日本の国のかたち パート七
― 東日本大震災に見る日本人の心(2) ―
仙台大学客員教授 伊達 宗弘
私はこの東日本大震災を通して、素晴らしい日本人の心意気に触れることができた。
その一つが「NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク」のみなさま方の活動である。詳細については新聞報道などでその活動のほんの一部は報道されている。大震災で登米の菩提寺にある先祖のお位牌がおさめられているお位牌堂が、壊滅的な被害を受けた。私の家も時代の流れの中で没落の一途を辿ったが、その中でお位牌堂だけは時の流れが止まったように、奇跡的に今日に伝えてられてきた数少ないものの一つである。
荘厳なお位牌堂の中には、先祖の一人一人のお位牌が独立した入れものに納められそれぞれが扉を開けて整然と並べられていた。四百年の時を経て現在に伝えられてきた唯一の拠り所であり、私の心の原風景の一つでもある。お位牌堂のなかに無残にも散乱したお位牌を見たとき、私の誇りとしてきた心の拠り所は無残にも打ち壊され愕然とし、しばし呆然とお位牌堂の前に立っていた。
その夜、ネットワークの会員のお一人の先生から「被害はありませんか。何かお手伝いをすることがありませんか」というメールをいただいた。すがる思いで現況をお伝えした。間もなく宮城歴史資料保全ネットワークのみなさま方がおいでになりお位牌堂でホコリにまみえながら壊滅状態のお位牌とそれをおさめた箱三十数名分に整理して、順序に棚の上に置いてくださった。一連の作業を拝見したが、来られる前にすでに先祖の系図を調べ故人ごとのデータを整理され作業に着手してくださったのだ。ただただ頭の下がるような献身的な作業の様子であった。
宮城歴史資料保全ネットワークのみなさま方のお力添えに、いまは感謝の気持ちで一杯である。朝早く仙台から80キロメートル離れた登米に手弁当で来られ、ほこりまみれになりながら黙々と作業をしていただいた先生方には何とお礼を言っていいか言葉が見あたらない。このときいただいたご恩は子々孫々しっかりと伝えていかなければならないと思っている。
あの時整理をしていただかなかったら、今頃はゴミのように扱われ埋もれてしまったのではないかと、速やかな対応に改めて感謝している。時間がかかるかも知れないが、後世に残すように努力することが私のつとめであると再認識した。いろいろな場所で献身的なレスキュー活動をされている一方で、さまざまなシンポジウムなどを企画され、日本人の心の再生、未来へ向けた貴重な文化遺産の継承にご尽力をされていることは素晴らしいことであり、私はあの時の感動を決して忘れてはいけないと考えている。日本が世界に冠たるさまざまな文化遺産を今日まで継承してきた背景には、それぞれの時代を生きた先人の叡智、歴史や文化に対する尊敬と愛情、ひたむきな使命感があったればこそと改めて真摯な作業状況を見ながら感じた次第である。
ともすれば物質的な豊かさや、経済的な打算、成果主義が優先されがちな時代だが、そうした時代の中でまさに超然としたお立場で地道な活動を展開されている皆さまのことは、私は決して忘れないことだろう。古いものを継承していくことは大変なことであるが宮城歴史資料保全ネットワークの皆さまのご尽力によって多くの人たちが、歴史や文化を守り継承することの大切さを覚醒させられたか計り知れないものがあると感じている。
とかく多くの人々の目は復興の名のもとにハード面に目を向けがちであり、政治や行政は超長期的な視点でものを見て判断する能力が欠けており、特に日本では欠如しているのではないのかと何時も感じている。そうした一番大切な部分、政治も行政も見落としている分野に目を向け果敢な活動を展開し積み重ねられていることは、長期的な視点で見れば日本の復興、地域の再生には一番大切なことではないかと考えている。
宮城歴史資料保全ネットワーク皆さまをはじめ多くの皆さまがボランティアとして各地で各分野で活動を展開されている。利害打算を抜きにしたこのような崇高な活動の積み重ねは、時間がたてばたつほど高い評価を受けていくと私は確信している。
多くの人々の目はまだまだ目先のことに目がいきがちであり、それは致し方ないことだとは思うが、いち早くこのよう活動に取り組まれた時代を俯瞰した洞察力と実行力に改めて敬意を表している。みなさま方の真摯な姿を見ながら。日本は日本人の心は強くたくましく再生すると確信している昨今である。
後世に伝えたい「平成の大津波砂押川を遡る」
会員 小澤 操
平成23年3月11日午後2時46分、宮城県・牡鹿半島沖約130キロを震源とするマグニチュード9・0の大地震が鳴動。
間もなくして大津波が逆巻き、激流となって多賀城市八幡、町前、宮内、明月、桜木、栄の全域と、大代、丸山、鶴ヶ谷、中央、東田中、高橋の一部、市域の約1/3を襲い、栄一丁目や桜木二丁目の堤防を決壊させながら砂押川を上流へ上流へと遡った。
河口付近に係留されていた小型船は艪網をちぎられ、逆波によっていくつもの橋をくぐり、JRの鉄橋をくぐって上流へと押し流された。
高崎地区の川の中にはLPガスタンク車が押し流されている。市川橋のところの堰には小型船30艘ほどが横たわり、あるいは折り重なって漂着している。
JR東北本線の鉄橋付近から上流の市川字中谷地界隈の浅瀬や堤防には、仙台湾の浅海魚であるボラやオウガイそしてスズキなどが無残にも無数に押し流され打ち上げられている。同中谷地地域には小型船が1艘、その上流にガスボンベが1個、これが津波の逆流によって押し流されてきた最上流での漂着物である。この地点は河口からおよそ6キロを超える上流となる。
ここから上流には大きな漂着物は見受けられないが、堤防に附着している痕跡からすると、波の先鋒はJR東北新幹線車両基地(利府町)近くまで達したものと思われる。
支流の原谷地川には、小型船の破損片が2個見届けられ岸の痕跡もくっきりしているので、こちらも新幹線車両基地付近まで達したことは確かである。
勿来川には大型の漂着物は無いが、利府町字新舟岡あたりまで一般ゴミや浅海魚の死骸などが散乱しているので、津波の先端は稲葉崎を回ったものと思われる。
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