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いしぶみ18号(1)

     史都にとどめた道興准后の想い出
     
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
  
 道興准后(どうこうじゅんご)は、左大臣近衛房嗣の子で、京都聖護院門跡などをつとめた室町後期の高僧です。室町幕府と密接な関係をもち、延徳二年(一四九〇)には足利義視(よしみ)の病気平癒を祈願し、その翌年には参陣して十代将軍義稙を加持しています。
 さらに明応九年(一五〇〇)には参内して後土御門天皇の玉体を加持、熊野三山ならびに新熊野検校になるなど、隠然たる力を持っていました。
 文明一八年(一四八六)六月から約一年にわたって東国を巡歴し、その後は西国・西国巡歴の途に上るなど全国の名所旧跡を巡っています。東国巡歴の旅行記およびその詩文集は『廻国雑記』一巻として塙保己一編纂の『群書類従』に収められました。
 『廻国雑記』は、北陸路から関東へ入って武蔵国など各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたもので、すぐれた和歌や漢詩などを多く納められています。特に、各地の地名をよみこんだ和歌は注目され、もろおか(利府町)、赤沼、西行がへり(長老坂)などの地名が見られます。
 文明一八年六月上旬の頃、東国への旅のためしばらく留守にするため、前将軍足利義政、九代将軍義尚にお暇ごいを申しお上げ、翌日義政への二首を献じました。
  
       旅衣たつよりしぼる武蔵野の
               露や涙をはじめなるらむ 

 それに対し善政から返歌が贈られました。
       
       思いたつ富士の煙の末までも
               へだてぬ心たぐへてぞやる
 
  将軍義尚からも和歌が贈られました。
   
       思いやれはじめてかはす言のはの
               富士の煙にたぐふ物とは
 
 道興は使者を待たせとりあえず返歌を贈りました。
   
       富士の嶺の雪もおよばず仰ぎみる
               君がことばの花にたぐへて
 
 送別の宴の席で、八十五歳になる父は万感の思いを込めた和歌を道興に贈りました。
   
       身は老いぬまた相見むもかたければ
               今日や限りの別れなるらむ
 
 道興は柴の庵や、別れる心細さを和歌に託しました。
   
       住みなれしこの山水の哀れわが
               誘はれ出づる行方しらずも
 
 大原で皆に別れを告げ、足の向くまま各地を廻った道興は、白河の関を越え各地で和歌をとどめました。

       春は唯花にもらせよ白川の
               せきとめずとも過ぎぬものかは
       ちりつもる花にせかれて浅か山
               浅くはみえぬ山のゐの水
       梓弓(あずさゆみ)矢つぎの里の桜がり
               花にひかれておくる春かな
       かくしつつ故郷人にいつかさて
               阿武隈川の逢瀬(おうせ)にはせむ

       徒(いたず)らに我も齢はたけくまの
               まつことなしに身はふりにけり

 名取では藤原実方中将に思いを馳せました。
       
       桜がり雨のふるごと思ひいでて
               今日しもぬらすたび衣かな
 
 宮城野では時雨に遭い、しばらく雨をしのぎました。
     
       木の下に雨宿りせむ宮城野や
               みかさと申す人しなければ
 
 つつじが岡では、ワラビを見ました。
   
       名にしおふ躑躅が岡の下蕨
               ともに祈りしる春の暮れかな
 
 末の松山を遥かにながめながら、よくもこのような遠いところへきたものだと感慨を覚えました。いつの間にか春爛漫の季節を迎えていました。
   
       春ははや末の松山ほどもなく
               こゆるぞ旅の日なみなりける
       人なみに思ひ立ちにしかひあれや
               わがあらましの末の松山
 
 奥の細道、松本、もろをか、あかぬま、西行がへりなどいふところを通りす過ぎ、松島へ到着しました。松島の美しさは言葉に尽くせません。風情があり、かねて聞き及んでいたとおりの素晴らしい眺めです。
       
       この浦のみるめにあかで松島や
               惜まぬ人もなき名残かな
 
 籬島(まがきじま)を見渡せば、藤、つつじなどが咲き競っており、さらに美しい風情を添えていました。
   
       まがきじまたがゆひそめし岩つつじ
               巌にかかる磯に藤波

 これから塩竈の浦へわたるため舟に乗りました。
 
       松島や松のうはかぜ咲きくれて
               今日の舟路はちかの塩竈

 平泉ではありし日の藤原氏全盛と滅亡に、諸行無常の理(ことわり)に思いを馳せ家路を急ぎました。
       みちのくの衣の関をきてみれば
               霞もいくへたちかさねけむ

          
      
       北と南の「遠の朝廷」が友好都市締結!
    

