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貞観年間の天変地異

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千年前の貞観年間にどんな自然災害があったのか年表を見てみました。(写真)

以下は日経新聞の記事です。
■富士山・阿蘇山が噴火
自然災害も止まらなかった。貞観5年に越中越後(富山・新潟)地震。同6年には富士山が噴火し溶岩が流れ出て青木ケ原樹海の原型ができた。同10年には播磨(兵庫県)で地震。京都での体感地震も20回を超えた。
同11年には貞観地震後に肥後(熊本県)・大和(奈良県)で地震が起きているという。この時期には阿蘇山、鳥海山、開聞岳の噴火のほかたびたびの疫病も記録されている。貞観3年には現在の福岡県直方市に「直方隕石(いんせき)」が落ちた。世界で最も古い落下記録のある隕石だ。


危機感をあおるつもりはありませんが今後しばらく自然災害が続く可能性もあります。非常時・災害時への備え、いや抜本的なライフスタイルの見直しをこの機会に進めて行きたいものです。

さらに私たちは当時なかった、たくさんの原発を持っています。そのより正確な判断や対応についても学習しておきたい。 .

いしぶみ26号(2)

            初めての東北修学旅行
                    
                    初代東北歴史博物館館長   岡田 茂弘
 
 私は、神奈川県鎌倉町に生まれて東京で育った上に父の出身地も神戸のため、東北地方とは全く縁が無く、はじめて東北地方に足を踏み入れたのは、昭和二十六年十月の学習院高等科三年の修学旅行でした。私達の学年は小学校六年が敗戦の昭和二十年、中学校三年が同二十三年と戦争後の混乱期のため、修学旅行を経験できませんでした。昭和二十六年は朝鮮戦争の最中で連合軍の占領下ながらも多少世相が落ち着いたので、最初にして最後に修学旅行をしたいと強く希望しました。ほとんど全員の学生が東京からの修学旅行の定番、関西旅行を希望したが、発表された計画は東北旅行でした。「君達の希望が関西なのは判っているが、関西は成人しても行ける。東北はこの機会でなければ一生行かぬかもしれない」との主管教諭の説明で、岩手・宮城両県への旅行が決まりました。当時の主管教諭が宮城県出身の渡辺末吾先生だった所為で東北に決まったと私たちは邪推しましたが、後に考えると食料や治安の事情、特に同級に居られた皇太子継宮明仁親王殿下(今上陛下、以下「殿下」という)にそれまで東北旅行の機会が無かった事が大きかったのでしょう。
 二十五日深夜上野駅発の常磐線普通列車で私たち八十名は旅発ちました。旅行中の食事分の配給米を外食券に代えて持って行きましたが、両県の方々から「米の心配をしなくてもよかったのに」と冗談めかして云われました。翌朝も列車の中で目覚め、沿線の農家に柿の実が真赤に色づいているのが印象的でした。二十六日昼前に平泉に着き、中尊寺の杉坂下で先行された殿下が合流され、中尊寺本坊で昼食の後、佐々木実高師のご案内で金色堂・経蔵を見学しましたが、宝生流能楽師でもある実高師の説明は途中から新曲「秀衡」上演のことに変ったのを憶えています。次いで水沢の緯度観測所を見学、花巻温泉に宿泊しましたが、夕食後に庭で実演された鹿踊りとともに上映された八幡平のパウダースノーのスキー映画に魅せられた殿下が「今度すべりに行こう」といわれて、その後数年にわたった殿下の八幡平ツアーのきっかけとなりました。ちなみに学習院では東北旅行が修学旅行の定番となり、現皇太子の浩宮徳仁親王殿下も東北の修学旅行を御経験の由です。
 翌朝列車で仙台に入り、戦災の跡生々しい市街地を米軍接収中の仙台城本丸跡の代わりに、青葉神社から遠望し、東北大学金属材料研究所でSK鋼等の解説を
受けた後、バスで翌年国体が予定されていた宮城野総合運動場を経由して松島に行き、山上から島々を遠望し、瑞巌寺を見学して、松島観光ホテルに宿泊しました。夕食後、見学行程から外れた「五大堂を観て、夜の海岸を散歩したい」と殿下がいわれるので、数人で制服制帽に身を固めて人別を困難にして殿下を囲み警備関係者に無断で宿を脱出しました。五大堂を見学、土産物屋をひやかしてから、程なく殿下は宿に帰還されましたが、私達三人は昼間の禅の説明が印象的だった瑞巌寺の僧侶から話を聴こうと庫裏を訪ねました。ところが僧は既に酒を飲んで居られて、まともなお話は聴けませんでしたが、私達の顔を見るなり「さっき殿下が外出しておられたようだな」と尋ねられました。うまく脱出したつもりだった殿下を始め私達は、逐一監視されて瑞巌寺にも知らせが入っていたのでした。
 二十八日松島海岸から巡視船に乗って金華山に行き、塩釜港桟橋から塩竈神社を参詣して社務所で夕食を摂り、バスで仙台駅前の仙台ホテルに戻り、一時間ほどの市内での自由行動の後に、再び常磐線経由の夜行普通列車で帰京しました。バスでの仙台―松島・塩釜間では往復ともに多賀城跡を通過したはずですが、その説明は全くありませんでした。もっとも学習院が作製した手書き謄写版刷りの『旅行の栞』には「奥の細道」を引用した説明が掲載されていました。なお、「金華山」が天平産金の場所とする当時の通説に基づく誤った説明も『旅行の栞』に記されていました。
 それから十八年後、昭和四十四年に宮城県多賀城跡調査研究所に赴任して、東北地方の古代遺跡の調査と研究に半生をおくることになるとは、当時は夢想だにできませんでした。 



