に移転した長兄が氏神様も大事にして居ります。日向の家の男が何処から調達して入手したものか金の鶏を明月の部落に隠した。(現在の産業道路の三菱自動車販売店に当たる)。夜に成ると男は出かけるので、或る夜、他の人達が追いかけた。男が金鶏を見て居るのに出くわして、あっと声を上げたら利府の方角に飛んで行ったと言う伝説が有るが、都から来て居る役人に取り上げられたのであろう。
第四次東征軍の中で、勇猛果敢な切込軍団の菊池家一族に比べ、武具や食糧等調達の補給軍団の本郷一族は歴然とした当時の役人です。江戸時代後期、菊池家と日向の本郷家とは交際が有ったが、内容を知る八十才のおばさまが、昭和六十年に他界して今となっては残念。東征の戦も終り、日向家はお寺護りをやる、俄僧侶も行ったと思われますが、初代住職の時、お寺が火事に成ったらしく本郷家と板橋家は寺を再起しても住職不在のまま何年も過ぎ、そこで見かねた大代の本郷一族は石巻方面より住職を連れて来たと言う。この時点では西園寺とは言わなかった様で、諏訪一家が来てからと言われてます。諏訪徽外(きがい)和尚様に子供が六、七人居り、檀家に田んぼを寄進した人が居り、お米に成るまで働いた人も居るおかげで、子供の中の跡継が一此(いっひ)和尚様です。
一此先生は、関東地方の工科系大学を出て、戦争にも行き苦労もして、一家と寺を支えるに、塩釜高等学校の教員として多賀城分校の主任として働いた。国家に尽し、お寺に尽した家には良い法名をくれた様です。
ここで一つ疑問が生じた。大代の墓地に本郷総本家と言う墓が有る。俗名を見るに、約十代先迄であろうか、居士、大姉が無く、生前の名前と没年のみである。誰しもこれは何事かと思う。一此先生が元気な時、話すには、徳川時代に儒教(朱子学)が良いか仏教が良いか為政者の間でぶれた時代が有り、更に神仏習合の時もありと、僧侶は神社とお寺と掛け持ちで働いたと言い、明治政府になって神仏分離がなされ、家庭に於いては、神棚が上で仏壇が下と位置が定まるまで四十年も要したと教えてくれました。
平成十九年の晩秋、空が晴れわたった日に、西園寺に用が有って出向いた。実道尚(おっ)さんが居り用件が終って実道先生に、「日向の家のお墓を見せて下さい」と言うと、「坂を昇って上から二列目、一列目は板橋家、良く見て行きな」と、墓の前で「皆さん今日は」と声を出した。墓は正四角柱で、あたり前の様であるが、その上面に日向の家と刻銘され、家紋は丸に抱柏で私の実家と同じであった。それも五・六基は有り、本郷総本家の記念の墓であろう。実道先生に礼を言って寺を去った。
残るはもう一つの女紋である。家紋より一周り小さく、外側を箪笥の取手が四個で取り巻いている。これをエホバの証人に頼んだら、一カ月後、私の家に来て「木瓜(ぼけ)の実ですね」と言われた。善は急げで、後日、仙台のお寺の和尚さんに相談したら、国の為に働いた家系の女性に与えられた個人紋と答えられた。が、「慈愛に満ちた役をやってたか」と和尚様は日本酒をコップで一口飲んで笑ってた。
“歴史大好きな人よ”現われて私を助けて下さい。
七十一繰艘の平民
二千九年八月記
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