 福岡県太宰府市と多賀城市の友好都市調印式が平成17年11月21日、太宰府市の九州国立博物館で開かれました。
 調印式には多賀城市からの市民訪問団65人を含め約120人の関係者が見守る中、佐藤善郎太宰府市長と鈴木和夫多賀城市長が友好都市盟約宣言と協定書に調印しました。
 ともに「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、国家の軍事、外交の窓口が置かれた歴史的背景が共通している市であり、現在も歴史を活かしたまちづくりを推進しているなど共通点を持っています。両市が結びつきを深めることは、古代の歴史を現代を橋渡しとして未来につなぐ有意義な一歩と言えるでしょう。
 私たち市民もこの機会にお互いの歴史と文化を理解し、未来に向けお互いの交流を通して創造的なまちづくりを展開できるよう努めていきませんか?
友好都市協定書は次の6つの交流事業を掲げています。
1. 市民訪問団の相互交流
2. 文化芸術及びスポーツの相互交流
3. 産業交流及び観光の振興に関する相互協力
4. 歴史、文化、教育に関する情報及び研究成果の交換
5. 災害時の相互応援
6. その他目的達成に必要な事業
  当サークルも歴史を活かしたまちづくりに尽力されている方々との交流を積極的に行っていきます。
今回友好都市締結にちなんで、地元太宰府市で史跡解説員としてボランティア活動を36年間続けてこられ昨年十月には1万回目の史跡解説を行った太宰府市観世音寺の貞刈惣一郎さん(86)を皆さんにご紹介しましょう。
 「雨の日も風の日も根性で頑張り続けた」と同市が大宰府市史跡解説員制度を設けたと同時に当時高校の教師の時代は休日を利用、退職後は毎日行い、国内ばかりでなく海外からの申し込みも多く、52カ国、一三六八団体を案内してきたという。海外の馴染みの添乗員もすっかり貞刈節が身についたというからすごい。ご自宅で民営筑紫児童図書館を運営、大宰府文化懇話会の事務局長としても幅広く活躍されている。
 専門的な質問に答えたいとのことから活動のかたわら佐賀大学で経済史を学び昨年修士号を85歳で取得したというから超人的だ。


   歴史・観光「ほんものづくり」を考える
         
                       太宰府市史跡解説員 貞刈 惣一郎
 
 歴史というものは、常に人を引き付けるものであります。時代によって人によって解釈も違いますから、その扱い方によって、随分多様な楽しみ方ができると思っています。
 私は36年間に一万団体(うち外国1,350団体)延べ504,000人の人々を太宰府や福岡都市圏を中心に歴史・観光ボランティアとして案内してきました。みなさん喜んでくれますが、多分、私の話でいろいろ想像をかきたててくれるだろうと思います。大宰府政庁跡には礎石だけしかないけれど、そこには百済滅亡(六六〇)から平家の滅亡(一一八五)までの古代の歴史があり、いろいろな人物の話題があり、絵巻物のような世界がほんとうにあったからだと思うのです。
 歴史や史跡を観光資源にするには、そしてそれに興味を持つ人を増やしていくためには、そのような歴史のおもしろさをうまく伝えることのできるいろんな仕掛けが必要だと思います。それは人であったり、施設であったり、ネットワークであったり、いろいろだと思います。
 私は九州国立博物館が平成17年10月15日開館を契機として筑紫大宰府の史跡・観光ネットワークづくりをしたいと思います。行革の時代ですから施設は最小限でよいのです。
 例えば水城と大野城・椽城は日本書紀に残る日本最古の山城です。白村江の戦い(六六三)で唐と新羅に破れた日本軍と百済の遺臣達が文字通り技術の粋をつくし、必死になってつくったのです。当時の国民の苦しみが目に映るようです。何か国というものを考える時の一つの原点をも見るような気がします。でも今、水城のすぐそばは車置き場になっています。悲しくなります。当時のように築堤の北側に水を貯めて、一部を再現してはどうでしょう。大宰府政庁跡も観光客をもっと増やす方法がほしい。蔵司周辺は貴重な遺跡が見学されない実情です。
 いくつかの主な史跡についてはわかり易く、楽しく想像力をかきたてることのできる表示スポットをつくってはどうでしょうか。さらに解説する人がいたらもっと魅力が増します。史跡解説者も現在いますが、今後も生涯教育の時代―協力者の増加を求めます。
 宿泊施設―国内・外の観光客を気楽に泊める場所が少ない。歴史観光で筑紫地区のネットワークづくりも必要でないでしょうか。近年観光客の志向の多様化、歴史、伝統文化、自然体験型旅行者の増加を考えると時、地域紹介を行う観光ボランティアの活躍が必要です。
いつでも、どこでも、だれでもをモットーに観光客の心をつかむ。これを機会にまたのおいでを・・・・
笑顔で観光客を見送る人にやさしいボランティア活動を続けたいものです。

いしぶみ17号(2)

    文化財を活かしたまちづくりについて(後篇)
  
                      多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
 
          四 遺跡と都市計画  |共生の思想|

(一) 現状保存から整備活用へ

 従来、史跡等の管理事業は管理団体である市町村が土地の公有化を行い、「現状保存」を前提とした管理を行ってきた。しかし、当市では指定地域の拡大、周辺地域の社会的環境の変化等の状況から特別史跡の積極的な整備活用策の必要性が生じてきたため、昭和六十年度から三ヵ年計画で特別史跡の将来像を明らかにし、発掘調査・研究、整備、公有化、管理事業の諸事業がスムーズに行われるよう総合的な事業計画の方針と、それを推進するための関連整備計画との調整に係わる方針を定めた「特別史跡多賀城跡附寺跡第二次保存管理計画書」を作成した。

(二) まちづくり計画への提言
         |管理活用計画書の策定|

 史跡等文化財の保存整備事業は、平成時代とともに大きな転機を迎えた。その最大の要因は、立体復元事業の実施である。それと期を同じくして当市でも平成2年度から多賀城跡の立体復元事業に着手し、この事業が第三次多賀城市総合計画の将来都市像実現のための重点プロジェクトの一つに位置づけられたのである。
 そして、復元工事の実施設計書を作成した翌年の平成7年度から多賀城跡の立体復元整備事業を前提として、特別史跡を取り巻く周辺都市整備事業と共同して積極的な管理活用を行うための具体的な方針、都市公園整備事業との一体的な整備、広域的な活用視点、さらに総体的な運営を盛り込んだ「特別史跡多賀城跡建物復元等管理活用計画書」(以下、「管理活用計画書」という)を作成した。
 この管理活用計画書は、文化財のみならず「史都多賀城」として多賀城市の位置づけを踏まえた上で、その周辺都市計画事業まで含めた管理活用計画とし、当市のまちづくり計画の一環として盛り込もうとしたものである。したがって、計画策定に当たっては、専門分野の研究者等からなる検討委員会の設置は勿論のこと、庁内の関係部局の職員で構成するワーキング会議を組織して、横断的な連携と調整を図りながら検討を行ったものである。