          「新米解説員の解説日記 」     

                      古都大宰府保存協会 山本呈子解説員

 解説員の委嘱状はいただきながらもまだ研修中だった数年前の或る日、「大宰府万葉歌碑散策」を目的に埼玉県からのお客様のご案内を担当いたしました。
ベテラン解説員の関久江さんとご一緒に。
スタートは、九州国立博物館前庭の大伴旅人の歌碑
    
     ここにありて筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし
 
 旅人の筑紫での日々を、二人してかわる代る思い入れ一杯に語りました。七二七年の冬近く大宰帥として京から鄙の筑紫へ西下して来た旅人のこの地での三年間には不幸な事が続きました。翌年の初夏長年連れ添った老妻郎女を失い、また弟の宿奈麻呂もこの頃に失います。この時の悲しみは沢山の萬葉歌を生み出す起因ともなり、
       
     世の中は空しきものとしるときしいよよますます悲しかりけり

との絶唱を残しています。
 七二九年には足に悪性の瘡を病み京から兄弟を呼び寄せるやら、親交厚かった長屋王ご一家の訃報には、藤原全盛の世をどんなにか恨んだ事か。とは言え悲嘆に暮れるばかりではなく、翌七三〇年正月、万葉史上に燦然と輝く、あの「梅花の宴」を催して“鄙にも京あり”と帥としての気概を示しました。
 同年の冬十二月、憶良や満誓、小野老など、ともに京を懐かしんで暮らした人々に別れを告げ、また遊行女婦児嶋との密やかな別れに涙し、水城を越えて京へと上って行きました。
大納言として迎えられた名誉の帰還にも関わらず、旅人の心は深い孤愁の中を漂いながら、翌年七月妻の待つ冥界へと旅立ち、享年六十七歳の生涯を終えました。
 冒頭の歌は大納言大伴卿の満誓に和せし歌として万葉集巻四に載せられています。大納言とあるから京に戻って歌われたものですが、京に上る道すがら、奈良の里もほど近い難波にあって、ふと筑紫の方を振り返りながら思ったのであろう“ここにありて筑紫は何処・・・”の行間に込められた万感の思いをどうぞくみ取ってくださいと語りました。
 その後は、皆さんの相槌の良さに勇気づけられて天満宮、観世音寺、都府楼跡へと歌碑を巡りながら同じ調子でご案内を続けましたが、皆さんが鴻巣市で「こうのす万葉会」を主催されている津田先生とその生徒さん達であると知ったのは、かなり時間が経ってからのことでした。先生や皆さんの頷きの訳は、熟知の上の温かな励ましと知りましたが、今更繕いも成らず、太宰府ならではの臨場感を味方にひたすらゴールまでご案内しました。
 後のお話によれば、先生は万葉学者でご高名な清川妙氏の門下として勉学を積まれ、十年来ご自身で万葉会を主催され、また万葉に因んだエッセイ集のご出版もおありとのことでした。後日戴いた「私ひとりで、もう一度太宰府を訪ねてあなた方と一緒に万葉故地を歩きたい」との先生のお言葉は忘れません。

