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いしぶみ34号(2)

北風の彼方の国への旅
 前七世紀古代ギリシァ詩人アリステアスと叙事詩『アリマスペア』に関する覚書(二)

         「ヘロドトスが伝えるアリステアスの物語」

                     東北学院大学教養学部教授 石 田 啓
 
 ペルシャ戦争史を書いた古代ギリシァの歴史家ヘロドトスは、黒海北岸を支配する遊牧国家を築いたスキタイ人に関する記述の中で、アリステアスを巡る不思議な物語を伝えています。「アリステアスは自身の叙事詩に書いている。アポロンによって神懸りとなってイッセドネス人の国に行ったと、彼方には一つ目のアリマスポイ人、その向こうに黄金を守るグリフィン、更にヒュペルボレオイ人(北風の彼方の民)が住み、ヒュペルボレオイ人以外の民族は絶えず争っていると。」(『歴史』第四巻十三節)
続いてヘロドトスは、今日のマルマラ島に在った詩人の出身地プロコンネソスと、エーゲ海と黒海を繋ぐマルマラ海南岸に位置する小アジア半島の町キュジコスで聞いた話を述べています。両方とも前八世紀以前に遡る、嘗ては交易で栄えた古代ギリシァの植民都市です。
「アリステアスはプロコンネソスの或る店で急死し、その噂が町中に広まった頃、キュジコスに向かう当人と会って話したばかりだと主張する男が現れた。そこで故人の親戚たちが遺体を引き取るべく店に入ると、アリステアスは消えていた。しかし七年後、詩人はプロコンネソスに現れ、叙事詩『アリマスペア(アリマスポイ人の物語)』を書いて再び居なくなった。」(第四巻十四節)
「ところが、二度目に消息不明となってから二百四十年後、今度はイタリアのメタポンティオンに現れ、アポロンの祭壇を建立して傍らに自分の名を附した像を建てよと命じ、かつてアポロンが同地を訪れた際に供をしたがその時は烏の姿であったと説いてから、また姿を消した。」(同十五節)
 メタポンティオン(Metapontion)は、外海(pontus)の向こう(meta)という意味ですが、前七世紀末にはイタリア南部に建設されていた古代ギリシァ植民都市郡、いわゆるマグナ・グラエキア(偉大なるギリシァ)の一部でした。今日でもイタリア語でメタポントと呼ばれる、イタリア半島南端のターラント湾に面した遺跡の町で、ユネスコの世界遺産に登録されている洞窟住居で有名なマテーラの南東に当たります。
 アリステアスが書いているという「一つ目のアリマスポイ人」と「黄金を守るグリフィン」については、古代以来様々な説明がなされて来ました。「一つ目の」という形容詞から直ぐに連想されるのは、ホメーロスの『オデュッセイア(オデュッセウス物語)』第九巻に登場する一つ目の巨人キュクロープスです。この叙事詩はトロイ戦争が終わって故郷へ帰る英雄の漂流譚ですが、オデュッセウス一行を捕らえた人食い巨人の野蛮な姿と、大きな羊の腹部に摑まって洞窟から逃げる主人公の知恵が対照的に描かれた場面は印象が鮮やかです。前一世紀の地誌学者ストラボンは、キュクロープス挿話はアリマスポイ人についての伝説が基になっている、と解釈する程です。
 アリマスポイ人と翼あるライオンとしても描かれる怪鳥グリフィンの組み合わせは、アイスキュロスの悲劇にも見出されます。伝説では「一つ目」によって象徴される野蛮なアリマスポイ人は中央アジア、即ち今日のゴビ砂漠辺りで砂金をグリフィンから奪っている、というのです。更に黄金を守るグリフィンの物語は、ヘロドトス版では狐より大きめの蟻が巣を作るために掻き上げた、黄金を含んだ砂を駱駝に乗ったインド人が奪い去る、となっています(第三巻一〇二節)。何れも信憑性に欠ける話ですが、危険な黄金採掘に関する古代の旅人の伝聞が背景にあることは確かでしょう。
「歴史」は古代ギリシァ語でhistoriaと言い、興味ある事柄の調査、或いはその結果を表し、もちろん物語も含まれます。この言葉は、英語では語頭母音消失のためhistoryとstoryに分かれましたが、仏語(histoire)やイタリア語(storia)では一語で両方の意味があります。ヘロドトスの『歴史』は確かに上記のような物語で一杯ですが、ペルシャ戦争の原因探求という縦軸が全体を貫いています(第一巻一節)。
 他者との接触に依る自己の探求が旅の本質的一面であるなら、詩人アリステアスは神話と歴史の境界へ向かって旅をしたとも言えるでしょう。ヘロドトスの記述では詩神アポロンの神懸りという表現を初めとして、詩という言葉が名詞や動詞の分詞形で強調的に用いられています。彼が最後に現れた南イタリアのメタポントは穀物栽培によって繁栄した植民都市でしたが、同地から出土した貨幣にもデロス島のアポロン神殿に捧げた麦穂や詩神自身の姿が意匠として彫られています。因みにメタポント国立考古学博物館の住所はアリステアス通り二十一番地です。



