|
尿前の関[2009年12月16日(水)]
尿前の関について
元和年間(1615〜1624年)の末になって、遊佐氏五代但馬宣兼の時に、山上の番所が尿前の遊佐氏屋敷の内に移され、「尿前の関」と呼ばれるようになった。遊佐氏は、八代権右衛門の時まで独力で警備にあたっていたが、寛文10年(1670年)になると、境目の見張りを厳重にする目的から「尿前番所」が設置され、侍身分の役人が取り締まるところとなった。
この背景として挙げられるのが「伊達騒動」であるが、当時の伊達藩にあっては、万治3年(1660年)、不行跡の廉(かど)で三代伊達綱宗が幕府によって隠居を命じられ、これにともない2歳の亀千代(後の綱村)が家督を継いだ。その後、亀千代を後見した伊達兵部少輔宗勝が伊達安芸宗重と藩を二分して対立し、寛文11年(1671年)に原田甲斐の暴挙で幕が引かれるまで、12年間にわたってこの騒動が続いたのである。
厳重警備の「尿前番所」は遊佐氏の屋敷内にあって、出羽街道中山越はこの屋敷の中を貫いていた。裏門と表門には遊佐氏と村人が配置され、夜中は鍵をかけて通行不能にした。付近の約140坪の敷地に、岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれ、中には鉄砲や槍、手錠、首筒が備えられたという。幕末ごろの屋敷は、間口40間、奥行44間、面積1,760坪、周囲は石垣の上に土塀がめぐらされ、屋敷内に、長屋門、役宅、厩、酒蔵、土蔵、板倉など10棟の建物があった。
屋敷周辺には尿前の宿駅が設けられ、人馬の補充や継立が行われた。明治9年(1876年)の「玉造郡地誌」に、尿前の宿駅の規模が「東西一町二十間、南北三十八間、道幅二間乃至二間半。戸数十三戸。人数男三十一人、女四十八人、総計七十九人」とある。岩出山から尿前の間には、他に、下宮、鍛冶谷沢、中山に宿駅があった。
芭蕉と尿前の関
元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)、岩出山で一宿した芭蕉は、「道遠ク、難所有之」(曽良随行日記)という理由から、尾花沢までの旅を、急遽、小野田経由から鳴子経由に変更した。このため、通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指すこととなった。
一行は美豆の小島から岩渕まで江合川に添って北上し、岩渕から渡し舟で尿前の岸に到着した。当時の川越えの方法は「綱渡し」で、川の両岸に張った綱を自ら手繰(たぐ)るようにして舟を対岸に渡した。
こうして尿前の関に差し掛かるが、関所の警備は依然として厳しく、手形不携帯の芭蕉と曽良は、取り調べで足止めを食らうところとなった。曽良の随行日記に「断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。」と書かれていることから、事情を説明すれば通過できると踏んでいたように見えるが、その実、他国者の出入りに対する取り締まりは相当に厳しいものだった。
なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。(おくのほそ道)
鳴子温泉から尿前の関に差しかかって出羽の国へ越えて行こうとした。この道は旅人がめったに通らないので関所の番人に怪しく思われて、ようやく関を越すことができた。
一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 (曽良随行日記)
(名生定から)尿前まで一里半。尿前へ取り付く左の方、川向に鳴子の温泉有り。「沢子(佐波古)の御湯」と伝えられる。仙台の説也。関所有り、断(事情を説明しただけでは、通行)六ヶ敷(むずかしき)也。出手形(通行手形)を用意するべき。
(以上引用)
尿前の関というと、私たちの頭には松尾芭蕉の「馬の尿する枕元」の句を思い出すが、順序からすると芭蕉が句を作ったことで尿前の関と言われるようになったと思いがちだが、引用したように芭蕉が訪れる以前から「尿前の関」と言われていたのが事実である。
とすると、いかにもタイミングよく尿前の関で芭蕉が泊まったとき、馬がいて枕元で尿をすると言うのはあまりにもできすぎではないかと思わざるを得ない。
そもそも奥の細道は事実を記したノンフィクションではないのだから創作があってもかまわないのだろうが、その辺を押さえないで奥の細道を読むとさまざまな意見の対立が出てくると思う。
疑ったらきりがないが、最上川では本当に五月雨が降っていたのか?立石寺では本当に蝉が泣いていたのか?高城の宿から石巻までそんなに迷ったのか?など疑問は尽きない。
エコカー[2009年12月16日(水)]
1昨年から通勤は車に代えて3輪車(ホンダジャイロキャノピー)にしている。22KM/Lなので助かっている。
乗りながらふと思ったがこの原付の重量は120kg、私の倍である。つまり、60kgのものを運ぶのに倍の120kgの車体を動かさなければならないことになる。たとえ私が0kgでも120kgのものを通勤であれば往復55km移動させるというエネルギーを消費することになる。
無駄ですよね?
車はもっとすさまじい。60kgの人を運ぶのにそれとは別の1000kgの車体を付随して動かさなければなりません。いわば17倍の直接必要としないエネルギーを消費しながら動いているわけです。
たとえていうなら、この車を1km走らせるなら、60kgの人を18km動かせるということになりませんか?
そんなことを考えつつ、たぶん車のような非効率な乗り物はこれからなくなっていくのだろうなと思いました。
となると、やはり自転車がいいか?
覚鱉城[2009年12月16日(水)]
覚鱉城というのは実は紀古佐美という人が提案し、進言し、その手でもって軌道に乗せはじめ、着手していた。ところがそれがおそらくまだ完成しないうちに、伊治公呰麻呂という人の反乱にあって、殺されてしまったために、紀古佐美の政治活動も終わりになるばかりでなく、覚鱉城という城に期待された政治的な役割もここのところで終わってしまうのです。もし紀古佐美という人がこの乱に遭わないで、これから後もずっと蝦夷経営の指揮をとり、したがって覚鱉城の胆沢経営の基地化というものが実現しておったならば、これ、疑いもなく覚鱉城というのが後の胆沢城鎮守府の役割を果たしていたというふうに推定することは殆ど疑いありません。そういう重要なことが、この史料に簡単に、しかも正確に、書きとめられているんです。(引用)
覚鱉城を探しに岩手に行ってきました。
擬定地は5箇所。伊治城と桃生城より北で胆沢城より南の北上川沿い、ということが続日本記より推測される。
北上川を北上するとわかるが、日高見山地の蝦夷が南西の方向に朝廷軍を窺う地は、遠山(登米〜一ノ関)の地に違いないと確信しました。
さらに、北上川の船着場として、また開けて集落が形成される川崎の地は朝廷軍としても何とか死守したい場所ではなかったか?
後の前九年の役でも川崎の柵として重要な拠点となっていました。
覚鱉城自体は天皇の命により計画されたことは間違いありませんが、引用した文でもわかるように完成を見ずに状況が変わり胆沢城に役割を移すことになったものと思われます。
|