 この日の解説は、その時々に出会った方に学ぶ、という得がたい体験でした。「お元気で楽しく万葉の語りべをなさっておいででしょうね!私も旅人や家持に心慰められて毎日暮らしています」と、今年もいただいたお年賀状に嬉しい添え書きがありました。

いしぶみ26号(1)

博物館の展示から(4)

     『東北地方の稲作開始 〜ご飯に想う〜』
     
                       東北歴史博物館 館長 進藤 秋輝
 
 わが家の朝食はご飯が多い。パンは日曜日の朝食や休日の昼食にほぼ限られる。お米は宮城県産のササニシキの場合もあれば、ヒトメボレの場合もある。品種は決まっていないようだ。いずれにしても、炊き上がったご飯の味は格別である。今日、米が生産過剰気味で、減反政策もとられているが、稲作りが始まってから太平洋戦争後の昭和三十年代までは、食糧難と隣り合わせの生活であった。特に、夏の「ヤマセ」による冷涼な季候は東北地方に幾度かの飢饉をもたらした。東北地方の農民の歴史は厳しい自然との悪戦苦闘の戦いであったと言っても過言ではない。先人が現在の飽食の時代をみたらどう思うであろうか。 
稲の原産地は、インド以西の東南アジア説や中国東南部説などがあるが、未だ定説はないようだ。中国新石器時代の黎明期の遺跡として有名な浙江省余姚県河姆渡(かぼと)遺跡は、約七千年前から稲作が行われていたことを知る貴重な遺跡である。稲作が日本に伝わったルートにも数説あるが、中国東南地域から朝鮮半島南部を経て、九州の玄界灘に面した九州北部の地に伝わったとみる説が有力である。
 アジア稲は「ゲノム=配偶子を決める染色体の最少単位」から大きくインデカ型とジャポニカ型に分類される。インデカ型はタイ米に代表される細長のパサパサした米である。オイルショックの時に炊飯には合わず、チャーハンで食べた記憶を持つ方も多いと思われる。これに対してジャポニカ型は伝統的な日本米である。丸型で、粘りが強く、寒冷気候にも強い品種という。
 紀元前四百年頃に朝鮮半島から鉄製農工具を携えた渡来人によって、もたらされた米はジャポニカ型であった。佐賀県菜畑遺跡や現在の福岡空港のある板付遺跡はその代表的な遺跡である。長崎県の壱岐島の原ノ辻遺跡からは当時の鉄製の鋤・鍬・鎌・鏃・釣針・銛などが出土している。種籾の保存と運搬用に壷形土器が新たに作られた。外面を磨き、肩部に数条の沈線を巡らし、刺突文を施した壷で、福岡県の遠賀川流域で発達した土器であることから遠賀川式土器と呼ばれている。
 稲作とともに、青銅の武器や鏡、ガラス、機織による織物技術(縄文時代は編物に限られる)なども伝来し、日本の縄文時代人は農耕を主体とした弥生時代人になる。やがて、銅剣、銅矛、銅戈や銅鐸など大型の青銅器祭祀品が国内でも生産されるようになるが、東北地方にこれらが伝わることはなかった。稲作が始まると、水田や農具を数多く保有する豪族層が出現し、階級社会が成立する。
 東北に稲作文化が伝わったのは二千二百年前の弥生時代前期であることは今や常識である。しかし、このことが解るまでには六十年に及ぶ研究の歳月があった。
 研究の契機となったのが多賀城市大代の枡形囲貝塚から出土した「底部に籾痕が付着した」土器である。大正八年に発掘した土器を整理していた東北大学医学部の山内清男氏が籾痕土器を発見し、大正十四年に「石器時代に稲あり」という論文を発表したことに始まる。その後、仙台市南小泉遺跡で枡形囲式土器に稲穂を摘む「石包丁」が伴うことが解り、東北の稲作文化研究を一段と推進したのが伊東信雄先生である。先生は青森県を含め、東北各地に籾痕が付着した弥生土器がみられ、石包丁が秋田市、盛岡市以南の地域から出土することなどから、弥生時代には東北北部まで稲作が行われていたと想定した。その想定は見事に的中する。昭和三十三年には津軽の田舎館村垂柳遺跡では炭化米自体を発掘し、昭和五十六年には八百枚に及ぶ水田跡を発見した。翌昭和五十七年には仙台市富沢遺跡からも水田が発見され、弥生時代中期に東北全域で稲作農耕が行われていたことが証明された。
 さらに弘前市砂沢遺跡では更に古い弥生前期の水田跡が発見され、九州で成立した稲作がさほど時間を経ずに、東北に伝搬したことが証明されたのである。伝搬の担い手は西日本の人々であった。遠賀川式の壷に種籾を入れ、青森の地に赴き、稲作を開始したらしい。
 縄文土器の系譜を引く東北独自の土器と一緒に出土する遠賀川式土器の壷には九州から運ばれた壷と東北の土で作られたものの二者があるという。秋田市の地蔵田B遺跡はこれら西日本からの移住者の集落であえる。
 東北歴史博物館の弥生時代のコーナーでは、東北の稲作研究の発端となった枡形囲貝塚の「籾痕付着土器」や東北地方の遠賀川式土器、当日の臼、縦杵などの脱穀具、鍬、鋤などの木製農具を展示している。ご覧頂き、お米の歴史を学び、地産地消の意義を再確認する切っ掛けとなれれば幸いである。