 (三)計画の方針  |共生の思想|

 歴史的文化遺産である特別史跡などの文化財は、それを取り巻く社会環境を鑑みると、それ自体「単体」で存在するのではなく、その周りには「環境」があり、人々の「営為」があることがわかる。よって、多賀城市の将来を考ええたとき「文化財」「良好な自然環境」「都市生活」はいづれも欠くことができない重要な要素となる。それぞれが重複して、連携して機能することが望ましい関係と考えられる。
 そこで、未来を方向づけるキーコンセプトとしてこの三つの「共生」が有効と考えたのである。

 (四)管理活用計画のまちづくりと具体的成果

 文化財サイドで提案したこの管理活用計画の対象領域は、特別史跡を中心として北の加瀬沼公園、西の遊水池域、南の中央公園と城南土地区画整理事業地域、そして東の中央公園と多賀城廃寺跡指定地域に及ぶ市の中央北部に当たる広い地域である。しかしながら、計画の概念的には、領域にとらわれず広域的な生態系の環境リングとして、周辺市町村を含んだ人間の社会環境の総合的なネットワークをも目指したまちづくりを提案している。対象領域内の具体的な方針としては、都市環境による段階的な空間を結ぶ軸線として歴史復元の核となる「大路」を位置づけた。さらに、段階的空間を地域ごとに土地利用方針を定め、動線計画、施設計画、管理活用の方針と手法についても提案している。
 この管理活用計画で議論し、計画書にまとめられた内容は、その後に作成された緑の基本計画(平成十年)、多賀城市観光基本構想・基本計画(平成十年)多賀城市環境基本計画(平成十三年)等の他部局の計画書にも活かされている。
 最後に、管理活用計画書の成果事例を紹介したい。
【城南土地区画整理事業|南北大路の復元と大路に架けられた橋の平面表示】|多賀城の城外に造られた街並み(古代都市多賀城)の痕跡を現代の都市計画に再現する。|
 多賀城跡の周辺地域の発掘調査で、多賀城政庁から真南に延びる古代の道路は、正門である南門を貫いて城外に大路が造られていることがわかった。この南北大路と東西大路を基準として一町四方の方格地割が行われた街が造られていた。南北大路の中軸線上に計画されている市の中央公園と民間施行の土地区画整理事業地内に、古代の都市計画の基準となる「南北大路」が復元されることになった。これは、まさに管理活用計画書の中に謳われている『大路による歴史の復元と都市軸の創生』である。
 管理活用計画対象地域内には、文化財と都市計画が共存しており、これらの強調、融合を図りながら『共生』していくことが、本市のまちづくりの核となる|
文化財を活かしたまちづくり|へと繋がっていくものと確信するものである。       (おわり)


   多賀城の地名

                       宮城県地名研究会会長  太宰 幸子

           地名が伝えていること(一)

 多賀城市内の地形は、長い歴史の間にどんどん変化を遂げており、特に近年の住宅化に伴う変化は目を見張るばかりである。たとえば稲荷殿というかつて稲荷社のあった地には、稲荷古墳があったが、すでに住宅の下になっている。しかもそこの住所は決して稲荷某とは地名表記されておらず、高崎○○丁目に変えられている。
このような住居表示や地名の変更は決して多賀城市内だけではないが、特にこうした住宅地化され開発されている地には、地名が知らせている本来の意味はすっかり消されてしまっている。
 多賀城の地名の特徴としてあげられるのが、湿地や川・海の入り込んでいたことを語る地名が多いことがある。原谷地・中谷地・東谷地中・西谷地中・上向谷地・一本谷地・仏谷地・戸仮谷地・山王谷地・下谷地際・北谷地などの地名は、かつて湿地や沼などが広がっていたことを語っている。したがって新田開発の際にはいち早く水田に変えられていった。
 小深田という地名が高橋地区にあったが、すでに町名変更されてしまっていて現在は消えている。深田そのものは、ふどる(ぬかる)ような湿地や泥田をいい、田植えの際には田下駄を使用した時代もあった。門間田も開発にかかわった人名が頭についているが、やはりひどくぬかる地で、膝上ほどまでぬかり田植えには大変苦労したと語ってくれた方がおられた。沼田という地名は、田がついているが田んぼの意味ではなく、△△のある所といういみで、沼のある場所という。現在沼の姿は埋め立てや干拓などにより消えているが、かつては沼がそこに存在したことを語っている。
 その反面これら湿地や自然堤防の周辺は、人間の生活の場としてはとても恵まれていたこともあって、早くから人が住みはじめ、山王地区からは古代の水田跡が見つかっている。 この山王地区には東町浦、西町浦の地名があるが、浦とは水際を示す地名で、加美町中新田地区などでは裏と表記されていたりするが、かつてはそこまで海または川や沼の水が入り込んでいた地だったことを語っている。
 また同じように海の入り込んでいたことを語る地名もあり、八幡地区には塩留・塩入・塩窪などの地名がある。
 しかしこれら湿田や泥田も現在の排水技術や暗渠設備、農業技術の進化にともないかつての苦労はほとんどが解消され、街化されている所も多くなっている。
                  (つづく)


