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博物館の展示から(十五) 『古代の文房具』(二)
東北歴史博物館 前館長 進藤 秋輝
「刀筆の吏」と呼ばれた役人の必携品のうち、紙と筆については前号で述べた。今回は硯と墨を中心に解説を加えておこう。
現在の硯は石製がほとんどである。宮城県牡鹿町は全国最大の石硯の生産地で、雄勝硯は全国の八〇%を超えるシェアであるという。硯の歴史を振り返った場合、石硯の出現は新しく、十世紀後半と言われている。それ以前の硯は焼き物であり、色麻町日の出山窯跡跡でみられるように、官庁で使用する須恵器の雑器とともに生産されたものであった。
多賀城を掘ると政庁地では円面硯や風字硯など硯特有の形態をとる定形硯が多く出土する。これに対して、多賀城内の実務官衙域や城外の町並みからは、須恵器や施釉陶器の蓋・高台坏底部・甕破片の凹面を利用した硯が大量に出土する。これらの硯は本来の機能である食器の一部を硯に再利用していることから、定形硯に対して転用硯と呼ばれる。転用硯の珍しいものとしては、軒丸瓦の瓦当面を削って硯面にしたものや、丸瓦凸面に硯面を彫り込んだ八世紀初頭の瓦硯もあるが、現在のところ、大宰府出土例に限られている。多賀城をはじめ古代の官衙遺跡から出土する転用硯の割合は定形硯の何十倍にも達する。定形硯が政庁から出土する場合が多いことから、定形硯は上級役人が主に使用したと考えることもできよう。
定形硯の代表的な形態は円形の硯面に円筒形の脚部を取り付けた円面硯と現在の石硯と同形態の陸部両端に方形の脚を取り付けた風字硯(上から見た場合、風の略字に似ることからの命名)である。このほか、宝珠形をなす宝珠硯や羊頭や水鳥、亀などの動物を象った形象硯も全国には僅かながらみられる。
円面硯は脚部の形態から、獣脚円面硯、蹄脚円面硯、透脚円面硯に大別され、年代的な流行が辿れる。獣脚円面硯は七世紀前半から八世紀初頭、蹄脚円面硯は七世紀末から八世紀初頃(仙台市郡山遺跡から出土)、透脚円面硯は八・九世紀に流行する。
多賀城跡出土の円面硯はすべて透脚円面硯である。八世紀のそれは脚部の丈が低く、長方形や十字形の透かしを施す。これに対して、九世紀の脚部は丈が高く、円形と火燈窓形を組み合わせた透かしを施す傾向が伺われる。
風字硯は長岡京が造営される八世紀末頃に成立したとみられ、多賀城政庁跡からも二〇点近く出土している。硯面に微細な線状の凹凸が観察されることから、型作りによるとみられている。また、硯面を隆帯で二面に分けた二面硯といわれる特殊な風字硯もある。全国的な用例から、朱墨用と黒墨用に区分した硯とみられている。
政庁地区や五万崎地区からは硯面を内黒処理した、土師器製の風字硯が稀にみられる。型に布を敷いて製作したとみられる硯面の一部には、微量の金泥が付着しており、土師器製の風字硯は金泥用の硯として用いられたことがわかる。
墨は松煙や油煙に膠と香料を混ぜて練り上げ、氾に入れて表面を舟形に、裏面は平に成型した墨挺(酒肴のカラスミの由来)である。
正倉院中倉には唐や新羅から伝来した十六挺の墨挺が納められている。長さ二〇〜二五センチ程のものが多い。唐墨の表面には「華烟飛龍鳳皇極貞家墨」(裏面に開元四年(七一六年)丙辰秋作□□□と朱書)、新羅墨にも「新羅楊家上 墨」「新羅武家上 墨」など製作家名が陽出されている。
発掘による墨挺の出土例は極めて少なく、全国でも一〇例を数えるに過ぎない。うち、七例は蓋を被せた胞衣壷に納められた八世紀代のものである。それ以外では、明寺山廃寺(福井県丹生郡)の建物廃棄に伴う祭祀遺構からの出土(九世紀後半)、京都市徳大寺の墓からの出土(一〇世紀前半)、岩手県紫波郡紫波町上平沢新田遺跡の竪穴住居(九世紀後半)からの出土例の三例が知られるだけである。特に、上平沢新田遺跡の墨挺は破片ではあるが、接合すると長さ一〇センチ、幅三センチ分を計る。東日本唯一の出土墨挺であるとともに、識字が一般集落にも浸透していることを知る重要な資料である。
