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いしぶみ15号(2)

和菓子屋雑感 
                           佐貝 道夫 

 私は一介の菓子屋ですが、菓子づくり四十八年間の経験から、食に関する事で皆様のお役に立つことが少しでも有れば幸いです。和菓子の一年は「うぐいす餅」と「桜餅」と「花びら餅」から始まります。日本料理と同じように、季節感を大事にし、女性の着物の柄や床の間の掛け軸と同様で、本物より一足早い出番です。したがって、うぐいすが鳴き、桜が咲く時期には「柏餅」の季節となっています。「花びら餅」は、裏千家の初釜に用いられるもので、早くて正月三が日か松の内には姿を消しますが、近年茶事以外のお客様からのご要望により、一月末あたりまで作ります。形状は抽象的に男性と女性を表現し、子孫繁栄を願った縁起菓子で、皮は牛皮餅、中身は赤い餅とみそ餡と長い牛蒡で飾ります。
 本来、お菓子の名称は形だけではなく、皮の硬さと砂糖の量、餡の硬さと砂糖の量で決まります。[うぐいす餅」の餡は柔らかめで、「桜餅」の餡はやや硬め、「柏餅」の餡はこちこちの硬めにつくります。
 又、和菓子の原形である「草餅」や、「大福餅」の皮は砂糖がまったく入らないか、入っても餅米か餅粉に対して砂糖の量が三割から五割以内が本当の製品の味です。したがって、お昼過ぎないし夕方には硬くなりますので、硬くなるものを硬くならないうちに食べるのが本当の味で、炊きたてのご飯の味のようです。炊きたてのご飯を保温してお昼と夕方と翌日では、味がだいぶ変わるのはご承知のとおりです。お寿司の場合でもカウンターで握ってもらってすぐ食べるのと、桶に入ってからのと、出前の味では味がはっきり違います。シャリがほんのりと温かいと、さらに美味しいようです。お寿司を翌日に食べて良かった人は皆無であるはずです。
 しかし、和菓子の世界は最近、スーパー等の大量生産、大量販売、流通(納品・陳列・お客様の食する時間)方式により、すべての餅菓子は前述の牛皮餅(求肥ともいう)を使います。牛皮餅は餅米か餅粉100に対して砂糖の量が100から250入りますから、十日以上過ぎても硬くならないものも有ります。餅粉の値段に対して砂糖の値段は、五分の一以下ですから原価も安くつきます。餅菓子といっても、餅より砂糖の量が多いのですから餅菓子といえるのでしょうか。これには、最近の味の風潮もありまして、柔らかくソフト感があり、いつまでも硬くならないものが良しとされ、本物が不良品の時代になってしまいました。本物でないものがはびこっているのに反して、本物を見定める「なんでも鑑定団」の人気が上がっているのも皮肉な現象です。「いい仕事してますね」の名文句がコマーシャルにも使われていました。
 さて、平成十五年夏の朝日新聞誌上に、わかぎゑふ(劇団主宰)さんが「本物失う安物ゲーム」の時評で、最近はみんなが安物を利用するというより、安さに負けて買続け本当にいいものが分からなくなってしまっているような、の文を載せていました。
 さて、人の購買意欲をかき立てるものは、ブランド名、広告宣伝で名前を知っているもの、お客様の商品に対するイメージ、口コミ、スーパーやデパートや駅で売ってるからであったりするのが普通ですが、売り手に踊らされるグルメ人でなく、冷静な自分の頭と舌で確認して真の目利きの訓練を積み、本人の本人による本人のためになる、新しい無印食品を発見して頂く消費者が増えると、本物の製品が増え安くなり数々の擬装商品が少なくなると思います。
 大正生まれで、昭和四十八年に亡くなった母は、京都へのみやげに朝一番の電車で石巻へ買い物に出かけました。ご馳走とは、駆け回ると書きますが、ご馳走をつくるだけでなく、おみやげにも当てはまるのでしょうか。現在はどこでも買えて非常に便利ですが、一般的に千円のものが四百円から七百円での卸しという商品もあります。塩釜には有名な日本酒があります。 勿論他の酒と比較しても上位の味だと思いますが、それと較べてあまり名が通っていなくても同等か、旨い酒もあります。人はすでに味の評価の定まったものに対しては、頑冥に固持し新しいものを取り入れない保守的な癖があるようです。
        (塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)



「金の鶏」

 今年は酉年。そこで昭和十二年二月五日、宮城県教育会から発行された三塚源五郎著「多賀城六百年史」から「金の鶏」を紹介します。
          ■
 本村笠神の本郷家は二十數代も續いた近在にならびなき舊家で且つ分限者であった。維新頃までは大肝入と云ふ一寸郡長のやうな格式の家であった。元は八幡の本郷原に居ったさうであるが何時の頃現在の地に移轉されたか昔貞觀頃から度々大津波に襲はれたといふ記禄も殘つてゐる、多分其の津波の爲に轉住したものと思はれる。
昔本郷家の先祖某氏が所用あって毎日のやうに蒲生に通った。或夜方八町の道を通ったら時でもないのに土の中からコケッコウと鶏の鳴く聲が聞えた、合點の行かぬことゝ思ったので其場所に標として杖を立てゝ家に歸った。翌日多勢の若者をつれて其處に行って掘らせてみたら金の鶏が現れた、花咲老翁が大判小判を掘ったやうに喜んで家に持ち歸って石の唐戸に入れて大事にして藏って居った。是から本郷家」がめきゝ身代がよくなって近所近在ならびなき富裕者(物持)になったさうである。そして此の金の鶏は舊正月の元旦にだけ鳴いたとの事である。本郷家では代がはり毎に出して拜んで家督に譲った。所がその後何時の間にかにか見えなくなった。地方では利府の方に飛んでいった。それから本郷家も家政が振はなくなつたと言ひ傳へてゐる。(原文のまま掲載しました。)
          ■
 旧笠神村に伝わる「金の鶏」の物語です。これは昭和五年から十五年まで山王小学校に校長として勤務した三塚源五郎氏が集めた資料を「多賀城六百年史」として全百二十六ページにまとめたものです。
 「多賀城六百年史」に書かれていることはその後、「多賀城町史」や「多賀城市史」へと受け継がれていくのです。         (「いしぶみ」編集部)