 多賀城に勤務した兵士が平常時には修理・造作活動を行っていたことを示すものです。また平城京、平安京など都に所在する馬の訓練や競技を行う「馬庭」が地方においても存在することが確認できました。
施設の修理・造営を行う「修理所」が設置されていたことは文献資料でしか知ることができなかったが、今回出土品として初めて確認することができました。また両面には欠損していますが兵士たちの名前が登場します。是非、この機会に全国でも貴重な出土品をご覧ください。

いしぶみ17号(1)

          史都に刻んだ丸山可澄の『奥羽道記』
      
                         宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
  
 一六八八年(元禄一)みちのくを訪れ、多賀城碑を見た松尾芭蕉は、『奥の細道』にその時の感動を、次のように記しました
 「つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔(こけ)を穿(うがち)ちて文字かすかなり。四維国界(しゅいこくかい)の数里をしるす。この城、神亀(じんき)元年、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝村東人(あそんあずまびと)の所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使(とうさんせつどし)、同じく将軍恵美朝臣朝獦(えみのあそんあさかり)修造而。十二月朔日と有り。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみおける歌枕、おおく語り伝えといえども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかわれば、時移り、代変(よへん)じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかり也」と記しています。
 松尾芭蕉が多賀城を訪れてから三年を経た一六九一年(元禄四)水戸藩主徳川光圀の家臣円山可澄(よしみず・かちょうとも)が、多賀城を訪れました。当時、光圀は『大日本史』を編纂するため各地の資料を収集しており、「奥の細道」を通して、苔むしている多賀城碑についてもそのおかれている状態に思いを馳せたのでしょう。可澄が訪れる前年、光圀は仙台領内にある多賀城碑が「文字もこけむしたることを知り、貴重な碑がこのままではと、仙台四代藩主綱村に書簡を送りました。
 光圀はこの書簡の中で、「下野那須湯津上(しもつけなすゆづかみ)にある那須国造碑(こくぞうのひ)にふれ、近年石碑を修復し、その上に小亭を建て、側に小庵を構え、別当を置いた」ことを記しています。そして「陸奥守殿御領内の壺の碑の石碑は古今かくれなき碑であるが、近来破損しているということを伝え聞いている。御領内のことを外からとやかく言うのは失礼だと思うけれども、なにとぞ修復を加え、碑の上に碑亭を建て、末永く伝えていくよう願っている」と綱村に対し、保存措置を講じるよう要請したのであります。仙台藩はこれを受けて保存措置に乗り出しました。
 可澄の旅の目的の一つは、この多賀城碑がどうなっているかの確認調査でもあったのです。
 可澄(一六五七〜一七三一)は、十八歳の時、光圀に仕えて彰考館に入館。佐々介三郎宗淳(むねきよ)に随伴して九州、中国、北陸地方等に史料探訪を行っています。また花押(書き判)や神道の研究にも大きな功績を残しています。耳□羅病という苦境の中で在職五十七年間『大日本史』編纂事業の土台を支え、光圀に仕えた人であります。水戸黄門漫遊記で助さんおモデルの佐々介三郎宗淳、格さんのモデル安積寛兵衛らとともに、『大日本史』編纂にあたった十数名の館員の一人でした。
 元禄四年四月二日水戸を出発した可澄は、太田、棚倉、白川、須賀川、郡山、二本松、福島、国見を越え、八日に白石に入りました。九日には大河原、舟迫、岩沼、名取、長町を経て、十日仙台に入り、宮城野、壺碑、野田玉川を見てそれらを記録にとどめました。
 壺の碑について碑の大きさ、石の状態、字の大きさ、先に綱村から送られた写しとの確認もしました。また、文字も苔むしたところがあり書写がなかなか難しく写しかねたところは石摺りにして光圀の基に送った旨などが記されています。
 そのあと塩竈を訪れ、十一日に松島を見、大松沢、三本木、古川、高清水、有壁、平泉、水沢、相去、花巻、盛岡と廻り、六月九日水戸に戻りました。
 助さんのモデルになった佐々介三郎宗淳が訪れたのはその数年後です。宗淳らは、光圀の意を受け、全国各地を廻ったのです。宗淳は史料探訪、修史総裁、湊川建碑、那須国造碑修復などに、遺憾なく手腕を発揮しよく光圀の期待にこたえました。
 そのほかにも芭蕉三回忌を期して「奥の細道」追慕旅をした蕉門の俳人天野桃隣は著『陸奥鵆(むつちどり)』のなかで、碑にふれ「壺の碑、多賀城鎮守府将軍古館也。神亀より元禄まで千歳に近し。(略)此所より八幡へ一里余、細道を分け入り、八幡村百姓の裏に沖の井あり。三間四方の岩、廻りは池なり。処の者は沖の石という。これより末の松山、むこうに海原見ゆ。千引の石此辺といえども、所の者かつて知らず」と記しています。また奥羽の戦国争乱を奥羽全域にわたって通観した唯一の戦記物語である『奥羽永慶軍記』等も、碑について「壺の碑をみるに千年を経るといえども文字ありありとしている」と記し碑文を紹介しています。
 それから三百年の悠久の時を経過しました。時には、心静かな気持ちで碑の前に佇み、往事をしのぶのもいかがなものでしょうか。
   みちのくの奥ゆかしくぞ思ふゆる
         壺のいしぶみ外の浜風  西 行
 
多賀城をめぐる人々(5) 
   
