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多賀城跡の思い出(一一) 『公民館市川分館の史跡学級』
初代東北歴史博物館館長 岡田 茂弘
多賀城跡の第八次調査が終わり、第九次調査を準備していた昭和四五(一九七〇)年五月末に、特別史跡多賀城跡指定地内の市川地区にお住まいで公民館の市川分館長をしておられる本郷俊夫氏が「相談したいことがある」と云って宮城県多賀城跡調査研究所(宮多研)に訪ねて来られました。用件を伺うと「近頃多賀城跡の発掘調査の成果が脚光を浴びたため見学者が増加している。ところが我々地元民は多賀城跡についてほとんど何も知らないので、見学者から質問されても返事に困る。質問を恐れて見学者らしい人を見かけると屋敷内に隠れてしまう者さえいる。公民館市川分館の成人学級事業として、地元民が多賀城跡を学ぶ史跡学級を開きたいのだが協力してくれないか」とのことでした。地元住民の方々との交流は必要とは思いながら、発掘調査作業に協力してくれる人たちを通じてしか接触が無かった宮多研にとっても「渡りに舟」の大変良い申し出で、早速に所員と相談して協力することになりました。毎月一回として昭和四五年度内一〇回を所長以下五名で分担すれば一人二回の負担で済みます。もっとも公民館には謝金の予算は無く、宮多研にもそのための超過勤務手当の枠は無いため、いわばサービス残業の形で全員了承してくれました。
かくして昭和四五年六月六日(土)の夜に第一回「史跡学級」が行なわれ、現在は政庁南面大路の石段として整備されている旧玉川寺跡の茅葺平屋の市川分館で、私が発掘調査による多賀城政庁跡の性格と変遷を話しました。以後原則として毎月第四土曜日夜七時から史跡学級は開催され、発掘調査現地説明会直後の月にはその調査の解説をまじえながら、古代から近世にいたる多賀城地区の変遷を話題として行きました。参加者は本郷分館長のほか少ない時で四・五人、多い時で二〇人前後で、畳敷きの広間に車座になって話を聞き、お互いに話し合いました。
一年目の終りに本郷俊夫氏が茨城県筑波研究学園都市の研究機関に転勤されたため、伊東分館長に代わりましたが、二年目以降も継続されて一二回が開かれ、現地説明会での調査成果の噛み砕いた解説とともに出土遺物を中心とした古代の生活も話題としました。その中には古瓦の文様に親しむための拓本実習も加えましたが、座学だけよりも手を動かす実習は好評で、参加される地元住民の年齢幅が広がりました。三年目には、史跡学級での話題を発掘調査成果による古代の多賀城の様子とともに石器時代から古墳時代までの多賀城前史をも交え、実習も拓本とともに古文書演習も加えました。
二年目の後半頃から、公民館市川分館の史跡学級は史跡指定地に住む人達のユニークな文化財保護・普及活動だとマスコミに関心をもたれるようになり、昭和四七年二月一日の『朝日新聞』紙上には二回にわたって史跡学級に列席した同紙記者の写真入り記事(挿図)が掲載されました。三年目には仙台のテレビから、史跡学級の様子を取材・放映したいとの申し出があり、市川分館と相談の上開催日を日曜日の昼間に移して協力したこともあります。テレビに映されるというので、これまで参加しなかった住民の高校生も参加してくれ、拓本実習を嬉々として楽しんでいました。
公民館市川分館の史跡学級の定着に喜んだ私は、多賀城跡と同じように継続的に発掘調査が行なわれている日本各地の大規模遺跡でも継続的な史跡学級が行われれば、地元での遺跡への理解や文化財保護思想の普及に役立つのでは無いかと考え、機会あるごとに大規模遺跡の発掘調査担当者に、多賀城跡での史跡学級の模様を伝えて、開催を勧めました。その意義には理解を示されても、それぞれの地元事情がありますので、実行したところはほとんど有りませんでした。その中で、広島県草戸千軒町遺跡調査研究所長の松下正司氏は、多賀城での史跡学級の趣旨を継承発展させた人でした。広島県福山市の芦田川にある代表的な中世港湾都市遺跡、草戸千軒町遺跡の発掘調査を広島県教育委員会が本格的に実施することになり、草戸千軒町調査所(広島県草戸千軒町遺跡調査研究所の前身)への赴任が内定していた松下氏は、昭和四八年春頃に宮多研の運営状況を視察に来られました。その折に調査や運営状況とともに史跡学級や、既に準備が進んでいた東北歴史資料館のことも説明すると、松下氏は「草戸でも文化財教室開設や、将来には資料館の建設を目指したい」と抱負を語られました。同年五月に草戸千軒町遺跡調査所が設立され、七月二一日に調査所としての鍬入れ式が挙行されると、その日の夕方に第一回「草戸土曜講座」(後に「草戸文化財教室」と改称)を開催し、年間のスケジュ―ルを公表しました。
この講座は、全福山市民を対象にした開放講座でしたが、遺跡が川の中にあって地元住民がいない草戸千軒町遺跡の特性に応じたものでした。以来、昭和六三年三月に広島県歴史博物館建設準備に伴い終了するまで、一六年間延べ一六五回の講座が開催されました。