    多賀城の地名「 弥勒  みろく 」     
                        宮城県地名研究会会長 太宰幸子

 多賀城市内には国府関係の遺跡がたくさんあるが、市内には国府ゆかりの人ばかりが住んでいたわけではない。もっと古い時代から現代まで、たくさんの庶民が住んでいた。これは、そうした庶民の生活に密着した地名で、現在の東北歴史博物館の場所が「弥勒谷地」、その前の道を多賀城廃寺の方へのぼる坂道が「弥勒坂」といった。現在は高崎一丁目と変っている。
 弥勒とは、平安時代中期頃より、お釈迦さまの入滅後五十六憶七千万年後この世に下生(げしょう)し、人々を救済してくださる菩薩様。弥勒の世には病もなく、人々の心は豊かで言葉の違いもない理想の社会になっているとされている。現代にも是非現われて欲しい仏さまですが。その弥勒菩薩を信仰していたエリア、あるいは弥勒仏が祀られていたエリアにつく地名。
 弥勒信仰は近世になると、金華山信仰と結びついていったようで、宮城県内にはあちこちに金華山と書いた石碑がみられる。多賀城の弥勒周辺にも、そうした石碑がないかと探したがみつからなかった。
 しかし高崎地区には、金華山の一角に黄金が埋まっているという考えがあったことに関連する長者伝説の歌が伝わっている。それは「朝日さし夕日かがやくその下に、漆万杯黄金憶々」という朝日長者・夕日長者という採金者関連の歌だ。ちなみに朝日長者は炭焼藤太、夕日長者は金売吉次といわれる。
また、金華山信仰は弁財天を奉斎するが、ミロクという語呂から「巳待ち講」にもつながっていったようだ。六月中に巳の日が三度あると、巳と六を弥勒に重ねてミロクだと言って喜び、それを祈念して石碑を建てたりした。巳という語義には、元来陽気を盛んにし、陰気を籠もらせるという意味がり、蛇が殻を破って出てくる様を表現しているという。
 弥勒の世では、誰も働く事を知らないで、木の枝などに食物がいっぱい実り、自然に落ちるのを待って食べるなどと考えられていたようだ。正月の「水木だんご」などは、そうした希望を語っているかもしれないという。
 鎮守八幡神社の境内には、「金華山」の碑があり、新田南安楽寺に宝暦六年(1756)の「奉供養巳待之塔」がある。文書に残るのは役人や寺社のものがほとんどだが、庶民の生活や文化を探る手段の一つとして、地名や石碑のあることを確認させられる。

★ 探しています ★
 ある日古物店から「坪の碑考」―小塾庵主人―が書かれているぼろぼろに破れた「志保可満」を一部入手しました。第6号から第四十七号までのものですが、欠番や欠落のページ、欠損の部分があります。創刊日を想定される記事があり昭和4年6月5日頃と思われます。塩釜市民図書館、多賀城市立図書館、宮城県図書館、東北歴史博物館にも収蔵されていないので、新聞「志保可満」の存在は、あまり知られておりません。創刊号からの所蔵と保存の必要を感じています。
 新聞「志保可満」(しほかま)を保存所持されておられる方を探しています。お知らせを頂きたくお願い致します。是非閲覧させて下さい。
 昭和4年創刊・新聞「旬刊 志保可満」(しほかま)
 「坪の碑考」を連載 松島林下 小塾庵主人(舊稿)
   発行所 塩釜町字尾島八十一番地 塩釜叉新社
   発行兼編輯兼印刷人  木幡資昌
   毎月3回発行 5日 15日 25日

 連絡先 多賀城市鶴ヶ谷1―8―6
           多賀城市議会議員 吉田瑞生
        TEL 022―364―9279
        FAX 022―366―5928
        携帯 090―4553―921

いしぶみ15号(1)

    史都にとどめた菅江真澄の旅
      
                      宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
 
 三河の国(愛知県)で生まれた菅江真澄(本名臼井秀雄一七五四〜一八二九)は、三十歳のとき、長野へと旅たち、以後、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、四十八歳のとき秋田に入り、その後二十八年間を秋田で過ごし、七十六歳のとき角館(秋田県角館市)で没しました。その間『いなかのなかみち』『あきたのかりね』『おがのあきかぜ』など、自身の、見聞や体験、観察などを、日記や地誌、写生帳、随筆にまとめました。
真澄の著作は内容が豊富でさまざまな専門分野にも及び、また、近世の庶民生活の様子が、わかりやすく絵を添えて幅広く記されており、歴史や文化を知る上で数多くのヒントを私達に与えてくれています。真澄の生涯は一貫して観察者として姿勢が貫かれ、学び続ける者としての謙虚さを失わず、人生の大半を旅とその記録に費やしました。
真澄の旅は、一七八三年(天明三)飯田(長野県)で風越山(かぜこしやま)の桜を眺めるところから始まります。その時の記録『いなのなかみち』には、飯田より眺めた風越山を見て、
       風越(ふうえつ)の峰のうへにてみるときは
                  雲は麓のものにそありける
 