          藤原恵美朝臣朝獦
     
                       東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹

 藤原恵美朝臣朝獦は「ふじわらのえみのあそんあさかり」と読む。多賀城碑の文面には、天平宝字六年に多賀城が修造されたことが記されているが、朝獦はこの時に多賀城の修造を推し進めた人物である。
「獦」という文字は、普通の漢和辞典にはないが、「狩」と同じ文字である。それにしても、藤原恵美朝臣とは大変に珍しい姓であるが、そのことを説明するためには、彼の父の藤原仲麻呂のことから説き起こさなければならない。藤原仲麻呂は大化の改新の功臣、藤原鎌足(かまたり)の曾孫、藤原不比等(ふひと)の孫である。仲麻呂の父は藤原武智麻呂(むちまろ)、有名な光明皇后は仲麻呂の叔母にあたる。
藤原氏は鎌足(かまたり)、不比等(ふひと)の後、不比等の四人の男子がそれぞれ高位高官にのぼり、藤原氏の権勢はゆるぎのないもののように見えたのであるが、全国を襲った疫病のため七三七(天平九)年には藤原氏の四卿が相次いで没するという、藤原氏の歴史にとっては最大の危機をむかえたのである。政権は藤原氏を離れて、橘諸兄(たちばなのもろえ)に帰し、これに不満をいだいた藤原氏一門の広嗣(ひろつぐ)が大宰府において反乱を企てて討たれるということまであったのである。
 このような時に藤原氏を救ったのが光明皇后である。七四九(天平感宝元)年、病弱だった聖武(しょうむ)天皇は譲位し、聖武天皇と光明皇后を両親とする阿倍(あべ)内親王が即位して孝謙(こうけん)天皇となったが、政治の実権は光明皇太后(聖武天皇譲位により皇太后)が把握しており、藤原仲麻呂は光明皇太后の執政機関として設けられた紫微中台(しびちゅうだい)の長官に任じたのである。
 仲麻呂の権勢に対しては橘諸兄(たちばなのもろえ)の子、奈良麻呂が大伴氏や佐伯氏の有力人物とともにクーデターの機をうかがっており、七五七(天平宝字元)年にはついに橘奈良麻呂の変と呼ばれる事件が勃発している。この事件では、陸奥鎮守将軍兼按察使(あぜち)に任じられた大伴古麻呂(おおとものこまろ)が赴任の途中美濃国(岐阜県)不破関(ふわのせき)で病と称して逗留し、関を占拠することなどが計画されていた。また事件の発覚に先立っては、反仲麻呂派の佐伯全成(さえきのまたなり)は陸奥守(むつのかみ)に任命され都から遠ざけられていた。
 仲麻呂の三男、藤原朝獦は事件直後に佐伯全成に代わる陸奥守に任命されて任地に下り、ここでみずから反仲麻呂派の佐伯全成の勘問(おそらく拷問)を行ない、全成はついに一〇年以上も前からの反仲麻呂派の動きをすべて自白した後、自経したという。多賀城ではこのようなことも行なわれたのである。
 橘奈良麻呂の変を強攻策でおさえた仲麻呂は、七五八(天平宝字二)年には右大臣(この頃は仲麻呂の好みにより、官名も中国風に改められていたので正式には太保【たいほ】といった。七六〇年には太政大臣(太師【たいし】)に昇進)となり、勅命によって藤原の姓に恵美(えみ)を加え、名も押勝(おしかつ)となった。こうして藤原朝臣仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝(ふじわらのえみのあそんおしかつ)となった。仲麻呂(押勝)の息である朝獦は、これ以後、藤原恵美朝臣朝獦と名乗ることになる。
 朝獦はその後しばらく東北地方支配の最高責任者として多賀城の修造、桃生城と雄勝城の造営、秋田城の改修などさまざまな面で手腕をふるうことになる。しかし都では、朝獦の父の恵美押勝の権勢にかげりが見え始め、七六四(天平宝字八)年には反乱に追い込まれ、ついにはわずかに妻子数人と共に琵琶湖畔の船上で捕らえられ、首を刎ねられた。この時、朝獦も父や兄弟たちと運命を共にしたのであった。

いしぶみ16号(2)

文化財を活かしたまちづくりについて(前編)
              
                      多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
一 多賀城の文化財

 多賀城市の中央北部の丘陵上に陸奥国府・鎮守府の遺跡である多賀城跡が所在する。この古代多賀城跡の正門である多賀城南門の傍に建つ多賀城碑が、国の重要文化財に指定された。時節柄長雨が続いた梅雨空から初夏の日差しが差し込んだ、平成十年六月三十日のことである。およそ一世紀にわたって偽作の汚名を着せられ、歴史資料として正当な扱いをされて来なかった多賀城碑がついに“真碑 ”と評価された瞬間である。
 奈良時代前半の神亀元年(七二四)、古代律令政府が東北支配の中枢施設として設置した「多賀城」を市名由来とする多賀城市にとって、この多賀城碑はまさに名実ともに由来を記す記念物となったのである。
 多賀城市は、全国的にも早くから文化財の保存整備事業に着手してきた。その主たる遺跡は、特別史跡多賀城跡附寺跡である。特別史跡以外の文化財についてみると、市指定文化財が5件(古碑3、名勝2)、未指定の埋蔵文化財包蔵地は、三十六遺跡で面積は約四百三十万平方メートル、特別史跡の指定面積を含めると、何と市域の約二十六%が文化財の包蔵地域となっている。

二 特別史跡の保存整備

 昭和四十一年に多賀城跡附寺跡が特別史跡に指定され、それを契機として多賀城廃寺跡の環境整備事業が多賀城町(当時)によって三ヵ年事業で実施された。
そして、昭和四十四年度からは、特別史跡の保存事業を宮城県と多賀城市が分担して行って来ている。県は、発掘調査と環境整備を、市は土地の公有化と維持管理業務を担当している。これまでの環境整備によって、政庁跡や東門跡、大畑・作貫地区の官衙跡、南辺や北辺築地周辺等の地域が史跡公園として活用されている。さらに、市は特別史跡の積極的な活用方策として、平成二年度から多賀城跡立体復元整備事業に着手した。
 この事業は、現地に古代多賀城の建物を復元することを目指すもので、将来市のシンボルとなる実物建造物を望む市民のニーズも高く、五年にわたる様々な調査検討を経て「多賀城跡建物復元工事実施設計書」を作成した。しかし、現在まで復元工事の着手には至っておらず、今は周辺整備を行うなど条件整備に努めているところである。

