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北風の彼方の国への旅
―前七世紀古代ギリシャ詩人アリステアスと叙事詩『アリマスペア』に関する覚書―
東北学院大学教養学部教授 石田 啓
二〇〇八年の夏、暑い北京で開かれたオリンピックは、日本選手の活躍もあり記憶に留めている方も多いと思いますが、周知の如く国際オリンピックの起源は、古代ギリシァのオリンピアで四年毎に開かれた競技大会に在ります。但し当時は、他にも名高い競技の場がありました。太陽神アポロンの神殿があるデルフォイで行われたピュティアの大会も、その一つです。
古代ギリシァ抒情詩人の最高峰と言うべき、紀元前六世紀から五世紀のピンダロスは、競技の優勝者を称えてエピニキアと呼ばれる祝勝歌を書きました。前五世紀初めのピュティア大会四百メートル走に当たる競技で優勝した、ギリシァ北東部テッサリアの青年を賞賛するピュティア祝勝歌第十歌に於いて、詩人は優勝者一族の栄誉を、伝説上の至福の民であるヒュペルボレオス人(北風の彼方の民)に譬えて寿ぎます。
優勝者の出身地であるテッサリアはギリシァ北東部に位置し、同地方のペリオン山は人間の上半身と馬の下半身を持つギリシァ神話のケンタウロスの故郷ですが、この地方のエーゲ海を臨む港ヴォロスの郊外にディミニ遺跡があります。多賀城とほぼ同緯度のアテネから車で五時間程の、山に囲まれた小高い丘の上に、二十世紀初めに発掘された遺跡がひっそりと点在しています。
ギリシァでは多くの遺跡を訪ねましたが、数年前に工学部キャンパスでの授業帰りに立ち寄った多賀城政庁跡の風景は、何故かディミニのアクロポリス廃虚を思い出させるものでした。粗雑な石畳の道を登って行くと、山から流れて来る清水の音があちこちから聞こえたのを今でも良く覚えています。不意に半人半獣のケンタウロスが飛び出して来ても可笑しくないような、古代の神話や遺跡と現実との隔たりが感じられない不思議な場所でした。
多賀城にも縄文時代に遡る遺跡が残っているようですが、ディミニも新石器時代以来の集合住居跡です。川の流れとなだらかな山に囲まれた風景、遥か古代から静かに過ぎて来た時間等、多賀城とディミニの共通点は多く、両者は記憶の中で重なり合います。多賀城も万葉の歌人家持よりこの方、詩歌との縁深い場所ですが、上記の北風の彼方の民、ヒュペルボレオイ(以下ヒュペルボレオイ=ヒュペルボレオス人たちと記載) も、詩や音楽の女神ムーサに愛されました。
彼らは黄金の月桂樹の葉を髪に巻き、楽を奏で宴に興じ、病や老年、労苦や戦とも関わりを持たず、復讐の女神ネメシスの処罰さえ免れているが、その集いに到る驚異の道は陸路でも海路でも見出されない、とピンダロスは合唱形式の祝勝歌で至福の様を描写しています。
ヒュペルボレオイ(Hyperboreoi)は「北風の神ボレアス(Boreas)の彼方(hyper)に住む人々」と解され、極北人と翻訳されることが多いようですが、本稿タイトルの「北風の彼方の国」はヒュペルボレオイの国という意味で用いま
した。ギリシァは長い夏と短い冬の国で、十一月末頃俄かに寒くなりますが、古代ギリシァ神話でもアポロンは冷たい風が吹く冬の数ヶ月を、常春のヒュペルボレオイの国で過すと伝えられています。
但し、ヒュペルボレオイという名前には別の解釈もあり、今日ではこちらの方が支持されています。この語解に拠ればヒュペルボレオイは、ヒュペルポロイ(hyperphoroi)の古代ギリシァ北部方言である、ヒュペルボロイ(hyperboroi)の俗形と説明されます。ヒュペルポロイの語幹ポロイは、運ぶという意味の動詞ペロー(pherō)から派生し、この言葉は「物資を彼方に、すなわち或る地域から別の地域へと運ぶ人々」の意味です。
