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日本の国のかたち パート九
ー聖徳太子、国のかたちを整えるー
仙台大学客員教授 伊達 宗弘
日本が世界に冠たる独特の文化を育むことができた背景の一つには、四海を海に囲まれていたことが上げられますが、日本列島はかっては海と地続きでありました。大陸から切り離され今の形に形になったのは一万年ぐらい前のことであったと考えられています。当時の日本は、旧石器時代・縄文時代を経て弥生時代です。弥生時代は紀元前300年から紀元300年と600年ぐらい続きますが、この時代は大陸から伝わった稲作が漁労・狩猟を中心として営まれていた縄文時代にとってかわり各地に水田が拓かれ、定住生活に移行していく時代です。村が村を合併し大きな村になり、さらに大きな村が村を合併しながらたくさんの小さな「くに」が誕生していきました。もちろん当時のことについては、日本には記録がありませんが、わずかに中国や朝鮮の記録から往事をうかがい知ることができます。
中国の歴史書『漢書』の地理史によると紀元前100年、日本には100以上の小国が存在していたと記されています。また『後漢書』の東夷伝によると紀元57年、日本のから来た使者に後漢の光武帝が「漢委奴国王印」を与えたと記しています。この金印は江戸時代福岡県の滋賀島という場所から発見されています。また紀元107年倭国王が後漢に使いを出し奴隷160人を献上したことが記されています。さらに『三国志』の魏志倭人伝によると239年邪馬台国の女王卑弥呼のもとで「くに」の連合ができ、戦いが収まったことなどが記されています。この邪馬台国の場所については北九州説、近畿説の二説がありますが、すでにこの頃には「くに」のかたちができつつあるをうかがい知ることができるのではないでしょうか。
朝鮮には、高句麗の第一九代の王である広開土王(好太王)の業績を称えた広開土王碑とよばれる石碑があります。これは四世紀末から五世紀初の朝鮮の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料です。これによると四世紀の終わり頃には大和朝廷が海を渡って朝鮮半島にあった高句麗や新羅と戦っていたようすが記されています。
さて日本では国と呼ばれるものが形成されていきますが、こうした権力者の象徴として造られたのが古墳と考えられています。最初は円墳・方墳といわれるものが現れますが、五世紀ともなると全長486メートル、高さ30メートル、外堀周囲3キロにも及ぶ巨大な前方後円墳大仙稜古墳(通称仁徳天皇陵・大阪府堺市)などが現れます。大きな国家のかたちができてきた証であります。このころには宮城県内でも名取丘陵を中心に30を越す古墳群が出現します。全長167メートルの名取市の雷神山古墳、全長110メートルの仙台市若林区の遠見塚古墳などで、この頃には大和朝廷の勢力がこの地方にも及んできていることを示しています。
古墳時代も末期になると大陸から仏教が伝わってきました。538年百済の王から欽明天皇に金銅の釈迦如来座像や教典、仏具などが献上されました。ここに仏教を信奉する蘇我氏と従来の八百万の神々を崇拝する物部氏が対立、587年蘇我氏は物部氏を滅ぼしますが、このとき厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれた後の聖徳太子が蘇我氏と共に物部氏と戦いました。物部氏が滅んだ後、日本で初めての女帝推古天皇が即位し、聖徳太子は天皇に代わり摂政として本格的な君にづくりに着手しました。
当時大陸には巨大な帝国・隋が出現、周辺の国々は緊迫していました。聖徳太子は隋に使節を派遣しますが、国としての体裁の整っていない日本の国の状況を察知した隋はこれを無視しました。そこで聖徳太子は本格的な国の形を整える必要性を痛感したのでしょう。聖徳太子は次々と改革を実施していきました。役人の守るべき掟を定めた「憲法十七条の制定」役人の身分を定めた「冠位十二階の制定」など果敢に改革を進めていきました。
そして607年、小野妹子を隋に派遣しました。この時隋に送った国書には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々。」と記されていました。隋の皇帝煬帝は激怒したといわれますが、隋は周辺に不安な情勢を抱え戦争に突入する直前でした。丁重に使節を返還、返礼使いを送ってきました。初めて日本が一つの独立した国として認められた一瞬です。まもなく隋は滅び唐が出現しました。
