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ー鎮守の杜と日本人の心の原風景ー
宮城県図書館 前館長 伊達 宗弘
農業に機械が導入されるまでの稲作作業は、今日と比べれば大きなずれがあります。手植え時代の田植えは「相互扶助」なくして不可能でした。ユイと称される作業の互助が盛んになされてきました。村落の生活ではユイという互助は田植えに限らず、稲刈りや屋根葺き、冠婚葬祭など村落生活の多方面にわたっていました。一定期間内に完遂しなければならない各家の事業を手助けするため、自然発生的な社会のシステムでした。村落の生活では共同の意識が極めて強く、さまざまな面でこのシステムが機能し、個々の家の事業であっても共同的なあり方を示してきたのです。
「ハレ」に際しては普段との違いが衣食住にも現れています。住まいにおいては神を迎える場をしつらえるため清め、穢れが入り込まないように注連縄などで区切り、清浄な場である表示をします。衣の面では普段とは異なる晴れ着を着用します。食生活でも「ハレ」と「ケ」は大きく異なります。わが国では「ハレ」の食べ物で代表されるのは白い米です。
日本人にとっては米は主食としての穀物というよりは、神への供え物であり、「ハレ」のご馳走は神供のお下がりをいただくことでありました。
今日の伝統的な生活の大部分の原理を生み出したのは稲作であるといっても過言ではありません。稲作や稲がいかに生活の中に浸透しているかは、民族社会における民間信仰や儀礼あるいは呪術を見ても理解できるのではないでしょうか。
神霊の鎮まる場所として「鎮守の森」があります。神社には森があり、神社境内の木々の中にも立派な老木が御神木の対象となってきました。
神を祀るという行為の始まりは、狩猟採集の時代に遡るといわれています。当時の人々は自然の摂理を経験し、不明瞭な出来事を何者かがする業と考え、その何者かを神と呼び、それを畏れて祈ることを知りました。こうした人々は神の力を戴き、神と共に暮らしていくために、神の降臨を仰いで祀りました。その際、荘厳な山や森林、樹木、岩石などを神霊が招き寄せられ乗り移る依代(よりしろ)と見なして崇拝しました。こうした依代は、神々が鎮まる神聖な森林や山である神奈備(かんなび)、神々が宿るとされる常緑の樹木である神籬(ひもろぎ)、神々が宿るとされる岩石である磐座(いわくら)などと呼ばれ祭祀の対象となりました。神奈備と見なされる山は県内では花山村御嶽神社の御岳山、本吉の御嶽神社の御岳山などがその一例です。
また、これらの依代は人々の住む集落に近く、かつ、霊地として神聖視された山や森林、岬などにあるものが選ばれました。それらの神々を拝する特別な場所、集落を象徴する神聖な場所とされますが、こうした鎮守の神の社域が神の鎮まる神聖な森、「鎮守の森」の起源と考えられています。つまり日本の「神社」とは、もと神の鎮まる神聖な森にほかならなかったのです。
鎮守の森には、神のための特定の建造物は建てられませんでしたが、神を祀る祭礼の基本である祭りの規模が拡大し、それが臨時的なものから恒久的なものになるにしたがい、祭りのたびに依代を置く仮小屋が造られるようになり、それが発展して今日の社殿へと展開したものと考えられています。鎮守の森には巨樹・巨木、巨石のほか、民話や伝説に結びついた史跡が数多く残されています。
鎮守の森が有する悠久の歴史、荘厳な景観と生態系、地域固有の祭りや習俗、史跡など後世に伝えることは大切なことです。鎮守の森は、地域の人々にとって神と交わる場所であり、情報交換の場でありました。現在においてもそこで繰り広げられる祭りなどを通して、地域の人々の交流と賑わいの場を与えています。また、その神聖で静謐な空間は、これからも人々にやすらぎと静けさを与え続けてくれるのではないでしょうか。
関合界隈を歩く〜
宮城県地名研究会会長 太宰幸子
七北田川がすぐ傍を流れる多賀城市新田(にいだ)地区に、北関合・南関合の地名がある。現地は、仙台市とは七北田川を挟んですぐ隣に位置し、仙台側から田子大橋を渡るとすぐ関合地区になる。
この田子大橋について、地元の方にお話を伺った。関合にお住まいの女性(70代)によると、「田子大橋は、昔は、あんなに高い所になかったんだよ。ほんとに、川の流れの上に板を渡して使っていた。だから、大雨が降るとすぐ流されてね。流される度に、みんなで新しい橋を何度も掛け替えた。昭和の戦後の台風の後、現在の橋が架けられた。」という。