    多賀城をめぐる人々(十二)    坂上田村麻呂 その一

                     東北歴史博物館、前館長  工藤 雅樹

 坂上田村麻呂が属する坂上氏は、中国・後漢霊帝の子孫と伝える。坂上田村麻呂の父・坂上苅田麻呂は武人として活躍した人物で、時期には、陸奥国の地方官として多賀城に赴任したこともある(第七回『坂上苅田麻呂』参照)。
坂上田村麻呂は苅田麻呂の子として天平宝字二(七五八)年に生れた。父・苅田麻呂の次男または三男であったという。母がどのような人物であったかはわからない。田村麻呂の名は、生れたところが田村の地であったからだと考えられる。平城京内に田村里というところがあるので、そこが田村麻呂誕生の地なのであろう。平城京左京四条二坊から五条二坊の付近で、現在の奈良市尼辻付近で、唐招提寺や薬師寺の近くにあたる。後世になって、田村麻呂は陸奥国田村郡(福島県田村市)、父・苅田麻呂は陸奥国刈田郡(白石市付近)生まれだという説が生れたが、信用できない。
 田村麻呂の官歴としては、宝亀十一(七八〇)年に近衛将監(このえのしょうげん・近衛府の下級幹部・近衛府は天皇身辺の護衛・警備にあたる役所)となったことが知られている。田村麻呂二十三才の時である。近衛将監は正六位相当の官である。当時の制度では、父が五位以上であれば、子が二十一才になると父の位階によりそれぞれ相応の位階と、その位階にふさわしい官につくことになっていた。これを蔭位(おんい)の制という。田村麻呂が二十一才になった時、父の苅田麻呂は正四位下であったことがわかっており、田村麻呂は蔭位の制により、官を得たのである。
 田村麻呂の官歴は、近衛府の武官からはじまった。そして、延暦四(七八五)年には従五位下に昇進した。しかし翌年の一月に苅田麻呂が死去し、田村麻呂は一年間の喪に服している。田村麻呂は服喪が明けると近衛将監に復帰し、延暦六(七八七)年には近衛将監のまま内匠助(内匠寮・たくみりょうの次官、内匠寮は朝廷で用いる各種の細工物の製作にあたった)を兼任し、さらに越後介(越後国の次官)、越後守(越後国の長官)などを兼任した。
 田村麻呂が近衛将監となった宝亀十一(七八〇)年は、多賀城が焼打ちされた伊治公呰麻呂の乱が勃発した年である。事件が勃発すると朝廷は、東北の状況を熟知する大伴益立(おおとものますたて)を現地の指揮官とする数万の大軍を編成して対処したが、ほとんど成果をあげることができなかった(第十一回「大伴益立」参照)。その翌年の天応元(七八一)年には、大伴家持(おおとものやかもち)が按察使(あぜち)兼鎮守将軍に任命された。家持は延暦三(七八四)年には持節征東将軍も兼ね、家持を責任者とする征夷が始動するかに見えたが、家持は延暦四(七八五)年八月に多賀城で没したため、征夷軍が出動するにはいたらなかった(第八回「大伴家持」参照)。