三 遺跡の保存と活用

 多賀城市は、昭和五十四年度から市単独で発掘調査に乗り込んだ。その第一の遺跡が「館前遺跡」である。調査の結果、国司館跡とみられる古代の建物跡六棟が発見され、宅地造成工事を中止して急遽約一万平方メートルの土地を買収したのである。その後、多賀城跡の南面地域にあたる市川橋遺跡の保存区域拡大、古代製鉄遺跡が発見された柏木遺跡、全国で初めて確認された山王遺跡の国守館跡などが相次いで特別史跡に追加指定され、保存措置が講じられた。市内各所に所在するこれらの文化遺産をどのように活用していくか、新たな課題が生じてきた。  
(次号へつづく)


    「とんぼ玉を作ろう」
                     〜東北歴史博物館体験教室から〜
 
 三種の神器にあるように「玉」は古代人にとって大切なもの、透明で美しい輝きを持つガラスの玉は、ヒスイや水晶と並び当時の人々にとってあこがれの的であり、なかでも「とんぼ玉」は何種類かの色ガラスを細工して文様を作り出した特別な玉で非常に珍しく大切にされたものと考えられます。今ではとんぼ玉といえば小穴の空いたガラス製の玉をすぐ思い浮かべますが、とんぼの由来は江戸時代の中期頃からでとんぼの複眼に似ていることから「とんぼ玉」と呼ばれるようになったとか。とんぼ玉(漢字名 : 蜻蛉玉)の名称は日本のみであって外国では「グラスビーズ」と呼ばれ、古代メソポタミアやエジプトでは、既に紀元前十八世紀の製法を記した秘伝書が作られたというからかなり歴史は古い。世界各地で出土されるとんぼ玉にはその時代、地域によってガラスに含まれる成分の違いや製造方法の違いにより多くの種類のとんぼ玉があり奥の深いものであることがわかります。とんぼ玉の出土例は国内でも86遺跡(東北5遺跡)、宮城県内では3遺跡から11点発見されています。涌谷町追戸横穴墓郡、石越町山根前横穴墓郡、中田町白地横穴郡の7世紀〜8世紀にかけて造られた横穴墓から出土しています。去る2月13日(日)3回目となった「とんぼ玉教室」は石越町山根前横穴墓郡出土のとんぼ玉の復元をテーマに古代人の技に23名の参加者が挑戦しました。
 毎回定数を超える応募のある体験教室で、牧富美子先生の指導のもと、皆さん真剣そのもの。タイミングが非常に難しく、不慣れな人も周りの協力で見事に完成。炎の加減、両手でガラス棒をまわしながらの作業は見ていてハラハラ。世界で1点しかないとんぼ玉は参加者にとっても宝物となることでしょう。(M)


      和菓子屋雑感(2)
                              佐貝 道夫 

❘塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話❘
昭和十年以前、福島市から三時間以上かけて、塩釜に海産物を仕入れに来ていた祖母は、旧塩釜港駅前(現在のJR仙石線本塩釜駅前)のゑびや旅館によく泊まっていたようです。さらに祖母は取引先であった多賀城市中央の「星治」さんの先々代に、後に私の母となる娘の仲人をお願いした縁で、塩竈の佐貝家に嫁ぐことになるのです。私を妊った母は初産ということもあり、福島の実家で私を生みました。聞いた話によると、福島では初孫外孫ということで殊の外可愛がられたようです。幼い頃の記憶でも何かにつけ、母の実家に行っていたことが思い出されます。
 祖父が魚屋の店を開いていたことから、外に遊びに出る度おやつ代わりに五種類ほどの煮干しや、ホッキ貝の乾物をポケットの突っ込み交互に食べていた記憶があります。なぜかその時の味は鮮明に覚えています。
 祖父の思い出は、日中から酒を飲んでいたのを思い出します。しかも、炉淵でガラスの大徳利に日本酒を入れ直火で燗をするのです。私がそこに行こうものなら酒臭い顔を近づけて来るのです。それがいやで逃げ回った記憶があります。祖父にすれば、頬ずりという愛情表現をしたかったのでしょう。
 そういう祖父も少年時代は相当のガキ大将だったようです。後に店を継ぐことになる母の弟が、お得意様から聞いた話しによると、近所の子ども達全員に新撰組の半纏らしき物を着せ、お墓で遊んでいたそうです。いつも酒臭かった祖父。それを子ども心にも「気持ちが悪いなあ、嫌いだなあ」と思っていました。しかし、隔世遺伝なのか私にもそんな祖父に似たところがあります。私の少年時代はというと、我が家で菓子職人をしていた板橋さんのお父さんは映写技師でした。そんなことから、板橋さんに連れられて映画をよく見に行きました。しかも、当時市内にあった「大映」「松竹」「東映」の映画館はどこもフリーパスでした。よく見た映画は時代劇です。中でも好きだった俳優は順に板東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、市川歌右エ門でした。映画から帰ると早速、近所の子ども達を集め、映画遊びをしていました。場所は本町のお釜神社境内です。子ども達にそれぞれ配役を決め、覚えてきたセリフと演技を教えるのです。もちろん私はメガホンを持つ監督です。
 以上のように祖父譲りの一堂に会した人達との共有制、共通性とか統一性を求める心は、その頃の血が騒ぐのか、受け継いだ福島の祖父の血がそうさせるのか分かりませんが、宴席になると司会というメガホンを心に持ってしまうのです。三・四十人くらいで親睦会的な宴席を持つと、殆どの宴席は隣りの人と話をしたり、数人のグループに分かれてしまっているのです。これでは百人集まっても隣りの人だけとの親睦会になってしまいます。一堂に会した一人ひとりの考えを全員で聞く、自分の考えを語る、それが大切ではないかと常々思っています。それがつい、私が幹事の場合は総合司会をしてしまいます。
 話題を塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話に移しましょう。少年時代、福島の魚屋では上客と呼ばれた人は、刺身というとタイやヒラメ、スズキなどの白身魚でした。中の客は赤身魚でした。マグロ、カツオなどです。しかし、最近、塩釜ブランドであったマグロも、青森の大間ブランドになってしまいました。さみしい限りです。
 さて、戦前、大衆魚としても見向きもされず、肥料になったり捨てられていたアンコウ。しかし、今や高級魚です。アン肝はフォアグラより美味だと思います。  
 また、イワシも美味です。イワシのうまさをマグロに例えると天然マグロです。対してサンマは養殖マグロといったところでしょうか。さらに魚の蘊蓄を続けましょう。ホッケは一般的な縞ホッケより真ホッケを(北海道を旅行しておいしかったホッケは真ホッケです。)。ドンコはいつも食べているドンコ汁より、煮魚で食べて見てください。新しい発見があるはずです。マダラの精巣・キクも美味です。さっと湯通してポン酢で食べる。これまで珍味中の珍味と思っていたアワビの肝を凌ぐのではと思っています。姿・形の悪いものほど味に奥があるのです。
今は昔の大衆魚が高級品に変貌して大出世する時代です。現代の大出世頭の「楽天」「ライブドア」。これらの三十年後はどうなっているのでしょうか。世の中は、すべて循環する働きがあるものだと感じます。
                     (塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)