歴史の父と呼ばれる、前五世紀の著述家ヘロドトスのヒュペルボレオイに関する一節(『歴史』第四巻三十三節)が、上記解釈の典拠になっています。ヘロドトスに拠れば、極北の民はアポロンとアルテミスへの捧げ物を、陸路と海路を経て国から国へと次々に転送し、兄妹神の聖地であるデロス島に送った、というのです。更に別の語解では、ヒュペルボレオイは山を意味するスラヴ語ゴラの変形(bora)か、マケドニアの山の名前ボラ(Bora)からの派生で「山の彼方に住む人々」と説明される場合もあります。
『歴史』第四巻は、黒海北方当たりを支配したスキタイ人に関する記述で始まりますが、その中でヘロドトスはプロコンネソス出身の叙事詩人アリステアスと、彼の詩『アリマスペア』の内容に言及しています。プロコンネソスとは、黒海とエーゲ海を繋ぐ、ボスポラス海峡とヘレスポントス或いはダーダネルス海峡に挟まれたマルマラ海に浮かぶ島の名前です。
現在トルコ領の同島はマルマラ島と呼ばれ、イスタンブール等からフェリーで行くことができます。マルマラは、英語マーブルの語源である大理石を意味する古代ギリシァ語マルマロスに因んでいますが、ギリシァのパロス島と並んで大理石の産地として名高い島でした。
アリステアスは、ヒュペルボレオイの国、言い換えれば北風の彼方の国を求めて旅をした詩人です。マルマラ島から北方、つまり黒海沿岸からロシア及び西アジア辺りを彷徨って、古代ギリシァの二大英雄叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』と同じ韻律である、長短短の六脚韻で自らの不思議な見聞を著しました。
ヘロドトスの『歴史』第四巻十三節に拠れば、イッセドネス人の国の彼方に、一つ目のアリマスポイ人、その向こうに鷲の頭と獅子の胴を持った怪獣グリフィン、更にヒュペルボレオイが住んでいる、と叙事詩『アリマスペア』の中で語っているようなのです。
『アリマスペア』はアリマスポイ人の物語という意味ですが、この作品は紀元前一世紀頃には散逸し、残っている断片は僅か十二行程です。紀元後一世紀の修辞学者ロンギノスの『崇高について』及び十二世紀ビザンティン帝国の古典学者ツェッツェスの『ヒリアデス(千巻の書物)』に夫々六行ずつ引用されています。但し、アリステアスと彼の伝説及び作品に関しては、ギリシァ・ローマ時代の著作にかなり多くの言及が見られます。
また、神話上の民であるヒュペルボレオイと古代トラキアとの関係も指摘されています。例えば、二〇〇八年九月から翌七月まで日本各地で開かれた「よみがえる黄金文明展―ブルガリアに眠る古代トラキアの秘宝―」の展示は多くがドナウ川流域の遺跡からの出土品であり、同地域はヒュペルボレオイが住んでいたとされる場所の一つに当たります。更にヒュペルボレオイとアポロンの繋がりについては語源解釈に於いて簡単に触れましたが、トラキアの秘宝はヒュペルボレオイの三神、即ち大地母神、及び兄妹神アポロンとアルテミスへの捧げ物と見做されてもいます。
ギリシァは夏の国です。人生で一番大切なのは何とギリシァ人に聞けば、海と美味しいワインに食べ物、それに恋という答えが、今でも返って来ます。ヒュペルボレオイの国を探求したアリステアスは、エーゲ海に繋がるマルマラ海から北へ、つまり夏の国から冬の国に向かいました。同時に彼の旅は、ギリシァからブルガリアのソフィアへ向かった筆者自身の旅とも重なります。オリンピック以前の東京を想わせる、落ち着いた雰囲気の首都ソフィアで出会ったのは、古代ギリシァ文明の北辺としてのトラキア文化でした。