と詠んでいます。真澄は飯田から信濃を遮断して、日本海へ抜けますが、その間諏訪湖周辺の記録『すわのうみ』や姥捨(うばすて)山での月見の』記録『我がこころ』なども残しています。姥捨山は、長野県北部長野盆地の南西にある山で標高二五五メートル、段々に小さく区切った水田の一つ一つに映る月「田毎(たごと)の月」で著名です。更級(さらしな)に住む男が親代わりの姨(おば)(伯母)を養って住んでいましたが、妻は姨を山に捨てさせました。おりから明月に堪えられず、
   
         我が心慰めかねつ更級や
                姨捨山に照る月を見て
                           『古今和歌集』よみ人しらず

と口ずさみ翌朝姨を連れ帰ったという棄老伝説の地です。大和物語、今昔物語にその記載が見えます。
 一七八五年(天明五)みちのくの旅は、主に盛岡藩、仙台藩の旅が中心で、この三年間に西磐井郡山目(やまのめ)村(岩手県一関市)の大肝煎(おおきもいり)大槻清雄を訪ね逗留、東磐井郡大東町大原の芳賀慶明宅では『はしわのわかば』を記しました。七月宮城に入った真澄は、栗原の石の森から登米郡に入り北上川を渡っても桃生郡、石巻から小野を経て松島に入りました。雄島から美しい月夜の松島を眺めました。
 「夕より雄島にいかんと、霧けきあし原の道をかい分けて、渡月橋と名のりし橋ひとつわたりて、庵二つあるひとつには、そみかくだねんぶちをとなへ、かねをならしてをれり。かしこの板じきに居てむかへば、月は雲がくりて、のぼりたるとおもふに、島松のはさまよりあらはれたるは、えもいはんかたなし。
 
     見る人はいかにおしまのこよひかな
               たくひもくまもなみへの月
 
 瑞巌寺では、天台宗延福寺から臨済宗円福寺になった経緯、法身(ほっしん)と時の執権北条時頼の出会い伝説に想いを馳せながら、五大堂に足を運びました。
「ひんがしの面は、かたのうらとて、つるのあそびたるは、うたみたらんがことし、又浜路に出て、島々の見るやらるゝは、いとまばゆきてまで、目をおどろかしたり。」
 離れがたい想いを胸に観瀾亭に立ち寄り、そのあと小舟に乗って塩竈へ向かいました。いろいろな島の姿には感動を深めました。塩竈神社を参拝した後、多賀城に入り総社を訪ね市川村には入りました。
「市川村に至りて、壺碑はいづこといへば、菱うるらば、みちびきせり。“うけひのかは遠からめやはみちのくの、つぼのいしぶみ”などずかへしずしかへして、かくてつきぬれば、浮島邑のさかひに、ちまたの仏の御堂見たらんがごとに、かたらふきたるあつまやに、格子建てて鎖ざせり。その内をのぞけば。『去京一千五里(以下略)』。神亀のはじめは、聖武天皇のみくらいにつき給ふのとし也。大野東人は大野多賀麻呂の子なりけるゆへ、多賀の城なりけるか。又いふ、多賀城ありし処は、今は賀瀬といふところにして大野東人鎮守府将軍たりしとき、ちかつあふみの国、大上軍多賀のみやしろを、うつし祀りしゆへ、その名聞へしとも、天平宝字六年は、あはぢの廃帝の四とせにあたりけり。あさかりは、恵美押勝の五男にあたれり、この城の壺の中に建たる石ふみ也、鴻の名のありし処はいづ
こならん。
        いまも世につぼの石文見てそ思ふ
               かきもつくさてのこるいにしえ
 
 このほとりの小川を玉川といひき。玉川寺といふ寺の聞こえたればなり。南部にばがるゝは、いかゞあらん。岩といふところより山際に十符の菅ありと聞きて、尋ねたるに(以下省略)」
 この後仙台に向かいますが、真澄が多賀城を訪れてから二二〇年の歳月が経過をしています。