朝廷は改めて大規模な征夷の計画をたて、延暦七(七八八)年三月には、中部・関東地方の諸国に対し、翌年の三月までに合計五万二千八百餘人の兵士を多賀城に集結させるように命じ、この年の十二月には紀古左美(きのこさみ)を征東大将軍に任命した。古左美は宝亀十一(七八〇)年に勃発した伊治公呰麻呂の乱の際に、血祭りにあげられた紀広純(きのひろずみ)の従兄弟で、事件直後に編成された征夷軍では征討副使をつとめている。
 延暦八(七八九)年三月には予定どおりに五万余の軍が多賀城に集結し、三月末までには衣川(岩手県平泉付近)まで軍を進め、北上川を渡ったところに三ヶ所の軍営を設けている。なお、征夷軍の本営は玉造塞(たまつくりのさい・大崎市古川の名生館遺跡)に置かれている。伊治公呰麻呂の乱で焼打ちされた多賀城は、まだ本格的に復興されていなかったのだろう。
 この時の征夷軍の青写真は、胆沢(岩手県奥州市)・和賀(北上市)・紫波(盛岡市・矢巾町など)地方に軍を進めることだったようである。しかし現地の状況は厳しく、征夷軍は衣川の軍営で釘付け状態になったまま、いたずらに時が経過し、天皇からは征東将軍に対して状況のくわしい説明を求める命令がくだされるほどであった。
天皇直々の叱責にあせったのであろうか、現地では五月の後半ころに北上川東岸地区への突入を強行した。しかしこの作戦は、阿弖流為(あてるい)のひきいる蝦夷軍の巧妙な作戦に翻弄され、結果は政府軍の大敗に終わった。前線の指揮官クラスでは、丈部善理(はせつかべのよしまさ・磐城郡の人)、高田道成、会津壮麻呂(あいずのたけまろ)、安宿戸吉足(あすかべのよしたり)、大伴五百継(おおとものいおつぐ)ら以下二五人が戦死した。兵士では、矢にあたる者二四五人、河に身を投じて溺死した者一〇三六人、裸身で泳ぎ帰った者一二五七人で、前線の指揮官の出雲諸上(いずものもろかみ)と道嶋御楯(みちしまのおたて)らが余衆をひきいて還り来った。一方、政府軍は、一四村を焼亡させ、八〇〇あまりの宅を焼いたという。道嶋御楯は、後の延暦二十三(八〇四)年の「征夷」人事では、征夷大将軍の坂上田村麻呂を補佐する三人の副将軍の一人(他の二人は都の貴族)に抜擢されている。
 このような状況のもとで征東将軍は軍を解散するほかはなかった。そして九月八日には持節征東将軍の紀古佐美が陸奥より帰還したが、征東将軍等が現地に逗留して敗軍したことが勘問され、大将軍の紀古佐美以下は皆承伏したという。
朝廷は、この敗戦をうけて、早々に次回の征夷の準備を開始した。坂上田村麻呂はこの段階から、征夷軍の幹部として登場するのである。


※ ここで若干付け加えさせていただくが、平泉の世界遺産登録を目指して 岩手県出身の工藤雅樹先生が尽力したことは記憶に新しい。不運にも候補からはずれ心労がたたってか、程なく他界された。まことに残念なことだ。時を経て今年5月に遅ればせながら平泉の歴史遺産が世界遺産への推薦が決まった。今回の報を聞いていたらさぞかし喜んだに違いない。心が痛む。 (いときん)

いしぶみ25号(4)