なお二〇〇九年十一月から二〇一〇年四月末まで、ニューヨーク大学で開催中の「古代ヨーロッパの失われた世界:紀元前五〇〇〇年から三五〇〇年のドナウ川峡谷」という展覧会には、古代ギリシァ文明が栄える遥か以前の新石器時代、現在のブルガリア、ルーマニアに当たる同地域に展開していた高度な文明の発掘品数百点が展示されています。アリステアスが企てた北風の彼方の国の探求は、神話のみならず、先史時代という太古へ向かう旅でもあった訳です。
執筆者紹介:東京大学大学院修了後上智大学等講師を経て、現在東北学院大学教養学部言語文化学科教授、ギリシァ・オナシス財団及びアテネ大学フェロー、ルーマニア共和国オヴィディウス大学客員講師、研究分野は古代・現代ギリシァ語、ラテン語文献学及び古文書学。
秋山兄弟の名前から
大宰府史跡解説員 古賀 邦彦
司馬遼太郎原作「坂の上の雲」がNHKでテレビドラマ化され、昨年末にその第一部が放映された。続いて、第二部は今年末に、第三部は来年末に放送の予定である。題名は『封建の世から目覚めたばかりの日本が、そこに上り詰めさえすれば、やがて手が届くと思い焦がれた欧米的「近代国家」それ自体を、「坂の上に棚引く一筋の雲」に譬えたもの』と解説書にいう。
主人公は伊予・松山出身の秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟と正岡子規である。殊に、秋山兄弟は明治国家が直面した最大の危機「日露戦争」において、多大な貢献をした。兄は陸軍における騎馬兵の創設者であり、弟は海軍・連合艦隊の作戦参謀として、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字(ていじ)戦法」を駆使して、ロシア艦隊を撃滅し、日露戦争を勝利に導いたのである。
時に、好古・真之とは如何にも珍しい名前である。父親の秋山久敬(ひさたか)は漢学に造詣が深く、二人の名前は漢文の一節から採ったのだという。だが、大宰府市で兄弟の名前を聞くと、小野好古・菅原道真が連想される。小野好古は追捕使として、天慶四年
九四一)に伊予の海賊「藤原純友」を討滅した人物である。純友は、「平将門の反乱」に呼応するかのように瀬戸内を荒し回った挙句、大胆にも大宰府政庁を襲い、さらに放火し、大宰府を滅亡させたのである。
小野好古はその後、大宰大弐(大宰府政庁の次官)を二度も務め、都合一〇年余を大宰府で過ごしたことになる。弟は三蹟の一人・小野道風であり、父・小野葛紘(くずお)は、道真が大宰府へ下向した昌泰四年(九〇一)時の大宰大弐でもあった。
ところで、「実」の字を「さね」と読む人名は多いが、「真」という字を「さね」と読ませる例は殊のほか少ない。この点から、真之の「真」は道真からの一字かと思われるのである。秋山兄弟の父親は小野好古を尊敬し、菅原道真を尊崇していたのではないだろうか。
尚、道真と伊予との関係では、「衣山(きぬやま)及び「履脱(くつぬぎ)天満神社」がある。前者は、道真が大宰府への途中、寄港地で雨乞いをして、旱魃から人々を救ったので、喜んだ住民が雨に濡れた衣服を干したことによる。後者は、これも道真が大宰府への途次、嵐を避けて越智郡桜井の地に上陸し、西へ下った所で、履を脱ぎ休憩したことに始まる。長保元年(九九九)には社殿が建てられ、その後、松山城主・久松氏(道真の後裔)の篤い崇敬を受け、藩の直願所とされた。さらにその昔、道真の父・是善が伊予の国守を務めていたことも事実である。
以上見てきたように、小野好古と伊予との関係、菅原道真の伊予との結び付きからして、秋山兄弟の名前の由来は太宰府市にあり、との観を強くするのである。
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