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歌枕の壷のいしぶみとはどこにあって何を指していたのか。     松島町 伊藤 均

はたして多賀城碑がその「壺のいしぶみ」なのか検証していきたい。
そもそもこの話は12世紀末に編纂された『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」との記述から端を発する。
多賀城碑がこの記述とどれくらい一致するのか。
「日本のはてといへり」については、田村麻呂が活躍する8世紀後半多賀城一帯は日本の果てというには無理がある。事実彼が平定しようとしていたのは今の岩手県南から県央にかけてである。
次に多賀城碑の建碑は762年なので田村麻呂が活躍する8世紀後半以前の建碑であるから到底無理がある。
「日本の中央のよしをかきつけたれば」についても碑文の内容と一致しない。
「其所をつぼと云也」当時多賀城碑は地中に埋もれていたので「其所」といえるわけもないのだが仮に碑があったあたりで「ツモ」あるいは「ツボ」の地名を見つけることができない。
「石面ながさ四五丈計(12〜15メートル)なる」についてもサイズが合わない。
西行が歌った、
陸奥(みちのく)のおくゆかしくぞおもはゆる 壷のいしぶみ外の浜風     山家集
を普通に解釈すれば 外の浜は当時青森の陸奥湾岸の地名をさすのでこれも多賀城ではない。
江戸時代芭蕉が多賀城を訪れ「これが壺のいしぶみか」と感動を記したことで誤解を生んでしまったがこのように多賀城碑は壺のいしぶみといえる要件を満たしていないことはあきらかだ。

ではいったい真碑はどこにあるのか。
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。現在も確かに青森東北町に日本中央の碑が発見され存在する。
つぼという地名、日本中央という文面、青森という地といい、かなり『袖中抄』の記述と一致する。碑の大きさも多賀城碑よりも大きい。が、有力ではあるが断定するにはもっと決定的な証拠が必要だろう。
余談だが千曳集落や明治天皇が掘らせたという千曳神社という地名から多賀城に住む人は連想する地名がある。そう多賀城碑の市川から下ること数百メートル砂押川近辺に「千引石」に由来する志引集落がある。奇妙な符合である。


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