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日本の国のかたち パート八
仙台七夕、過去・現在・未来
仙台大学客員教授 伊達 宗弘
1. 五穀豊穣の祈りとしてスタートした仙台七夕
暑い夏がやってきた。七夕の季節である。仙台七夕の由来は諸説あるが、古くから日本人が信奉してきた「田の神」に、中国から伝えられた織女と牽牛にまつわる星の伝説と、手芸や芸能の上達を祈願する中国の習俗「乞巧奠(きっこうでん)」が結びつき、さらに時代の要請の応えながら豪華絢爛な仙台七夕になってきたものと考えられている。
都にも引けをとらない国づくりを目指した伊達政宗は、由緒ある神社・仏閣を当時の文化の粋である桃山様式で再建、これを見た人々は戦国の世の終わりを肌で感じ、国づくりに専念することができた。忘れ去られていた古いしきたりや年中行事も復活しながら、人々は新しい生活のリズムを創り上げていった。
農耕民族としての日本人は自然の恵みを受け、時には自然の脅威を身近に感じながら、自分たちも大自然の一員であるという謙虚な気持で生活をしてきた。生きとし生けるものに限りない慈しみをもって接してきた。そうした日本人の生活は一年をサイクルとして見たとき、深く稲作文化に大きな影響を受けている。いまは個別にとらえられがちな正月の行事、田植え、稲刈り、秋祭りなどはまさに、自然を相手にして農業を営んできた人々の知恵の結集である。自然を相手とする農業は極めて科学的な生業であると同時に、技術の集積である。稲の出来・不出来は天候に左右されるし、時には人知を超えた大きな力を感じ、そこに神の存在を意識し、畏敬と感謝の気持ちで生活をしてきたのである。
瑞穂国日本においては米の出来の善し悪しは神々にすがる手立てしかなかった。旧暦の七月七日頃は、丁度稲が開花期に入るとともに、風水害や病害虫の襲いかかってくる季節でもある。「田の神」は万能の祖霊の変化したものと信じていた人々は、禊ぎをして心身を清め、祖霊を祭るお盆の行事に入ったと考えられている。これが農耕文化とともに始まった日本の七夕の起源である。
2. 中国の伝説、習俗も加えられる
仙台七夕もそうした農耕儀礼に基づいた行事の一環としてスタートし、さらに時代のニーズに対応しながらいまのような、豪華絢爛な仙台七夕へと変遷してきたのである。
政宗の時代の七夕は、日本固有の農耕儀礼に基づく素朴な風情あるものであったろう。始めは五色の願いの糸を垂らすだけの竹飾りから商業経済が発達し、華美の風もみなぎってくる元禄時代頃になると、短冊をさげ、吹き流しをつけるようになってきたものと考えられている。江戸時代の『仙台年中行事大意』(二世十返舎一九)には「七月七日。棚日祭。六日夜より、篠竹に色紙短冊くさぐさの形を切て、歌をかき、又は、提灯をともし、七日の朝、評定川または支倉川、澱川へ流す」と記されている。六日の夕方から笹だけを飾り、姫星と彦星を祭って、手習い、手芸の上達を願い、農家では田の神の乗馬として七夕馬(藁馬)を作って屋根に上げるなどして、豊作を祖霊に祈ったと伝えられている。
ところが天明の飢饉(一七八二〜八八)が、人々の生活を一変させた。仙台藩内の死者は二五万人から三〇万人といわれ、人心は荒廃し人々の生活は困窮の極みに達した。仙台藩では疲弊した藩財政を立て直し、荒廃した人心を一変させることに腐心した。しかし農民は豊かな恵みをもたらしてくれる「田の神」にすがるほかない。そこで七夕まつりが徐々に復活し、藩内いたるところで盛んに行われるようになった。しかし明治維新を迎え、明治六年の新暦採用を境に、仙台七夕祭りは急速に衰えていった。
3. 仙台七夕復活
昭和三年、東北産業博覧会を契機に、仙台七夕の復活を図るため仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催として、「飾りつけコンクール」が催され仙台七夕が復活したが、戦争に突入し中断され、昭和二〇年の仙台空襲で仙台の町は廃墟と化した。
しかしそれにもめげず昭和二一年ささやかな七夕が行われるが、翌二二年の昭和天皇のご巡幸時五〇〇〇本の竹飾りが七色のアーチを作り天皇陛下をお迎えし、陛下から温かいお励ましの言葉をいただいた。このお言葉を受け仙台市内では各町内あげて七夕祭りを競った。しかし高度経済成長の時代を経て、祭りを支えてきた中小の商店街は衰退し、いまは仙台市中心部で東北の夏を彩る一大イベントとして暑い東北の夏に彩りを添えている。 仙台七夕は新しい時代の要請に力強く応えながら、そこに住む人々そして訪れる人々に優しく微笑み語りかけ、明日へ向けた力強い活力を与え続けてくれることだろう。
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