     多賀城をめぐる人々(1) 奈良時代
                        東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
 いうまでもなく、多賀城は陸奥国の国府の所在であったから、多賀城には歴史に名を留めている多くの人々が去来した。
 多賀城碑には724年に大野東人(おおのあずまびと)が多賀城を造営したこと、762年に藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が多賀城の修造(大改造の意味とする説が有力である)を行ったことが記されている。東人は壬申(じんしん)の乱(672年)で大友(おおとも)皇子がたの将軍として活躍した大野果安(はたやす)の子で、武人としての素質にも恵まれていたと考えられる。東人は長年にわたって東北地方に居り、多賀城を中心とする東北支配のネットワークを立案し、作り上げたようである。
 東人の役目を受け継いだのが、朝鮮半島の百済(くだら)国の王族の子孫である百済王(くだらのおう)である。彼は749年の陸奥国産金の当事者でもある。涌谷町の黄金山産金遺跡は敬福(きょうふく)ゆかりの遺跡でとして有名である。
 藤原朝獦(あさかり)は時の政界の最高実力者だった藤原仲麻呂(なかまろ)の子である。彼が東北とかかわりをもったきっかけは、都で反仲麻呂派によるクーデター計画が発覚し、陸奥国の官人のなかにも、その計画にかかわっていた人物がいるということで、その処分を行うために陸奥国に派遣されたことであった。しかし彼は、反仲麻呂派の人々を処分した後も陸奥国にとどまり、多賀城の大改造をはじめとして、桃生城と雄勝城の造営、鎮守府制度の確立などさまざまな改革を推進したのである。
 歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)も多賀城に赴任している。このころ、都では藤原氏が着々と全盛時代にむけての足がかりを築きつつあった。しかしそのような傾向を喜ばない人々もあり、さまざまな政争がくりひろげられた。大伴氏は反藤原氏的傾向がきわめて強く、朝廷の高官であった家持は、一方では大伴氏一族の長でもあり、微妙な立場に立たされていた。家持の陸奥国赴任の背景には、このような状況があったのである。
 多賀城を足がかりに、都に出て名をなした人物もいる。道嶋嶋足(みちしまのしまたり)は牡鹿(おしか)郡の長官一族の出身である。舎人((とねり)として都に出、さまざまな政争事件がくりひろげられるなかで巧に身を処し、武人として名をあげ、地方出身者としては破格の正四位上(しょうしいじょう)まで出世した。そして彼の同族の道嶋(みちしま)三山(みやま)、道嶋大楯(みちしまおおたて)、道嶋御楯(おたて)なども陸奥国において大いに勢いを振るうことができたのである。
 多賀城は朝廷側と蝦夷の世界との交流の窓口でもあり、この窓口を通って蝦夷の族長たちは、さまざまな形で朝廷側との関係を取り結んだ。780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の張本人である呰麻呂の伊治公という名の中に含まれている公(きみ)という称号は、朝廷側から与えられたものであった。また彼ははじめ蝦夷爵(えぞしゃく)の第二等、後には外従五位下(げにじゅごいげ)という位階(いかい)も持っている。はじめは朝廷側と友好的な関係を保持していた彼が後には反乱にふみきり、彼の仲間が多賀城を焼打ちするまでにいたる過程は、朝廷側と蝦夷がわとの複雑な関係の縮図といえるであろう。岩手県胆沢地方の蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)などと朝廷側との関係も、多分に呰麻呂と似かよった部分があるように思われる。
これからしばらくの間、これら多賀城ゆかりの人々を紹介しながら、奈良時代の多賀城に思いをはせてみることにしたい。

いしぶみ14号(2)

   多賀城の地名 「佐貫(さっかん)」
      
                  宮城県地名研究会会長 太宰幸子

 作貫地区は、多賀城政庁跡の管理事務所のある所から北に道なりに歩いて行くとまもなくの地で、道の右手の覆屋の中には、自然の地形を生かした空堀跡が露出展示されている。 
この地区からは、8世紀後半から10世紀にかけての建物跡が多数発見されている。中世の館があった時代もあり、さらに近世になると、塩釜神社の神官であった志賀屋敷もあったという地区だ。
 作貫という地名は、初めから「さっかん」と呼ばれたかどうか怪しい。江戸時代の伊達藩の記録、「安永風土記」には、「作貫(さくぬき)屋敷 弐軒」と記載されており、古くは「さくぬき」と呼ばれていたことがわかる。たぶんこれが「サッカン」以前の地名としての呼び方であったと思われる。
 「さく」は、「サコ=迫」などと同じで狭いエリアあるいは狭間をいうことが多いが、もっと旧い時代には、「サク」ではなく「サ」だけだったのではないか。そうであれば「サ」は接頭語ということになり、四国の「サヌキ」と同じ意味になる。
「ヌキ」は、抜けるということで、鉄砲水や土石流などが流れた地或いは地すべり(土地が抜けた)のあった地を言うことが多い。残念ながら作貫地区の地質を調べたことはないが、何時の時代かにあのエリアで地すべりがあったと思われる。地すべりは、表土の下の方が粘土質になっている土地に多くみられる。
同じく多賀城市内に「花貫=はなぬき」と言う地名があるが、これは、「ハナ」が顔の中の鼻と同じで、突き出た土地を意味し、「ヌキ」は同じく抜けたということになる。
 国内には「ヌキ」という地名がたくさんあり、大きく抜けた地の大貫(田尻町など)があり、小さく抜けた小貫や佐貫もあり、全国的に見られる。
 地名は、発音が解決の基本であり、それが漢字で表記されたことにより、読みが変ることが度々あり、作貫も同じ原理で、漢字の読み方で地名の呼び方が変わったことの例である。