「つる」の地名 〈 鶴ケ埣・鶴巻・鶴見・鶴巣など 〉
宮城県地名研究会 会長 太宰 幸子
優雅に空を飛ぶ鶴は昔からおめでたい鳥とされて、その姿を誰もが美しいと思う。しかし地名となるとそうした印象とは全く違った意味をもち、その多くは川の流れに関わる地が多い。
宮崎県では水流と書いてツルと読み、東京都町田市には鶴川があり鶴見川が流れている。鶴見川は古くから洪水による氾濫で知られ、暴れ川の異名をもって沿岸の住民を悩ませてきた。
ツルとは、川の流れが大きく蛇行している地に多くつけられることが多い。そうした所では、大水や洪水になると、勢いをもった水が川の地形なりに流れきれずに、蛇行の端から端へと直線的に流れるため付近の土地では水を制御できずに氾濫してしまう。そのような所の地名に鶴の文字が使用されたため、後世文字から生まれた地名解ができて、ことさらおめでたいという意味が語られるようになった。
《 地名の例 》
◎鶴ケ埣 つるがそね (宮城県大崎市)
ここは鳴子温泉の方から流れてくる江合川が大きく蛇行する地点に位置しており、古くから氾濫に悩まされてきた地域で、家屋全壊や床上浸水・床下浸水の被害を受けてきた歴史がある。明治四十三年の台風を始めとして昭和のカスリン台風やアイオン台風では土手が決壊し沿岸では大洪水となった。家屋全壊や床上浸水・床下浸水の被害を受けてきた歴史がある。土手が左岸で決壊するか、右岸で決壊するかにより、地元民の被害率は左右される。沿岸の住民は、「あっちで切れたから、こっちは安心だ」などと氾濫の様子を見ていたものだという。
現在この地区の始点には昭和八年から昭和三十二年(一九三三〜一九五七)まで、下流域の洪水被害を緩和するために開削された新江合川が流れており、この流れは江合川から鳴瀬川へと溢れる水を流す役目をもって掘られた。アイオン台風の際には土手が未完成だったことから、見回りに来た人が濁流にのまれて亡くなっている。
もともと江戸時代の新田開発により開かれた地域で、すぐそばに関根(堰の根方)や御免(大雨などで作柄が一定していないことから、開発後しばらく免税された)の地名が残り、古くは鶴ケ埣村だった。
現在の江合川沿岸には粟蒔の地名が残っていて、初めは米の収穫が少なかったことから粟を耕作したと地元の方が話してくれた。戦後しばらくまでは畑が広がっていたそうで、戦後の改田ブームで水田になったという。上流に鳴子ダムができ、土手の嵩上げするなどの人工的な土木工事で現在はほとんど水害はなくなっているという。
◎鶴巣 つるす (宮城県大和町)
鶴巣とはかつての村落名で、地元では鶴の巣があったことからの地名と語る。しかし宮城県内では鶴よりも白鳥の飛来が多く、やはり水の流れが曲流していることからの地名であろう。
ここは低湿地帯の中を船形山脈から流れ出す吉田川が幾度も蛇行しては流れ、藩政時代には品井沼へと注いでいた。現在、品井沼は元禄時代から昭和への長い時間をかけて干拓されその姿を消した。吉田川の流れは干拓の後、流域が延長され下流で鳴瀬川と合流し太平洋へと注いでいる。
その吉田川は古くから暴れ川として知られ、支流に西川や小西川そして善川(古くは氾濫が多いことからアシカワと呼ばれていた)が流れ、吉田川は狭い川幅をたびたび増水しては氾濫をくりかえして来た。カスリン台風やアイオン台風では、土手の決壊や氾濫のために家が流され、近年では昭和六十一年(一九八六年)の八月五日の豪雨でも、土手が決壊し流域は元の品井沼の姿を再現したようになった。こうして繰り返されて来た災害のために、沿岸一帯の人々は秋の収穫が皆無になることもたびたびあった。
◎鶴巻 つるまき (宮城県松島町)
松島と言えば日本三景で知られ、八百八島のならぶ美しい町だ。しかし、海岸から離れ山手の方へ行くと違った景観がある。その一つに桜渡戸(さくらわたしど)地区があり、鶴巻はその一角の地名で、谷間を流れる田中川の流れの様子が地名になった。低地には水田が広がり、川が酷く蛇行している付近が鶴巻になっている。大雨や山手からの増水で、たびたび被害を受けて来たと地元の方々が話す。そのためか、民家の多くが高台に並び低地に建つ家はほとんどない。
1986年(昭和61年)8月5日の豪雨では、細長い谷間が大水のために海のようになったという。地元の消防団に所属していたという古老が、その様子を写真に写しておられたが、そこには増水し田んぼが冠水している様子がまざまざと写っていた。当然この年は、米の収穫量はすっかり減ったそうだ
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