多賀城の官営工房でも墨挺が製作されていたことは、八二二年(弘仁十三年)に定員が定められた国府徭丁の中に、造墨丁一人が配置されていることから知られる。しかし、城内、城外を含め、墨挺はまだ発見されていない。
多賀神社と多賀城
東北歴史博物館 副館長 真山 悟
多賀神社は式内社である。式内社というのは、平安時代中期にまとめられた延喜式神名帳に記載される有力な神社で、朝廷から定期的に幣物が供される一方、政治を円滑に進める上でもその力が求められた官社である。
多賀神社の社地については残念ながら明確ではない。主な推定地として多賀城市内4ケ所がある。それは高崎の多賀神社、浮島の浮島神社、市川の陸奥総社宮、多賀城跡内である。いったい多賀神社はどの場所にあったのだろうか。
高崎の神社は、多賀城廃寺が整備される以前は寺跡と伝えられた所にあって多賀神社とされていたが、昭和三七年の発掘調査により、その箇所が寺の塔跡であると判明しているので、すでに本来の社殿があった場所と見ることはできない。
また浮島神社については江戸時代中頃の地誌である「安永風土記」にこれを多賀神社とする記載が見える。しかしこの地誌よりはるかに古い平安時代の承保三年(一〇七六)に陸奥守に任ぜられた橘為仲の家集に「浮島のかみ」とあり、古くから中央に知られた神社であるにも拘わらず、多賀神社とはなっていない。また平安末期の永久四年(一一一六)成立の文書集「朝野群載」の中にも鹽竈神社等とともに陸奥国の式外社として登場しており、平安時代に浮島神社とて知られたこの神社を多賀神社とするのはやはり無理があるようである。
陸奥総社宮は古くから奏社と称されてきた神社で、一般に陸奥国の総社と考えられているが、明治時代の歴史書「大日本史神祇志」ではこの神社を多賀神社としている。また元鹽竈神社宮司押木耿介氏の「鹽竈神社」では、鹽竈神社に対する国司の奏上や奏聞を行う社で、本来は多賀神社であったとする。しかし今のところ「神祇志」の説を裏付ける資料はなく、また仮にそうだとすれば、格の高い式内社多賀神社という名称をあえて変更する理由は何なのかという疑問が生じてくる。やはり検討が必要であろう。
多賀城内の社地については、「安永風土記」より半世紀ほど古い地誌である「奥羽観蹟聞老志」では、多賀城址の中にあると伝わる、として地元の言い伝えを紹介している。現在城内の六月坂地区に多賀神社跡と小さな祠があり、「多賀城町誌」によれば明治四年に多賀神社が総社宮に合祀された跡という。古くから地誌に登場し、かつ当時すでに古い言い伝えとなっているのは注目すべきことかもしれない。まだ十分な根拠を持つとはいえないが、ここでは他の三社より可能性は高いと考えておきたい。
多賀神社の本来地については、今後も検証が必要であるが、少なくとも多賀城との位置関係が密接であったことは明確である。つまり陸奥国府と密接に関係した神社であることは踏まえなければならない。多賀城の前身と考えられている仙台市郡山遺跡の近くにも多加神社があることはそれを十分たらしめる。
多賀神社は「安永風土記」に江州多賀神社を勧請したとあるように、滋賀県の多賀神社がそのもととなる。神社の歴史は古く、古事記に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるので、伊邪那岐を祭った由緒の古い神社であったことがわかる。少なくとも古事記の編纂された和銅五年(七一二)より以前には存在した。
多賀という地域は近江国犬上郡に含まれる。この犬上郡は古代犬上氏が勢力を張ったところで、同氏の祭る氏神に関係するとも考えられている。また犬上氏は、遣隋使や遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出した氏族でもある。つまり古代律令制の形成にあたって、大陸の様々な文化を摂取するための国家施策の重要部分に関わった豪族である。
多賀城の設置も律令国家の拡大充実の一環として行われたものであるが、多賀という名称もこうしたことと関係があると思われる。
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