また、別の男性(70代)のお話では、「昔は、仮橋が架かっててね。増水すると、すぐに流されるんだった。それでは駄目だというので、今のような永久橋が架かった。」という。更にこの方に堰のあった場所を訪ねると、関合というのは、その堰でないんだよ。ここは関所の関だから、水には関係ないんだよ。」とも話してくれた。
お二人のお話から、橋本来の姿がおわかり頂けたと思う。橋とは、川の流れの上に直接渡され、端と端を繋ぐものだった。だから、ハシなのだろう。因みにタカハシ(高橋)とは、この橋が少し高い位置に渡されていたことを伝えている。
田子大橋付近の地形を見ると、橋を架ける際盛土がなされ、川の両岸には土手が築かれているので、自然と高くなっている。しかし、橋から真っ直ぐ道なりに進むとぐんと土地が下がって行く。
関合エリアには、冠川神社が鎮座しているが、その付近はもともと土地が少し高く杉林になっていたという。境内から更に北へ行くに従い土地が低くなっており用水路に突き当る。
付近の人に、この用水路の名前を尋ねたが分からないという。農作業にこの水を使う筈と他の人にも聞いてみたがやっぱり分からないという。では、どこからこの水が流れて来ているのか。次に出会った二人の男性に尋ねると、中野堰からだという。やっと堰の名前が出てきた。
七北田川は、はじめから現在の流路だったのではなく、寛文年間に仙台藩の政策により、現在の蒲生まで流路を付け替えられている。旧流路だった地区では、水田耕作の際、以前の川跡が、かなりぬかって苦労したようだ。例えば、高橋エリアには小深田や門間田などの地名があったが、とてもぬかる地だったと地元で聞いたことがある。現在は、高橋○丁目に地名変更され、その位置も分からなくなってきている。
関合とは、新田地区を流れる用水路に作られた堰が合流していたことを伝えている地名であり、その堰が本来どこにあったのか、その流路などもすっかり不明になっていた。
新田地区を歩くと、堀がずっと道に沿って流れているのに気づく。これは、現在の中野堰から流れ込んでおり、高砂・福室・中野方面へと流れているという。また、新田地区には、もう一つの流れがある。これは、中野堰の上流に設えられた宝堰からの分流で、宝堰は、仙台市環境整備公社などの建つすぐ西側に設置されている。この堰からは、南宮や山王・利府や岩切などへと水が流れている。宝堰のそばには、昭和六十一年四月と記された、当時の多賀城市長・伊藤喜一郎氏の撰文が記された大きな石碑が建っている。
たぶん、この二つの堰からの流れが合流する所、そこが関合であったであろう。因みに、「安永風土記」には多賀城ゆかりの堰として、中野堰と蒲生堰が記載されているが、蒲生堰は既に機能を終えているという。
また多賀城町誌には、エリアにある六斎(ろくさい)という地名がある。この地名解釈として、新田を流れていた用水路の堰が、月に六回開けられたので六斎というとある。しかし、堰の開放は一年中必要でもなく、例え稲作期間だけとしても、月に六度という考えは少し違うように思える。田植えの前後から夏になるまでは、ずっと水が必要だったのではないか。月に六度で間に合ったのだろうか。また、秋には水は必要がなくなるのではないのだろうか。
本来この地名は、月に六度、市が開かれたことを伝えていることが多い。ここでも、たぶん、旧七北田川沿いで庶民が市を開き、野菜や生活必需品を得たのではなかったろうか。
関合には、冠川神社が鎮座している。安永風土記には、稲荷社とのみ記されており、冠川とは書いていない。いつから現在のように呼ばれるようになったのか。冠川とは、七北田川の別称で、泉ケ岳から流れてきている。因みに泉ケ岳は冠岳とも呼ばれ、冠の伝説もあるが、これはあくまでも後世の付会である。
地名的に考えると、冠(かんむり)は、「水をかぶる・洪水になりやすい地」という
解釈に通じるが、山の名前にもついているとなると、一概には洪水だけのことを言うことはできないようである。地元の方によると、この神社はお稲荷さんと呼び、卵や油揚げをあげ、この地からお嫁に行く方は、必ずこの神社にお参りをしてから出かけるのだったという。
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