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『義経雑感』
多賀城市史跡案内サークル 熊谷 恵一
「花咲かば告げんといいし山里の使いは来り馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜」これは謡曲「鞍馬天狗」の一節である。義経が幼少のころ、沙那王と呼ばれ、鞍馬寺に在りし頃を題材とした曲である。
私が義経を知ったのは、小学5年の頃、「源平盛衰記」を読んだ時である。それ以来、折に触れて母常盤御前が乳呑み児の牛若を抱き、今若、乙若を連れて雪中落ちていくシーンが頭の中をよぎる。
今日まで日本人に愛され贔屓され続けている義経像は「平家物語」「源平盛衰記」「義経記」などによって作り上げられ、旅の芸能者によって全国に語り広められ、庶民に親しまれた。日本人好みの「判官びいき」は「曽我兄弟」「赤穂浪士」とともに消えることはないであろう。
しかし、義経とはどんな人物だったのだろう。
義経の母常盤御前は非常にきれいな女性であったという。平治の乱で夫、義朝が殺され、常盤は平清盛に捕えられたが女好きの清盛に望まれ。妾になることと、三人の子供を坊主にするという条件で命を助けられた。しかし、女性のつまみ喰いをすることの好きな清盛はすぐあきて別の女性には走ってしまう。「吾妻鏡」によると、中世の武士階級では、性は解放されていて、男・女共早い時期に体験を済ませ、婚姻にはこだわっていない。性は禁忌ではなく、親愛を深めるスキンシップであったのだろう。
結果として出産もやかましい法律もなく男・女いずれかに帰属して育てられた、処女の純潔を尊ぶ風習は儒教が入って来た江戸時代以降である。常盤は美人であるうえ、三人の子を出産しているのですぐ貴族の藤原長成と再婚している。医療の行き届かない当時の出産は常に死の危険を伴っていた。それだけに出産の経験をもつ女性は健体のあかしとして歓迎されている。
常盤は長成との間に龍成という男子をもうけた。義経にとっては異父弟である、龍成は後に相当の地位につき義経に非常に尽した人であったという。では、義経がどのようにして金売り吉次と知り合って東下りをしたのか。「平家物語」によると。義経が平泉に「由々しき人」を知っているから、吉次に是非連れて行ってほしい。御礼はたっぷりしますからと、書いてある。京の藤原長成の邸で幼年期を過ごした義経がそのようなことをなぜ知っていたのか疑問に思う。
この平泉の「由々しき人」とは、平泉三代目藤原秀衡の正妻の父藤原基成で長成とは従兄弟の子という間柄である。基成は平安時代末期、陸奥守、鎮守府将軍として陸奥府将軍として陸奥国府多賀城に赴任して来た。九年間勤務した後平泉に移り、平泉の最高顧問として非常に力をもっていた。基成の娘が秀衡の正妻となり四代泰衡を産んでいる。当然常盤は坊主になるよりは平泉に逃がした方がよいと考え、夫長成に頼んで基成宛の添書を与えたのであろうか。
金売り吉次が平泉に戻ってこの少年が源義朝の忘れ形見、義経ですといっても、それを証明するものがない以上、どこの馬の骨かわからない少年を基成が簡単に信用するはずがない。それが普通である。まして逃亡者を匿ったことを平家が知れば政治問題に発展する。当時の力関係から見て平家より藤原氏の方がはるかに上まわっているとしても、そう簡単にいかない。義経が本当に義朝の子であるなら基成としては、弟信頼が「平治の乱」を引き起こして義朝を巻き込み死なせてしまった負い目があるので、平家と事をかまえる覚悟で秀衡の了解を得た上で義経を匿ったと思いたい。それでなければ義経がはるばる平泉に下った理由がわからない。義経は平泉に来て以来6年間衣川を臨んだ高館で育った。また最後も高館であった。秀衡は義経の天才的な才能を見て愛したのであろう。