一方、多賀城市公民館市川分館の「史跡学級」は、東北歴史資料館の建設準備と作業の多忙化と市川分館からの積極的な働きかけがなくなったために、昭和四九年三月をもって終了しました。
日本の国のかたち パート四 ー鎮守の杜と日本人の心の原風景ー
宮城県図書館 前館長 伊達 宗弘
私たちの生活は一定のリズムで成り立っています。平凡な日常の連続だけでは生活の維持は難しいものがあります。日常の合間に休みや楽しみが設定されて、はじめて平穏な日常を淡々と過ごしていくことができるのではないでしょうか。民俗学では日常の普段を「ケ」、普段の合間に差し挟まれる非日常つまり特別な時を「ハレ」と称しており、生活は「ケ」と「ハレ」の交互の組み合わせによって成立しています。一年をサイクルとしてみた場合に設定される「ハレ」は定期的な行事の日と言い換えてもいいのではないでしょうか。同じ時期がくると、ほぼ同じような形で実施される定期的な家ごとの行事を年中行事といっていますが、その内容は村落のような一定の単位でほぼ共通して行われています。大きな特徴は農耕の中でも稲作儀礼の過程に沿って組み立てられています。
1年をサイクルとして生活のリズムを大きく
(一)余祝儀礼
(二)水田作業の開始
(三)虫を送る祭り
(四)収穫の祭り
(五)屋敷神の祭り
(六)村の祭り
(八)冬への備え
に、大別して考えてみたいと思います。
小正月というのがありますが、これは本来の正月ではないかと考えられています。稲作などの豊穣を祈る呪術的な儀礼が数多く見られます。そのなかの「余祝儀礼」は、来るべき一年間の農作業の行為を真似て行う模倣の儀礼を指しています。稲作の作業を真似ることによって行う模倣の儀礼です。その一つに「マユダマ」「団子さし」といわれるものがあります。水木に小さい団子や餅を鈴なりにつけ神棚や座敷に飾る行事です。飾った団子は木の花であり、稲の花が咲く状態を表すもので、稲の花がこのように咲いて豊作になるようにという願いを込めた行事です。そのほかにも稲作の豊作を祈る余祝儀礼は「田植え」という行事にも見られます。十四日に年男が雪の降り積もった田へ行き、豆穀、麻穀、稲藁などを苗に見立てて雪上に植えます。そしてその前で農作業の様子を演じ、神にその成就を約束させることを目的とするものです。田植え踊りはこれが芸能化し洗練されたものに形を変えたものと考えられています。
「水田耕作」の開始は耕作地の下ごしらえから始まり、そこに種まきをします。こうした作業開始の時期は微妙に作柄に左右されることから、注意深い判断がなされました。樹木の開花や山の雪形など自然現象の観察による日取りの判断、自然暦を物差しとして判断されました。田植え後のサナブリも本来の意味は田の神の祭り仕舞です。古くは田の神をサの神などと称しましたが、サナブリはサ昇りの意味です。田植えに際して田の神が降り、田植えが完了すると田の神は再び帰って行くことを表していて、田植えそのものが祭りであったことを裏付けています。祭りとしての田植えは田植踊からも推測されます。
稲作にとっての病害虫は最大の敵です。作物の病害虫も、害をもたらす神霊が憑依することによって起こるものと考えられていました。流行病や病害虫はマイナスの神霊つまり悪霊であり、それを居続けさせることはできないので、丁重にもてなしてから送り出してやらなければなりません。「虫送りの祭り」はこうした悪霊送り出しの祭りです。
十月一日を県下ではお刈り上げの朔日と称し、餅を搗いて手伝いを受けた家や親類に配ったり、農具に刈り取った稲束を載せて餅を供える「収穫の祭り」は、収穫の喜びを実感する時でもありました。
「屋敷神の祭り」は、収穫した新米で赤飯を炊き新藁の苞にそれを入れて屋敷神や近くの神々に供えました。屋敷内に祀る神は先祖神であると伝承するところもあり、先祖神は農家で最も心を配らなければならない重要な稲作りを守護する神でありました。柳田国男はこうした先祖神を祖霊と名付けています。
秋祭りはどの家々でも、村落全体の神社でも数多く行われますが、こうした村の氏神も稲作を守護する神としての機能を多分に併せ持っています。旧暦九月九日に行われる大崎市古川の鹿島神社の御前講は典型的な新穀を感謝する祭りです。
大晦日の「年取りの膳」は、家族全員がそろって食べる神と共食する正餐であります。暦の上では正式に年が明けるのは真夜中の午前零時となっていますが、わが国では古くからの考え方では大晦日の日没と同時に次の日が始まりました。したがって年取りは正月最初の食事であり、神と一緒に食事をとることによって、神の持つ霊力を分け与えてもらうことができたのです。
「お年玉は」本来、年の魂(霊)を意味するものであり、歳神が与える年齢でありました。正月に訪れる歳神が与えてくれる丸い餅を食べることによって一歳年を取ることだったのです。この歳神は氏神などと同じ先祖神(祖霊)ではなかったかと考えられています。
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