   「史跡めぐり」雑感

                      浮島会館館長 大槻哲雄
 
 浮島地区の年間行事である「史跡めぐり歩け歩け大会」でありますが、区民の連帯と健康増進をはかりながら地域の歴史を理解するという考えで毎年コースを選定して実施をしております。
実施にあたっては、多賀城市史跡案内サークル会員の方々にも多大な協力をいただき同行をお願いして懇切な説明を頂きながら埋もれている歴史に耳を傾け、または新しい施設等に感嘆をしたり、真夏の汗を拭き拭きも楽しく充実した行事に多くの区民の方々より大変喜ばれております。
 市民ならどなたでもご存知のように壺の碑・多賀城碑には「去京一千五百里」云々とあります。果たしてこの数字がどの程度の日時を要するかは十分に把握されていたのでしょうか。現在だからこそ、京(現 奈良平城京跡)と多賀城を地図の上で認識して新幹線で六時間もすれば到着できる距離を昔はいかほどの思いで移動していたのでしょう。今、徒歩で京へ上ろうとしたら気が遠くなりそうです。
 歴史にも芸術にも疎い私にとってその意味するものが十分に理解出来ないのですが、町の塩釜の壱番町館一階に「源融大臣」の彫刻があります。塩釜高校卒業生で東京町田市在住の彫刻家佐藤充了氏の作品だそうです。「みなもとのとおるのおとど」と読み、八六四年とありますから、多賀城が創建されて一四○年位あとになるのでしょうか、今から千百四十年前の四三歳のとき、多賀城に「按察使」として下向された、と何かの書で読んだことがありました。この地にどれほどの期間居られたかはわかりませんが、のちに京都に帰着し現在の京都六条本覚寺辺りに居を構え、藻塩焼く塩釜に想いを馳せたとか、風流な面も伺われます。七四歳で生涯を終え、かつて大臣宮(おとどのみや)に祀られた左大臣「源 融」は、明治の合祀で「浮島神社」に合祀されたと聞いております。歴史はいろんな所に「道」を拓き、心を彷彿させるものだと感心しております。
 今年の行事も一人の落伍者もなく無事に終了できましたことにホッとしております。最後に史跡案内サークルの益々の発展をお祈り致しますとともに来年もまたよろしくお願い致します。

※毎回コースが楽しみです。今年も浮島地区の皆さんからいろいろと地元の情報をいただきました。


          もうひとつの船形山神社

                            会員 小澤 操

 多賀城市に語り伝えられている伝説に「色ノ御前」がある。
 昔、多賀城の八幡方面に大津波が押し寄せた時に、岩佐姫命という美貌の神様が社殿もろとも押し流されて南宮神社に漂着し居候の身となったという。岩佐姫命は年も若く見目うるわしく、闊達な振る舞いが近隣の目を引き「色ノ神様・色ノ御前」と呼ばれるようになった。ある夏の昼下がりに隣村にある山王神社の男神様が岩佐姫命に言い寄るのであったが、なぜか好みのタイプではなかった。隙をみて逃げだすと青々と茂る麻畑に身を潜めた。間もなくに追ってきた男神様に見破られてしまい、危うくのところを抜けだして身の丈ほどの里芋畑に駆け込んだのであるが芋の茎に足を滑らせ転んでしまった。その時お茶の木に目を突いて痛めてしまった。痛さをこらえながら一目散に走り逃れて、やっとの事で黒川郡吉田村の船形山神社に辿り着き、別当に事情を話したところ大木をくり貫いて作りかけていた臼の中にかくまってもらい、別当は何知らぬ顔をしてノミを叩いていたために難を逃れることができたという。・・・・・・・・・・・・・・・
 以来、南宮地区では麻と里芋そして茶畑はつくらないようになり、隣の山王地区の男衆は船形山神社に参詣すると災いが降りかかるととして参詣しない事になったという。

 岩佐姫命が宮城郡南宮村より黒川郡吉田村の船形山神社まで走り逃れたち伝えられるみちのりは、五十キロメートルは優に超え、いくつもの沢を渡り、曲がりくねった険隘な山道である。そこまで走り通して逃れたと伝説は超人間的な話としてまとめられている。
 「超」とか「怪」とかの話は「ざっとむかす」として語られそして聞かされたものであるが、今は語って聞かせてくれるお年寄りもいなくなり、活字としてしか伝えられない時代である。
 多賀城市新田地区は仙台市との行政界であるが七北田川をはさんでの対岸は、仙台市宮城野区岩切字余目・堰下・鴻巣北・鴻巣南・余目西・余目前などの地区である。
 鴻巣地区は、古墳時代中期頃より中世にいたるまでの遺構や建物跡などが数多く発見される所であり、北方系との交流がうかがわれる石器や土器が出土するなど、そして竪穴住居の集落が形成されていて有力な人物が居住していたことなども考えられる所として、仙台市教育委員会文化財課では継続して発掘調査を実施している地域である。
 現在の余目地区は、中世に留守氏の所領であった余部村・余目保また余戸郷などと記されてみえる所ではないかと日本歴史地名大系にみえる。そして安永風土記には岩切村端郷余目とある。余目という地名は他にもみることができるが、五十戸を単位に「村」とし残りを余目としたとも伝えられ、七北田川流域には前述のように古くより人々の営みが認められる所である。
 そして、ここ余目地区にも船形山神社が祭られているのである。(東北電力電柱札・余目枝線6南1)
 船形山神社は水の神様であり、実りをもたらす使者である。山の雪解け水が里に流れる五月、黒川郡の船形山神社の例祭には梵天の青竹を奪いあう喧嘩祭りが行われ、その青竹を持ち帰って田圃の水口に弊束とともにさしておくと病害虫が流入しないと信じられ今も祭りは賑わっている。
 七北田川流域に広がる豊饒の地に耕作を営む鴻巣や余目地区の人々が、この地に船形山神社の精を分霊祭ったとしても何ら不自然なことではないはずである。
 そして、ここ余目地区は南宮地区とは目と鼻の先、ひとっ飛びである。岩佐姫命は黒川郡の船形山神社ではなく、ここ余目の船形山神社に走り逃れて身を潜めた。
 異聞・もうひとつの船形山神社と色ノ御前である。