『戦争のことども』〜歴史の証言としての記憶メモ〜 
                                五十嵐敬之輔
 
   仙台空襲
 
 本土への空襲が全国的に行われるようになり「空襲警報」「灯火管制」も日常茶飯事になりました。仙台空襲も寒村の田園地帯から花火大会を見る思いで傍観しておりました。十里余も離れた夜空に数条の探照灯が照射され、捕捉された米機の姿が肉眼で確認されました。だが炎上する市街地については夢想だにしませんでした。後日談になりますが、当時荒町近くに住んでいた義父母達は六郷付近まで避難し、義母は翌日早速職場(北目町にあった鉄道局)に行ってみたところ、半分焼けた座布団とソロバンだけが残っていたそうです。又、仙台駅周辺は硝煙がたちこめ、路上には黒こげの焼死体がゴロゴロ横たわっていたとのことです。
鹿島台空襲
 寒村にすぎない鹿島台の空にも米機が現れるようになりました。駅など街の中心部がターゲットになったと思いますが、この時押入れに逃げ込んだ商家の女性が銃弾に当たり犠牲になりました。皮肉な運命として街の話題になったものです。まさに無差別攻撃の段階に入ったようです。「田の草取り」の農夫も低空飛行する敵機に狙われました。幸いこの時は弾は当たらず事なきを得ましたが、私はこの時使用された銃弾(口径五〇)の薬莢を一輪差しとして今も使用しております。こうなると我々学童も大胆不敵になりました。私なども隣家の李の大木に登って、あのすっぱい実をかじり乍ら傍若無人にふるまう敵機を冷静に観察するようになりました。
空襲下の授業
 再三の空襲警報で授業が中断されることがありました。警報発令と同時に各自、所定の教具、教材を裏山に持ち込んで、解除までまさしく林間学校が開設されるのでした。又、野外活動として記憶に残るのは「炎天下の松根油堀り」です。五、六年の学童を役務に使わねばならない程、油が欠乏しておったのでしょう。我々にとって、『出たのは汗、得たものはいくつもの手のマメ』でした。
敗戦直後〜沖縄戦に敗れ本土決戦の決意も空しく玉音放送で戦争終結〜
一億総懺悔と食糧難
「一億総懺悔」の下、価値観の大変換を迫られるとともに食糧難にあえぐ毎日だったようです。代用食の質も低下するばかり。「豆かす」「大根の干し葉」も食べてました。米の供出も強化され、「ヤミ米の取り締り」「ドブロク密造の摘発」の風評も耳に入るようになりました。一方、近くの河川敷に、どこからともなく零戦が飛来し、これを焼却する飛行兵の悲しい姿もありました。
教科書の塗りつぶし
 学校では学童たちは教科書の不具合な箇所を墨で黒く塗りつぶす作業に余念なく、先生方は「民主主義とは何か?」を熱心に勉強し始めておりました。だが、一部の先生方はヤミ米の買出しを始め、この噂を聞いた悪ガキの私は正義感をもやし、「子どもらを教え導く教師らがヤミに迷うは口惜しきかな」などと黒板や廊下の柱に落書きをして、その鬱憤をはらしたものでした。
艦砲射撃について付言
 後年、私は高校生の一時期を岩手県釜石で過ごすことになりましたが、ここで私は艦砲射撃の被害の一部を現実に見る機会を得ました。終戦から既に数年経ているのですが砲弾落下の生々しい痕跡、それに私の居住した社宅の柱にも機銃の貫通痕が数条認められました。又級友の中にも銃弾の破片で負傷し足を引きずっている者もおりました。
おわりに
 さて、ここまで書いてきて戦争のない一見平和に見える日本社会も
 ・物豊かなるが故の心の貧しさ
 ・少子老齢社会の到来
 ・生命操作と生命倫理の跛行性
 ・文明による文化の蚕食 等という爛熟社会に見られる通弊の顕在化しつつある現状に愕然とするのですが・・・・。これはさておき当面の戦争、平和の問題について要言すれば、「核廃絶」」或いは「世界連邦の理念」追求に真摯な努力を指向することが緊要の課題といえるでしょう。擱筆にあたり
 「あたたかい家庭 明るい社会 平和な世界」
の到来を祈念いたします。          (完)
 

いしぶみ25号(3)

         野の聖・慶念坊(最終回)