〜読者からのおたより〜
 『和菓子雑感』を拝読して、私の「重い筆」をどうしても取らざるを得ない衝撃を覚えました。荒廃した高層の谷間にあって、まさに金塊を拾った心地がしました。世はまさにグルメ時代、売り込み宣伝の時代、大型店舗の地方進出を許容する行政etc・・・。その激流の最中にあってセセラギの如くヒタスラに『和』の伝統を流し給う。ありがたきことかな。
  梅の花!風雪にたえてなおつよく!!
(市内在住 五十嵐さん)             

いしぶみ16号(1)

       史都にとどめた吉田松陰の想い出
      
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 長門国萩(山口県萩市)生まれの幕末の思想家吉田松陰(一八三〇〜五九)は、国家大計の指針を見つけだすため真冬の東北を旅し『東北遊日記』という旅の記録を残しました。二二歳の松蔭は「東北地方は東は満州に連なり、北はロシアに隣接する。国を治めるのには最も重要なところであるが、自分は一歩も足を踏み入れたことがない。この機会を逃せば後に悔いを残すことになるだろう」という憂国の思いを胸に秘め必死の覚悟で東北を旅したのです。一八五一年(嘉永四)一二月江戸を発った松蔭は、白河から東北に入り会津若松、新潟、佐渡、庄内、本庄、久保田を経由して、日本海を碇(いかり)ヶ関(青森県)に出て弘前、小泊(こどまり)へ至り、三月三厩(みんまや)へ到着。帰りは奥羽街道を盛岡、石巻、松島、塩竃、多賀城、仙台、会津に入って江戸に戻っています。現地を見聞して幕府に北方問題の進言をするため、厳寒の東北を徒歩で巡った旅日記です。松蔭は江戸で佐久間象山に洋学を学び、常に海外事情に意を用いました。一八五四年(安政一)米艦渡来の際、下田で密航を企てて投獄、のちに萩の松下村塾で子弟を薫陶しますが、安政の大獄に座し江戸で刑死しました。
 一八五二年(嘉永五)三月五日松蔭は小泊から算用師(さんようし)峠を超えて竜飛岬を訪ね、海峡を航行する外国船を見て、北方防備の必要性を痛感、一詩にそれを託しました。

「去年の今日巴城(萩城・ゆうじょう)を発し、楊柳(ようりゅう)風緩やかに馬蹄(ばてい)軽し。今年北地更に雪を踏み、寒沢(さむさわ)卅里路行き難し。行き尽す山河万の夷険、滄溟(そうめい)に臨みて長鯨(ちょうげい)を叱せんと欲す。時平かにして男児空しく慷慨(こうがい)す 誰れか追はん飛翔(ひしょう)青史の名。
 海浜に出づ、これを三厩(みんまや)と為す。俗に伝ふ、義経松前に騎渡するにここよりとする。戸数百許り、湾港は舟を泊すべし。松前侯の江戸に朝(ちょう)するにも、舟に乗りてここに到る。今別(いまべつ)を経(ふ)。戸数湾港、また三厩と相類す。大泊を経て上月に宿す、戸数僅かに一七、八のみ。行程八里。小泊・三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎(たっぴさき)と為す、松前の白神鼻(しらかみのはな)と相距ること三里のみ。しかれども夷舶憧々(どうどう)として其の間を往来す。これを口側(とうそく)に他人の酣睡(かんすい)を溶(ゆる)すものに比(くら)ぶれば更に甚だしと為す。いやしくも志気ある者は誰れか之れが為めに切歯せざらんや」。
 
