過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

いしぶみ16号(2)

文化財を活かしたまちづくりについて(前編)
              
                      多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
一 多賀城の文化財

 多賀城市の中央北部の丘陵上に陸奥国府・鎮守府の遺跡である多賀城跡が所在する。この古代多賀城跡の正門である多賀城南門の傍に建つ多賀城碑が、国の重要文化財に指定された。時節柄長雨が続いた梅雨空から初夏の日差しが差し込んだ、平成十年六月三十日のことである。およそ一世紀にわたって偽作の汚名を着せられ、歴史資料として正当な扱いをされて来なかった多賀城碑がついに“真碑 ”と評価された瞬間である。
 奈良時代前半の神亀元年(七二四)、古代律令政府が東北支配の中枢施設として設置した「多賀城」を市名由来とする多賀城市にとって、この多賀城碑はまさに名実ともに由来を記す記念物となったのである。
 多賀城市は、全国的にも早くから文化財の保存整備事業に着手してきた。その主たる遺跡は、特別史跡多賀城跡附寺跡である。特別史跡以外の文化財についてみると、市指定文化財が5件(古碑3、名勝2)、未指定の埋蔵文化財包蔵地は、三十六遺跡で面積は約四百三十万平方メートル、特別史跡の指定面積を含めると、何と市域の約二十六%が文化財の包蔵地域となっている。

二 特別史跡の保存整備

 昭和四十一年に多賀城跡附寺跡が特別史跡に指定され、それを契機として多賀城廃寺跡の環境整備事業が多賀城町(当時)によって三ヵ年事業で実施された。
そして、昭和四十四年度からは、特別史跡の保存事業を宮城県と多賀城市が分担して行って来ている。県は、発掘調査と環境整備を、市は土地の公有化と維持管理業務を担当している。これまでの環境整備によって、政庁跡や東門跡、大畑・作貫地区の官衙跡、南辺や北辺築地周辺等の地域が史跡公園として活用されている。さらに、市は特別史跡の積極的な活用方策として、平成二年度から多賀城跡立体復元整備事業に着手した。
 この事業は、現地に古代多賀城の建物を復元することを目指すもので、将来市のシンボルとなる実物建造物を望む市民のニーズも高く、五年にわたる様々な調査検討を経て「多賀城跡建物復元工事実施設計書」を作成した。しかし、現在まで復元工事の着手には至っておらず、今は周辺整備を行うなど条件整備に努めているところである。

三 遺跡の保存と活用

 多賀城市は、昭和五十四年度から市単独で発掘調査に乗り込んだ。その第一の遺跡が「館前遺跡」である。調査の結果、国司館跡とみられる古代の建物跡六棟が発見され、宅地造成工事を中止して急遽約一万平方メートルの土地を買収したのである。その後、多賀城跡の南面地域にあたる市川橋遺跡の保存区域拡大、古代製鉄遺跡が発見された柏木遺跡、全国で初めて確認された山王遺跡の国守館跡などが相次いで特別史跡に追加指定され、保存措置が講じられた。市内各所に所在するこれらの文化遺産をどのように活用していくか、新たな課題が生じてきた。  
(次号へつづく)


    「とんぼ玉を作ろう」
                     〜東北歴史博物館体験教室から〜
 
 三種の神器にあるように「玉」は古代人にとって大切なもの、透明で美しい輝きを持つガラスの玉は、ヒスイや水晶と並び当時の人々にとってあこがれの的であり、なかでも「とんぼ玉」は何種類かの色ガラスを細工して文様を作り出した特別な玉で非常に珍しく大切にされたものと考えられます。今ではとんぼ玉といえば小穴の空いたガラス製の玉をすぐ思い浮かべますが、とんぼの由来は江戸時代の中期頃からでとんぼの複眼に似ていることから「とんぼ玉」と呼ばれるようになったとか。とんぼ玉(漢字名 : 蜻蛉玉)の名称は日本のみであって外国では「グラスビーズ」と呼ばれ、古代メソポタミアやエジプトでは、既に紀元前十八世紀の製法を記した秘伝書が作られたというからかなり歴史は古い。世界各地で出土されるとんぼ玉にはその時代、地域によってガラスに含まれる成分の違いや製造方法の違いにより多くの種類のとんぼ玉があり奥の深いものであることがわかります。とんぼ玉の出土例は国内でも86遺跡(東北5遺跡)、宮城県内では3遺跡から11点発見されています。涌谷町追戸横穴墓郡、石越町山根前横穴墓郡、中田町白地横穴郡の7世紀〜8世紀にかけて造られた横穴墓から出土しています。去る2月13日(日)3回目となった「とんぼ玉教室」は石越町山根前横穴墓郡出土のとんぼ玉の復元をテーマに古代人の技に23名の参加者が挑戦しました。
 毎回定数を超える応募のある体験教室で、牧富美子先生の指導のもと、皆さん真剣そのもの。タイミングが非常に難しく、不慣れな人も周りの協力で見事に完成。炎の加減、両手でガラス棒をまわしながらの作業は見ていてハラハラ。世界で1点しかないとんぼ玉は参加者にとっても宝物となることでしょう。(M)