いしぶみ14号(1)

史都に刻んだ与謝野鉄幹と鮎貝槐園の想い出
      
                    宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 明治二六年の夏、鮎貝槐園(あゆかわかいえん)は与謝野鉄幹と共に、仙台、塩竈、松島の旅をし、想い出の記録を『松風島月』と題し日本新聞に発表しました。槐園は気仙沼出身の落合直文の実弟です。『松風島月』は、七月二一日から九月四日まで十九回にわたって連載されました。各所に文学的表現が散りばめられ、精神的にも高揚しているようすがうかがえます。

   あつさをば避けむ車のなかなかに都の夏を載せて行くらむ  鉄幹
 
 七月十五日上野を汽車に乗って旅立った二人は、古河、塩谷の松原、那須、白河を経て仙台に到着しました。仙台では広瀬川沿いの小高い場所にある名所南山閣を宿としました。南山閣からは仙台市内ばかりではなく、閖上、松島、石巻、金華山も身近に見えます。数日間ここに滞在し仙台の名所旧跡を見て回り、槐園と鉄幹は心ゆくまで歌のやりとりを楽しみました。(中略)二一日、二人は飄然と南山閣を後にしました。一蓑一笠はまるで西行にでもなったような気持ちで、箱馬車で塩竈に向かいました。十符の里の茶店に寄ると襖のやぶれをつくろって一枚の短冊が張ってありました。大変すすけていましたが、詠んでみると
   
    みちのくの十符のすがこも三符にねて七符はゆつる秋の夜の月

という歌でした。大変興を感じたので買い求めました。詠み人の名が書かれていないのが残念です。この里の続きに比丘尼阪、今市というところがありました。比丘尼阪で売っている甘酒は名物で、槐園は二椀を傾けました。豆と栗とはた米とを黒砂糖で固めたものです。これも名物だというので鉄幹一人で一袋を食べてしまいました。
宮城郡燕沢村には蒙古碑というものがありました。たけ六尺、幅三尺の石に文字が刻まれていますが難しくて読めません。弘安の役のとき、筑紫で死んだえみしを弔って、胡元の僧某が立てたものだそうです。古字をもちいているのでなかなか読めません。岩切村では途絶橋という名の場所がありました。古歌に、

    あやうしと見ゆるとだえの丸木橋まつほどかかるもの思ふらん

と詠まれたのがこの場所です。

 宮城郡市川村では天平宝治年間に建てたと伝えられる壺碑を見ました。碑の高さは六尺、その廻りは九尺六寸、仮屋を造って覆っています。鎮守府将軍藤原恵美朝臣の撰で筆勢古、字体寛雅です。これは見雲真人の書と伝えられています。
槐園と鉄幹の二人が八幡村に着いたのは午後四時ですが、ここで夕立に遭ってしまいました。とある寺で雨宿りをしました。寺の後には小高い岡があり、松がたくさん生い茂っています。しばらくして雨が晴れたので、槐園はその岡に登りました。大変見晴らしが良いから来てみろというので、鉄幹も登ってみました。松の間から見渡せば、海から一里半、波濤が天に接して、目に前に落ちてきます。本当に良い眺めなので、二人でしばらく見とれていました。しばし休息し、この寺を出発し、次の里に着くと、鋤を担いだ農夫に出会いました。「末の松山は何処ですか」と聞くと、すでにお前達は通り過ぎてきたというのです。「それは何という村ですか」と尋ねると、八幡村というところに宝国寺という寺があり、その後の岡は、松が大変多く、そこが末の松山の跡であると伝えられているという答えが返ってきました。先ほど二人が雨宿りした場所です。そんなことも知らないで、ただ漫然と見ていたかと思うと口惜しい限りです。戻ろうと槐園はいいますが、もう十町ばかりも通り過ぎて来ましたし、時間もないのに再び戻るのはどうしたものかと思案しながら、結局は戻らず歌をとどめました。
    
    立つ虹の末の松山浪ならで木ずゑをあらふ夕立の雨   槐園
 
    浪ならで末の松山こす雲に入日も白しゆふ立の雨    鉄幹
 
 野田の玉川は塩竈の南にあります。流れは狭く水は大変澄んでいます。ここでは日が暮れました。
槐園は、
    萩にくだくる夕月の影

と挑戦したので、鉄幹はとりあえず、
   
    千鳥なく野田の玉川浪こえて

と上の句を返し、さらに、
   
    月もそこゆく野田の玉川

と詠じると、しばらくして槐園は、
   
    夕されば清き流れの涼しさに

と上の句を付けました。夜に入って塩釜に到着、勝画楼を宿としました。家々の燈火が水に点滅しています。糸竹(楽器の総称)の音が、波の音とともに高く聞こえます。二人は勝画楼を拠点に塩竈、松島の名所旧跡を見て回り、歌を交わしながら楽しい旅の想い出を『松風島月』に刻みました。