 三月一二日盛岡を出発した松蔭は、石取を経て花巻、黒沢尻、鬼柳、水沢、平泉、一関、登米、柳津、飯野川、石巻にいたりました。石巻では日和山から周囲を眺望しました。また、一関から石巻にいたるまで田野は肥沃にして道縦横に走っていると記しています。
 三月一七日に矢本に到着しました。広大に広がる原野は土質も良く、開墾すれば美田になるだろうという印象を記しています。鳴瀬町小野を通って舟で鳴瀬川を渡り、近道を通って富山へ登りました。「富山に登る。山上に寺あり。松島を望みて一に遺すなし。秋天のときは、富士山を末の位に見る。故になづくという」と記しています。高城では良い杉山を近くの海では塩田を見て松島から舟で塩竈に向かいました。塩竈で一泊しますが、夜は雨が降ってきました。
 一八日は、朝は小雨でしたが次第に晴れわたってきました。まず陸奥の国一宮塩竈神社を参拝、明応六年に鋳造したと伝えられる古い鐘を見、仙台藩主が献上したという神馬を見ました。藩主が在国中は祭事の時には必ず訪れるという神社です。仙台領においては、売春が固く禁じられていますが、塩竈・石巻は船舶の往来するところなので、許されているなどの話を聞きながら、午後二時頃、多賀城市川にいたりここで多賀城碑を見て、次の詩を作りました。
 多賀城古址(こし)古碣(こけつ)を尋ね、
 蝦夷(えぞ)靺鞨(まつかつ)字なお新たなり。
 憶(おも)う昔朝廷遠図を壮(さかん)にし、
 胡(えびす)を呑むの気象百蕃を懾(おそ)れしむ。
 千余年後往時を問えば、
 空しく男児をして涙巾(きん)を沾(うるお)さし
 む。
 
 感慨にひたりながら今町(仙台市内今市)・燕沢を通り過ぎ弘安五年建てたと伝えられる碑文を観ました。怪奇な文字で読むことができません。伝えによれば、鎌倉円覚寺の開山元(無学祖元)が蒙古戦没者のためにこれを建立したといわれています。敵国の戦死者を祀ることをはばかったのでしょうか。そんな想いを胸に仙台では養賢堂で塾生らと時事を論じ、江戸への道を急いだのです。松蔭が安政の大獄で刑死するのは多賀城を訪れた七年後、二九歳の時です。



 多賀城をめぐる人々(4)   百済王敬福
             
                        東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
 奈良時代の半ば頃の陸奥国の地方長官(陸奥守)に、百済王敬福(くだらおうきょうふく、王の字はコニキシとも読まれていた)という貴族がいた。藤原・大伴(おおとも)などの姓とくらべると、大変にかわった姓であるが、これは彼の祖先が古代朝鮮三国のひとつ、百済(くだら)国の王族であったことに由来する。
 大和朝廷の時代、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済の三国が並び立っており、激しく対立していた。しかし百済は六六〇年に、高句麗は六六八年に、中国の唐と新羅の連合軍の攻撃をうけて滅亡した。
大和朝廷は古くからとくに百済と友好関係にあったため、百済が滅亡すると救援軍を朝鮮半島に派遣して百済の再興をはかった。しかし六六三年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗し、百済国の人々が多く日本に亡命し、百済義慈王(ぎじおう)の子の善光(ぜんこう)は百済王の姓を与えられて、朝廷の貴族の一員に加えられた。敬福は善光の曾孫である。
 敬福は多賀城を創建した大野東人のもとで次官(陸奥介)をつとめた経歴を有し、大野東人の後をうけて奈良時代中期には、朝廷の東北地方支配の責任者をつとめた。この時期に都では、東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金(きん)の不足が問題となっていた。敬福は七四九(天平二一)年に、陸奥国小田郡から金が産出したとして黄金九〇〇両を献じたのである。
 聖武(しょうむ)天皇は大変に喜んで光明皇后、皇太子(阿倍内親王)以下を伴ない、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、年号も天平から天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改めるなど、国家的な慶事として大々的に祝われたのである。
 金を産出した小田郡とは涌谷町周辺のことで、涌谷町黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。これが現在の国指定史跡「黄金山産金遺跡」の由来である。遺跡からは「天平」の文字が刻された瓦や宝珠も発見されており、仏堂の屋根を飾っていた軒瓦は、多賀城のものと同じ系統の重弁蓮華文(じゅうべんれんげもん)軒丸瓦と偏行唐草文(へんこうからくさもん)軒平瓦で、この堂が国家的なものであったことを具体的に示している。神社の側を流れる小川からは、現在も砂金を採取できる。
 この時越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は任地で「陸奥国より金を出(いだ)せる詔書を賀せる歌」(長歌一首と反歌三首)(『万葉集』)を作った。「すめろぎの、御代(みよ)栄えんと東(あづま)なる、みちのく山に黄金(こがね)花咲く」はそのなかの一首で、黄金山神社境内の歌碑には、古代文学の研究で知られた山田孝雄(よしお)氏の筆によるこの歌が刻まれている。またこの地が黄金初出の地であることを論じた大槻文彦氏の「日本黄金始出地碑」も境内に存する。
 敬福はこの功績により、従五位下から八階級特進して従三位に昇進し、高級貴族の仲間入りを果たした。また敬福の子孫や同族からは奈良時代末の鎮守将軍、百済王俊哲、坂上田村麻呂配下の征夷副将軍百済王教雲、平安時代初期の鎮守将軍百済王教俊など、陸奥国と深くかかわった人物が輩出した。
多賀城をめぐる人々のなかでは、百済王敬福も見落とすことができない人物のひとりなのである。


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