                          大崎市鹿島台  太宰 幸子
 
 慶念坊にもたくさんの信者が増え、信者と共に、赤児の養育に一生懸命力を尽くしてくれる人々も増えた。養育した子供達の数はしっかり判明しているだけで、大正五年当時で、五十三人とされている。しかし、当時の食料難や生活環境を思えば、病死や栄養失調により死亡した子もいるであろうから、その二倍ほどの赤児や幼児が慶念坊を頼ったのではないかと推測される。
 時代が江戸時代から明治に移る過渡期になると、この地方にも慶念坊を慕う人々が多くなっていった。しかし、中には慶念の心とは裏腹な人々も出入するようになり、回りにはごろつきのような人などもたくさん集まるようになっていった。彼らは、言葉巧みに民家から金品を巻き上げたりすることもあったという。さらに、その頃には信者の数が数千人とも言われ、慶念を蔑視していた他の宗派は強い不快感を抱いていくようになっていた。「ホイト坊主」がただ者ではなかったからであろうか。
心有る人は、慶念に進んで寄進したが、それが、「子供を育てると言って、金品を巻き上げている。」「慶念はキリシタンと組んで、子供の生き血を取り外国へ売り飛ばす。」「慶念は、秘事念仏の流派で、邪教を広めている。」などと評判が立つようになった。慶念の名を語り、流れ者や僧が悪事を働くようにもなった。
慶念が捕縛
 ある時、一大事が起こった。このようなことが原因して、慶念は悪者たちの元凶とみなされ、当時の登米県庁(涌谷にあった)へ訴えられてしまった。
明治四(一八七一)年六月一日、ちょうどその日は藤ケ崎村(現在の美里町小牛田)の大崎太郎左衛門宅に招かれ念仏講を開いていた。その夜は遅くなったので、大崎家に泊めてもらっていた。当時七歳だった大崎さんの娘さんのはるゑさんの証言によると、その夜、宿泊先に役人が土足で踏み込まれ、太郎左衛門とともに松山へ連行されて行ったという。慶念は松山で拷問にかけられ、その翌日の二日には涌谷の牢に入れられた。当時の獄舎は、現涌谷町の小人町の旧長崎屋の倉庫付近にあったという。その牢屋の中での慶念坊は、日毎夜毎経を唱え口に念仏を絶やさず、声高に他力信心を説いたという。そして「お上のものは、食わない」として、出される食事に手をつけることなく断食を行った。
言い伝えでは、断食を決意した慶念は、差し入れがあっても一切口にせず、全て牢内の者に分け与えた。しだいに体力の弱っていく慶念だったが、気力を振り絞ってお勤めする姿に、牢内の者もいつしか感涙に咽(むせ)んだという。
 牢獄の中の慶念坊を気遣った弟子たちは、いろいろな策を練って、なんとか牢から出してさしあげたいと願った。弟子の中に、身障のあった真教という当時十六歳の若者がいた。真教は慶念の身を案じ、好きな餅や団子を懐中にして、足を引きずりつつ毎日牢の周りを徘徊し、持って来たものを慶念に渡そうとした。その様子に気づいた番人により、慶念の人柄やたくさんの子供たちの命が助けられた話が伝わり、その話は県庁へも達した。
出牢
 日毎に体力の衰えていく慶念坊は、もともと悪の元凶など疑わしいことなどあるはずはなかった。今度は牢役人や県庁の官吏たちも驚き、逆に慕い尊敬するようにさえなっていった。大和町吉岡の教楽寺の佐藤祐順という人は、いたく慶念坊のことを嘆き県庁にそのことを尋ねた。すると、引き取る者があれば出牢できるというので、松島町高城の願立寺へ協力を頼んだがうまくいかなかったらしい。それから県庁では、「それならば弟子の真教といふ者の親族を早く召せ」ということになって、真教の兄・安部文右衛門は玄岡村戸長とともに出頭した。そして県庁より、「慶念の身の上は、玄岡村戸長とお前共三人に任せるから、今日(こんにち)召し連れ、大切に能く(よく)介抱し、日頃の疲れを休ませよ」というお達しがあり、やっと慶念は七月ニ日、牢を出ることができた。この時の引き取り許可書状が伝わっている。やっと出牢ができたとはいえ、入牢してからちょうど三十日間ずっと絶食を続け、しまいには水さえ拒否し、声を大にして念仏を唱え続けていた慶念だったから、その体力の衰えようは尋常ではなかった。すっかり体力が疲弊していたのだった。出牢から三日後の七月五日の午の刻に近づく頃、慶念坊は自分の頭を北面にし、西右脇に臥し、回りにいる弟子たちにこんなことを話したという。「忘るなよ、念仏を、忘るなよ、念仏・・・」と言いながら、念仏の息と共に五十二歳の生を終えたという。眠るがごとき往生浄土の本懐だったと御橋著書は伝えている。
慶念坊の墓地
 初めはホイド坊主と囃され、なかなか人々に受け入れられなかった慶念坊だったが、亡くなる頃には、たくさんの人々の心の奥にその位置を占めていた。
 安部家で生を終えた慶念坊は、その後県庁の下知(げち)を受けて、涌谷の龍渕寺の境内で火葬された。その墓は、玄岡村戸長の考えで、現在の涌谷町平山の慶念坊の阿弥陀堂のあった側に建てられ埋葬された。その墓石には、「弘誓庵釋慶念補處」(ぐぜいあんしゃくきょうねんふしょ)と刻まれ、今でもたくさんの人々がお参りに訪れている。
自分の命にかえて赤児を育てた人・慶念坊は、まさに現代の役人が唱えることとは違った意味で、福祉の使者・野の聖そのものと言える。人は本来こうでなくならないのだろう。生きることに精一杯の人や、お金ばかりを愛おしいと思うような人が多い現代を、慶念坊はどのような思いで遠い空から見ているだろうか。         