              七ヶ浜町菖蒲田浜から松ケ浜へ

                      宮城県地名研究会会長  太宰 幸子
 
 七ヶ浜町代ケ崎から高台に登ると多聞山公園がある。そこからは馬放島がとてもきれいに見え、馬放水道を航行する大型船の様子は、海の好きな者にとって心踊らされる。
そこを後にして、火力発電所を左に見ながら多賀城方面へと道を進むと、右手に溜池が見えてくる。この溜池の向こうを溜池側に曲ると、左手の丘陵の突端に出る。そこが二月田(地元ではニガデンと呼ばれる)貝塚である。二月田・三月田など七ヶ浜には五月まで地名や池などについていると知人が報せてくれた。その地名解は定かではないが、もしや花渕神社と関わるかもしれない。いずれ何事かの行事に関わる資金源を生み出すための水田があったのだと考えるのが妥当なような気がする。
 この二月田遺跡は、発掘資料や多賀城史を見ると、通称「空墓(からはか)」と呼ばれていると書いてあった。もしやこれは、両墓制があった地なのかと胸ときめかせて聞取りをしたが、地元の方々はなぜそう呼ばれるのか不明とのことだった。ある人は、「あそこから人の骨が見つかっているから、お墓があったので、そう呼ぶのでしょう」と話していた。
 空墓には、骨がある筈がないのである。両墓制とは、遺骸を埋葬する所を身墓(みはか)等と呼び、遺骸を埋葬していない、詣でるだけの墓を空墓(からはか)というのである。空墓は亡くなった人の心や魂を第一として、残されたものがお線香をあげ花を手向ける。だから、遺骨の出土した所は空墓とは呼ばない。この習慣は近畿地方に多く、東北には少なく宮城県内には石巻市にしか残っていない。たぶん海沿いにその民俗文化が伝わって来たのであろう。七ヶ浜は当然海に面しているので、その海岸沿いにそうした民俗が残っていてもちっともおかしくないのだが、何の裏付けも得られなかったのは、いかにも残念だった、もし、どなたかご存知の方がいらしたら、ぜひ教えて欲しい。
 吉田浜から菖蒲田浜へ向かうと、海水浴場が見えて来る。ショウブという地名は、ソブの転訛ではないかと思う。ソブとは、シブイとかシブの転訛したもので、湧き出る水あるいは流れる水に鉄分などが含まれていたので、シブ水・ソブ水と呼ばれたのではないか。そのシブイ水の流れ注ぐ浜や地区を呼んだのであろう。菖蒲沢など意外と菖蒲とつく地名は全国的に多くみられる。
 ここから更に西へ向かうと祝口・謡という地名がある。祝口の祝は決しておめでたい意味の地名ではない。祝は古くは「ホウル・ホウムル」という意味を持っていた。従って、墓地や遺骸などの埋葬地に多く見られる地名である。口は、入り口を意味している。祝口は、墓地やお墓への入り口と考えられる。ここを過ぎると、多賀城市大代地区から湊浜の海岸地帯までの崖地の続く線に沿って、たくさんの横穴墓古墳群がある。ここでの祝(葬り)の地は、これらの古墳群のことであったろう。これら古墳(墓地)へ向かっての入り口、つまり祝口である。
 祝口からすぐ謡(うとう)という地名が続く。ウトウという地名は、アイヌ語でも和語でも、ほぼ同じような地形の地を言う。それは、両側から山などが迫って来るような地で、峠になっていることが多い。現地も大代側から菖蒲田方面へ向かう峠になっており、両側から山が迫っている。青森県や秋田県では善知鳥と書いてウトウと読む地名があちこちにあり、長野県にも善知鳥峠と言う峠があり、岐阜県各務原(かがみはら)にも「うとう峠」がある。七ヶ浜では、文字が謡曲の謡となっているが、これは発音に文字を当てはめたものであり、本来はウトウと発音されていただけであったろう。文字が普及し、学問のある人が書類を書いたりするようになると、地名の文字がその人によって変わってしまったり、草書体であるため読みにくかったり、異体文字が使用されることがあったりと、文字が変化してしまうことが多々ある。ここではそうした理由のどれかが謡という文字に変化した時期があったことを語っている。
 七ヶ浜はいつの季節に行っても、すばらしい景観を見せてくれる。そして、海のものがとても美味しい。すばらしい街である。


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