|
日本の国のかたち・パート2 ー歴史と文化の源流を尋ねてー
仙台大学 客員教授(前宮城県図書館館長)伊達 宗弘
日本だけがどうしてさまざまな文学や歴史を、ジャンルとして語れるほどの蓄積を今日に伝えることが出来たのでしょうか。身近な平泉藤原氏の歴史を振り返りながら考えてみたいと思います。
平泉藤原氏はいまから八百二十年前源頼朝によって亡ぼされますが、現在中尊寺は国宝・重文三千点を超える日本で最も多くの文化財を所有するお寺であります。また金色堂は国宝第一号として、八百年の時を超えて燦然とした輝きを今に伝えています。どうして平泉藤原氏の文化財が今日まで大切に守られてきたのでしょうか。
九百年前、前九年の役で父を失い、後三年の役で妻子眷属を失った清衡は、結果として奥羽の要衝の地である「奥六郡」という俘囚長の保持の認められた特別の地域を手中にしました。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると清衡は、「福島の白河関から青森の外ヶ浜に至る二十日余の行程に、一町ごとに阿弥陀像を描いた笠卒塔婆を立て、その中央の地に一基の塔を建てて寺院とした」、これが中尊寺であると記しています。中尊寺建立の趣旨が、その落慶法要の際、清衡が奉納したといわれる供養願文には「偏へに鎮護国家の為」という言葉が繰り返し強調され、さらに二階鐘楼のくだりには、次の一文も記されていました。
「 右、一音の覃ぶところ千界に限らず、苦を抜き楽を与ふ、普くみな平等なり。官軍夷虜死せしこと古来幾多、精魂はみな他方の界に去り、朽骨はなほ此の土の塵となる。鐘声の地を動かすごとに、冤霊をして浄刹に導かしめん」。
要約すれば二階鐘楼を建立するのは、古来幾多の戦闘で戦死した敵味方の霊を慰めるためであると述べています。二代基衡、三代秀衡はその意思を継承し、みちのくに平和な仏国土を築きました。
しかし鎌倉勢の攻撃を受けた泰衡は、平泉館に火を放ち、秋田へ逃れました。翌日平泉に入った頼朝ら鎌倉勢が見たものは、風に吹かれて広がる広大な館の焼け跡で、それは焼失前の偉容を彷彿とさせ、関東武士達を威圧しました。館は焼失しましたが、前日来の雨で他への類焼は免れたのです。中尊寺や毛越寺を目にしたときの驚きと感動は、計り知れないものがあったと伝えられています。彼らの心を揺り動かしたのは、華麗な黄金の輝きよりも、藤原氏の平和への祈りではなかったでしょうか。
この時の思いこそ、鎌倉幕府が終始、平泉の諸寺院を保護する原動力となったのです。頼朝の代には平泉寺塔の復旧が命じられ、さらに後年、金色堂の覆堂が造られました。中尊寺や毛越寺が焼失するのは、鎌倉幕府が滅んだ後のことです。
それから七百六十年の歳月が経過し、戦後間もない昭和二十五年三月、平泉藤原三代の遺体の学術調査が実施されました。多数の副葬品の中に豆粒ほどの小さな金の鈴がありました。それを棺の中から拾い上げ、静かに振って鈴音を聞いたときの感動を、調査に立ち会った故中尊寺執事長佐々木実高師は、のちにこう記しました。
「黄金というには余りに可憐な金の小鈴、思わず呼吸をつめた私は、目を閉じ心意を一点に凝らして、静かに静かに振ってみた。小さく、貴く、得も言われぬ神秘の妙音。八百年後の最初の音を聴き得た身の果報。それはまさしく大いなるものの愛情による天来の福音であった。連日続くあの騒擾に、恐らくすでに爆発寸前の感情にあったろう私は、文化を護る道は、ただ〃愛情″の二字に尽きることを、この瞬間に強く悟り得たのであった」
藤原氏が今日なお尊崇され、彼らが遺した文化遺産に多くの人があこがれを抱くのは、中尊寺などの建立に際してかかげた崇高な理念「祈り」が、時空を超えて人々の心を惹き付けてやまないからではないでしょうか。歴史や文化を正しく継承し次代へ引き継いでいくには、それらに対する尊敬の念や愛情が不可欠です。日本人は古くから歴史や文化を大切にするそんな気持ちがことさら強かったのではないではないでしょうか。
|