  県図書館長の独り言   多賀にとどめた著者の想い出
          
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
 
 十一月二十八日夕方四時、仙台市北部にある書籍館いや宮城県図書館から史都・多賀城に向かった。六時から多賀城市生涯学習支援センターで行われる講座の講師を務めるためだ。図書館から多賀城への道は険しかった。何度行ってもすんなりとは着かない。道路音痴の上、多賀城・塩竈は一方通行が多いのだ。図書館で詳細な地図をコピーし、今回は三回道を聞いただけですんなり着いた。奇跡だ、万歳!出だしは好調。多賀城と私の強い絆が出来たのは五〜六年前にもなろうか。県庁の堀村廣雄さんが突如、平安王朝の雅な世界から出てきたような大山さんという女性を連れて図書館に来たのだ。真由美さんだ。用件は「いしぶみ」に寄稿してもらえないかということであった。サークル設立の趣旨に共感、真由美さんの一途な迫力に圧倒され以来二十回近く寄稿させてもらった。いしぶみの皆さんの活動もボランティアならこちらもボランティアだ。 困ったこともあった。私は何事にも熱中するタイプなのだ。執筆している時はその登場人物になりきってしまうこともある。「源融」を書いている時は土地の長者の娘に恋をした。その時のことは今も塩竈に伝えられていると聞く。長者の娘との間に生まれた私の娘は今どうしているだろうか。千年近く会っていない。藤原実方を書いている時は桜の花を眺めながら、厳しい家計の状況の我が身の不運を嘆いた。吉田松陰を書いている時は、今の国の政治のあり方に義憤を感じ、今まで入れたことのない政党に投票した。西行を書いているときは、漂白の旅人のように時の流れに身を任せ飄々と東北自動車道を家路を急ぎ、パトカーの音で現実に引き戻された。
 そんなことが脳裏に去来するなかで会場に到着した。会場では旧知の皆さんから挨拶された。心が和む一瞬だ。多賀城は知っている人たちが多いので嬉しくなる。いしぶみの会員の人たちは勉強家だ。気合いを入れて講演した。時には能因に西行に源融、藤原実方に松尾芭蕉になっての講演で、千数百年の時はたちまち過ぎた。最近自分の講演のまずさをカバーする方法を開発した。プロジェクターを使って画像を駆使しての講演だ。出席者はこの画像の美しさに誤魔化され、講演内容は出来の善し悪しに関係なく高く評価されるのだ。
 この日の講演は「歌枕の国みちのくの都・多賀城」だ。前段には、日本人の感性を育んだ風土と文化の基層について話した。四海、四季の存在が日本語を語彙豊かなものにし、それが豊かな日本の歴史や文学を育んだのだ。千数百年の文化をジャンルで語れる唯一の国・日本、日本の文化を最高度に昇華させた江戸草創期の指導者の見識、古くから女性が活躍し、庶民が文化を創り上げた歴史を持つ日本こんな話をした後、本題に入った。
 帰路、登米への道も険しかった。塩竈市内を脱出するまで五度道を聞いた。古代の旅人は多賀城に来るまで何度道を聞きながら来たのだろうか。セブンイレブンもない時代、誰に道を聞いたのだろう。こんなことを考えているうち私は千年前の旅人になっていた。

       


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