   多賀城をめぐる人々(2) 大野 東人
              
                   東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
多賀城外郭南門を入ったところにある多賀城碑には七二四(神亀元)年に大野朝臣東人(おおのあそんあづまひと)が多賀城を造営したこと、七六二(天平宝字六)年に藤原恵美朝臣朝獦(あさかり)が多賀城の修造(大改造の意味とする説が有力である)を行ったことが記されている。
大野は氏(うじ)の名、東人はもちろん個人の名前であるが、その間にはさまれている朝臣は姓(かばね)のひとつである。姓はそれぞれの氏の家格をあらわす称号である。大野氏の姓は古くは君(きみ)であったが、六八四(天武(てんむ)天皇一三)年に、それまでは臣(おみ)および君の姓だった、あわせて五十二の氏の姓が朝臣と改められたものである。平安時代の初めに成立した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という多くの氏の由来がまとめてある本によれば、大野氏は群馬県地方ゆかりの毛野(けの)氏から分かれたものだという。
毛野氏は大和朝廷の時代から蝦夷との戦いにも深くかかわる武の家柄であった。大野東人の父は六七二年に勃発した壬申(じんしん)の乱の時の大友皇子方の将として知られる大野果安(はたやす)で、果安(はたやす)も武人の血が流れていたのである。壬申の乱は天智天皇の弟の大海人(おおあまの)皇子と天智天皇の子息である大友皇子が皇位を争った事件である。天智天皇の時代の都は、近江(滋賀県)の大津にあり、大津を拠点とした大友皇子の陣を大海人皇子側が攻撃したのであるが、古都飛鳥をめぐる攻防戦も行なわれた。果安(はたやす)は大友皇子がわの将軍として、近江と飛鳥を結ぶ要衝である奈良山の戦いで、大海人皇子がわの将軍大伴吹負(ふけい)を破り、ために一時は大海人皇子がわは苦戦を強いられることになった。事件は結局、大海人皇子がわの勝利に終り、皇子は即位して天武天皇となる。しかし果安は敗者のがわの将軍であるにもかかわらず、罪を免れて天武天皇にも仕え、直広肆(じきこうし従五位下にあたる)・糺職大夫(後の弾正台(だんじょうだい)の長官)にいたっている。武人の才能ゆえであろう。
東人が東北地方に登場する七二四年にはかなり大規模な蝦夷の反乱があり、陸奥大掾(だいじょう国司の三等官)であった佐伯児屋麻呂(さえきのこやまろ)が殺されるという事態になった。そのため、藤原宇合(うまかい藤原不比等ふひとの三子)が持節大将軍に任命されて陸奥の蝦夷と戦い、小野牛飼(うしかい)が鎮狄(ちんてき)将軍に任ぜられて出羽方面の蝦夷と戦っている。そして東人もこの年の蝦夷との戦いで重要な役割を果たしているが、彼はおそらくは七二四元年以前にすでに陸奥守(かみ)、兼按察使(あぜち出羽国の国務も監督できる)に任命されて東北地方の最高責任者となっていたようである。多賀城を造営して仙台市郡山遺跡から多賀城に陸奥国府を移したのも東人が行なったことのひとつであった。東人が手がけたこととしては、ほかに宮城県中部の大崎平野やその周辺に色麻柵(しかまのさく)、新田柵、牡鹿柵など複数の城柵を造営し、これらの城柵を中心施設とする多くの郡を置いたこと、それまで山形県庄内地方にあった出羽柵を七三三(天平五)年に秋田市内に移したこと、七三七(天平九)年には秋田県を縦断して秋田の出羽柵の付近で日本海にそそぐ雄物川の中・上流地方にも城柵を築き、そこに郡を建てることを目的とした大作戦を展開したことなどがあげられる。ただしこの作戦は完全には成功しなかった。
 こうして大野東人は10数年の長きにわたって東北地方にかかわり続け、後までの政府の対蝦夷政策の基本を定めたのである。そして東人は七三九(天平一一)年には参議(さんぎ)となって都に戻り、その翌年には九州で勃発した藤原広嗣(ひろつぐ)の乱では持節(じせつ)大将軍として乱の平定に尽力し、七四一(天平一三)年には従三位に昇進したが、その翌年に亡くなっている。東人の子孫には東北と関わりを持った人物や都の内外で武人として活躍した者が多く出ている。

いしぶみ13号(2)

育英秀光中等教育学校
     「多賀城史跡めぐり壁新聞」から

 去る4月5日、毎年恒例行事となっている育英秀光中等学校の生徒64名と一緒に「多賀城史跡めぐり」で汗を流した。毎年、楽しみに拝見しているのが生徒たちで作成する壁新聞。史跡に触れた生徒たちの新鮮な感動が私たちを感激させてくれる。5班のグループに分かれ、それぞれに趣向を凝らした記事は私たちサークルのガイドのポイントを十分理解した内容でわかりやすくまとめられていた。今回は各壁新聞から「史跡めぐり」の感動を紹介します。
「多賀城碑とは?」
 多賀城碑は歌枕で「つぼの碑」とも呼ばれていて天平宝事6年(七六二年)12月1日に作られた。この多賀城碑は縦一九六センチ横九二センチ厚さ七〇センチもあり、平成十年には国の重要文化財に指定されるなど、かなり重要なものであり貴重なものである。多賀城碑はいろいろな歴史的資料の一つである。きっとこれからも重要な文化財として厚く保護され歴史を語りつぐうえで重要な手がかりとなっていくだろう。だからこそ僕たちは、このような重要な文化財を大切にしていく事が大切だと思う。
「多賀城Q&A」
Q 多賀城はお城なの?
A お城ではなく陸奥の国府があった所でした。
Q 今野家住宅には、どんな人が住んでいたの?
A 村の村長さんのような仕事をしていた人です。
Q 「政庁」ってなに?
A 今の国会議事堂のような所で、まつり所として、いろいろな儀式が行われていた所。
Q 今野家住宅にトイレが2つあるのはなぜ?
A 向かって左側が当主用で右側が家族用でした。
Q 高崎廃寺にはどのくらいのお坊さんがいたの?
A 約30人くらいが、僧坊という寄宿舎で生活していました。
「多賀城の歴史」
 大和朝廷が影響を強めていき(八世紀頃)全国を統
一したいと考えました。その時、東山道のエミシが大
和朝廷の言うことを聞かず、対立相手となりました。
多賀城は陸奥の国府。
大和は陸奥に自分達貴族を送りこみ東山道を配下にお
こうとした。しかし・・・・・。
東山道のエミシたち
 東山道には自分達の地を守るエミシがいました。え
みしたちは、リーダーアテルイを先頭に無理に支配し
ようとする大和朝廷と戦いました。
「編集後記」から
★今回の多賀城史跡巡りは、今まで知らなかった史
や多賀城が日本の中でもすごい所だということを知り
ました。
★今回の多賀城史跡めぐりでは、私達の学校のある町
について学ぶことができ、大変うれしく、またとても
勉強になった。班員全員でメモを取り合い、この新聞
を作り上げる事ができた。このチームワークを忘れず
に、これからの生活に生かしていきたいと思っている。