治承四年(一一八〇)源頼朝が伊豆で挙兵したとの情報が知らされると、義経は秀衡が止めるのを振り切って、頼朝の陣に加わるべく平泉を立った。秀衡は佐藤継信・忠信兄弟とその他をつけ、「具合が悪くなった時は戻ってきなさい」といって義経を送り出した。そこで黄瀬川での対面が行われた。しかし義経の期待に反して頼朝は兄弟としてではなく御家人の一人として平家追討に参加し、宇治川の合戦で木曾義仲を敗死させた。息付く暇もなく摂津に向い、一の谷の合戦での奇襲で平家の軍勢を敗走させた。都に凱旋した義経は後白河法皇の厚遇を受け、頼朝の許可なくして、検非遣使・左衛門尉に任ぜられ、院の昇殿を許される。この役職は司法・警察権を行使する大変な地位であるから、頼朝に無断で任官したことについて、統制を乱すという理由で大変怒ったのである。しかも一月後には従五位下大夫判官という名誉ある地位についている。頼朝は義経を疎んじ、範頼を将軍に付けて平家追討をさせた。しかし範頼は総大将の器ではなく平泉に負けたのみならず、逃げ帰る家来も続出し孤立してしまった。頼朝はやむをえず義経を再度追討の翔軍にせざるをえなかった。後はご存知の通り。「屋島」「壇ノ浦」で連戦連勝し平家を滅亡させてしまった。
ところがこれだけの功労者である義経を頼朝は憎み、梶原景時の讒言もあり、義経の鎌倉に入るのを拒み追い返してしまった。加えて剣客の土佐坊昌俊を送り、六条堀川の義経の宿所を夜襲させるなど圧迫した。ここに来て義経もようやく兄が自分を殺そうとしていると悟り、都を出て九州に落ようと尼ヶ崎から船出した。
だが大風が吹いて船は難破し、義経一行は天王寺の海岸にかろうじて辿り着いた。その後ご存知のように、吉野から近江そして北陸へと逃避を続けた。ここで問題なのは義経がどんな経路を辿って平泉に向かったのか、近江路から北陸道をうろうろ歩いて行くのは甚だ危険である。誰が考えても海路を取るのが一番安全なはずでる。山の民と繋がりがある義経一行は美濃国を抜け、北陸道の三国湊の辺から船に乗り、日本海岸伝いに念珠ヶ関の沖を過ぎ、出羽国に上陸すれば、あとは堂々と大手を振って平泉に行けたのである。安宅の関での弁慶の勧進帳などは、ストーリーとしては大変面白いが、あれは後年の作り話。
では、何故平家打倒の第一の殊勲者である義経がこのようなみじめな目に合わなければならなかったかを考えてみたい。義経は確かに天才的戦術家と認めざるをえないが、第一級の指揮官としての能力を疑ざるをえない。彼の戦法は一言でいえばゲリラ戦法である。一の谷の合戦でも屋島の合戦でも、平家軍の意表をつく戦法で勝利している。後方に陣取って諸将を指揮するなど考えたことがないのではないか、常に先陣を切ることに専念している。これでは諸将の反感を買うのは当たり前で、義経は全然気がつかなかったようだ。ひたすら父義朝の仇と源氏累代の仇を報ずるために、必死になって戦いをしたのである。
お人好しで世間知らずで政治には無神経である義経の性格は頼朝の政治方針、武士のための武士の政治を 実現するということを理解出来なかった。頼朝は武士の頭領として幕府を開設したのは朝廷の政治の影響を受けない、自分達武士の天下を築きたいという思いから関東の武士たちは納得させるためには義経を身内と思わず、鎌倉の一御家人として取り扱われなければならなかったのだろう。弁慶を始め腕っぷしは強いが政治の駆け引きにうとい家来たちばかりの義経を補佐すべき軍師や戦略家がいたら惨めな最期をとげなかっただろう。それに藤原秀衡の死が義経が戻った一年後とあまりにも早かった。死の直前臨終の床に一族を集め「以後は義経は大将軍とし兄弟団結して鎌倉に対じせよ」と遺言したが、一族の結束が固まることはなかった。四代泰衡は優柔不断な性格であるところに、頼朝からの次々と脅迫状が舞い込んでくる。義経を差し出さないと平泉を攻めると脅かしである。泰衡は父の遺言を破り、文治五年四月三十日、秀衡死後わずか2年にして、衣川の高館を攻めた。義経は妻子と共に自害、わずか三十一歳の若さだった。
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