シンポジウム「みちのくの金と鉄」に参加して
                会員 熊谷 恵一
 去る十一月二三日松島町で行われた宮城県地名研究会設立十周念記念シンポジウムに参加した。
 基調講演の谷川健一氏の「金属地名の重要性」については簡潔でわかりやすく地名の重要さを再認識した。各地に残る地名こそ弥生時代からの人々の暮らしの記憶を伝えて来たものであること、地名、氏族名、神社、伝承この4つを組み合わせて古代を解明。
記紀に登場する神々、特に鍛冶の神々は古代の製鉄に深く関わっている。一番注目したのが涌谷の金について。黄金山から産出した金だけでは大仏ができなかった。献上された金九百両の内百二十両が、宇佐八幡に差し出していり。辻善之助の著書の第一巻には百済王敬福を疑っている。黄金山の金は大仏開眼に必要な量は1/8しかなかった。残りは事前に交渉があったのか閏三月に新羅から七〇〇人の大使節団が来日している。この使節団から相当の量の金を買ったと、下張の文書に書いていたという。
 また、太宰幸子氏の製鉄・鍛冶に関わる地名と神については大変参考になった。金沢・金堀・金山は鉱山・製鉄との関わる地名で金田・金屋・金谷など古い時代、カネとは金に限ることなく鉄銅などのすべての金属をカネとあらわすことがあったという。クサという地名も鍛冶に関わる草木沢・草井など岩手県一関市舞草(もくさ)は日本刀発祥の地、舞草刀は日本刀の原点といわれいる。多賀城に大日向(おおひなた)という地名がある。日向はヒナタ・ヒムキなどと読むが、一般的には日当たりの良いと解釈されているが、日(ヒ)は鉱脈を表すので鉱脈のあるところ、製鉄の行われた所という。大日向は各地にある。
 全体的に初心者でも十分理解できるシンポジウムであったと思う。残念だったのは質問者のなかに講師に対し不愉快な思いをさせた言動・態度があったことだ。やはり事前に質問をとるような配慮が主催者側にあってもよかったのではと思った。


  追 悼
          多賀城碑案内居士・本田忠雄さん

今から五年前になるが、多賀城市の「広報・たがじょう」平成十一年五月号(三三〇号)に本田忠雄さんを紹介する記事を書いたことがある。
 「人・ひとインタビュー」というコーナーだ。
その一節を紹介しよう。「昨日は清明。いよいよ本田さんの活動しやすい季節が来た。梅が咲き、桜の蕾が膨らみ、吹く風も幾分春めいて来た。朝九時、愛用の黄色のユニホームと帽子、デイバッグを背負い、今日も自転車で出かける。本田さんの日課の始まりだ。本田さんは七年前から、ボランティアで多賀城の史跡案内をしている。(略)晴れの日はもちろん、少々の雨や雪でも荒天でない限り、毎日のように自転車で出かける。それも場所は決まっている。昨年六月、国の重要文化財に指定された『多賀城碑』だ。一年のほとんどを碑の案内に費やしている。重要文化財指定後は、特に力を入れている。昨年、一年間で約四千人を案内したという。(略)碑が好きだね。碑を案内していて倒れる。迷惑をかけるが仮にここで死んでも本望です」。大正十二年七月生まれ。趣味は読書と剣道・柔道・相撲と武道が得意。しかも、酒、タバコを好まず、食べ物に好き嫌いなし(略)」。
 しかし、そんな本田さんも病気には勝てなかった。最初に倒れたのがインタビューの直後の多賀城碑。しかし、不屈の精神で再起した。が、元通りの体にはならなかった。昨年暮れ、偶然入院していた病院で出会ったのが本田さんの最後の姿になってしまった。「人・ひとインタビュー」でのタイトルが「ここで死んでも本望です」。多賀城碑と共に散りたいと願った本田さん。残念ではあるがまさにそのようになった。平成十六年五月十七日、午前十時五十分永眠。享年八十一歳。
献句してご冥福を祈りたい。合掌。

夏めいていしぶみ忠雄の奥津城に 熊谷山里 


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