      和菓子屋雑感(2)
                              佐貝 道夫 

❘塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話❘
昭和十年以前、福島市から三時間以上かけて、塩釜に海産物を仕入れに来ていた祖母は、旧塩釜港駅前(現在のJR仙石線本塩釜駅前)のゑびや旅館によく泊まっていたようです。さらに祖母は取引先であった多賀城市中央の「星治」さんの先々代に、後に私の母となる娘の仲人をお願いした縁で、塩竈の佐貝家に嫁ぐことになるのです。私を妊った母は初産ということもあり、福島の実家で私を生みました。聞いた話によると、福島では初孫外孫ということで殊の外可愛がられたようです。幼い頃の記憶でも何かにつけ、母の実家に行っていたことが思い出されます。
 祖父が魚屋の店を開いていたことから、外に遊びに出る度おやつ代わりに五種類ほどの煮干しや、ホッキ貝の乾物をポケットの突っ込み交互に食べていた記憶があります。なぜかその時の味は鮮明に覚えています。
 祖父の思い出は、日中から酒を飲んでいたのを思い出します。しかも、炉淵でガラスの大徳利に日本酒を入れ直火で燗をするのです。私がそこに行こうものなら酒臭い顔を近づけて来るのです。それがいやで逃げ回った記憶があります。祖父にすれば、頬ずりという愛情表現をしたかったのでしょう。
 そういう祖父も少年時代は相当のガキ大将だったようです。後に店を継ぐことになる母の弟が、お得意様から聞いた話しによると、近所の子ども達全員に新撰組の半纏らしき物を着せ、お墓で遊んでいたそうです。いつも酒臭かった祖父。それを子ども心にも「気持ちが悪いなあ、嫌いだなあ」と思っていました。しかし、隔世遺伝なのか私にもそんな祖父に似たところがあります。私の少年時代はというと、我が家で菓子職人をしていた板橋さんのお父さんは映写技師でした。そんなことから、板橋さんに連れられて映画をよく見に行きました。しかも、当時市内にあった「大映」「松竹」「東映」の映画館はどこもフリーパスでした。よく見た映画は時代劇です。中でも好きだった俳優は順に板東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、市川歌右エ門でした。映画から帰ると早速、近所の子ども達を集め、映画遊びをしていました。場所は本町のお釜神社境内です。子ども達にそれぞれ配役を決め、覚えてきたセリフと演技を教えるのです。もちろん私はメガホンを持つ監督です。
 以上のように祖父譲りの一堂に会した人達との共有制、共通性とか統一性を求める心は、その頃の血が騒ぐのか、受け継いだ福島の祖父の血がそうさせるのか分かりませんが、宴席になると司会というメガホンを心に持ってしまうのです。三・四十人くらいで親睦会的な宴席を持つと、殆どの宴席は隣りの人と話をしたり、数人のグループに分かれてしまっているのです。これでは百人集まっても隣りの人だけとの親睦会になってしまいます。一堂に会した一人ひとりの考えを全員で聞く、自分の考えを語る、それが大切ではないかと常々思っています。それがつい、私が幹事の場合は総合司会をしてしまいます。
 話題を塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話に移しましょう。少年時代、福島の魚屋では上客と呼ばれた人は、刺身というとタイやヒラメ、スズキなどの白身魚でした。中の客は赤身魚でした。マグロ、カツオなどです。しかし、最近、塩釜ブランドであったマグロも、青森の大間ブランドになってしまいました。さみしい限りです。
 さて、戦前、大衆魚としても見向きもされず、肥料になったり捨てられていたアンコウ。しかし、今や高級魚です。アン肝はフォアグラより美味だと思います。  
 また、イワシも美味です。イワシのうまさをマグロに例えると天然マグロです。対してサンマは養殖マグロといったところでしょうか。さらに魚の蘊蓄を続けましょう。ホッケは一般的な縞ホッケより真ホッケを(北海道を旅行しておいしかったホッケは真ホッケです。)。ドンコはいつも食べているドンコ汁より、煮魚で食べて見てください。新しい発見があるはずです。マダラの精巣・キクも美味です。さっと湯通してポン酢で食べる。これまで珍味中の珍味と思っていたアワビの肝を凌ぐのではと思っています。姿・形の悪いものほど味に奥があるのです。
今は昔の大衆魚が高級品に変貌して大出世する時代です。現代の大出世頭の「楽天」「ライブドア」。これらの三十年後はどうなっているのでしょうか。世の中は、すべて循環する働きがあるものだと感じます。
                     (塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)

〜読者からのおたより〜
 『和菓子雑感』を拝読して、私の「重い筆」をどうしても取らざるを得ない衝撃を覚えました。荒廃した高層の谷間にあって、まさに金塊を拾った心地がしました。世はまさにグルメ時代、売り込み宣伝の時代、大型店舗の地方進出を許容する行政etc・・・。その激流の最中にあってセセラギの如くヒタスラに『和』の伝統を流し給う。ありがたきことかな。
  梅の花!風雪にたえてなおつよく!!
(市内在住 五十嵐さん)             

いしぶみ16号(1)

       史都にとどめた吉田松陰の想い出
      
                        宮城県図書館 館長 伊達 宗弘

 長門国萩(山口県萩市)生まれの幕末の思想家吉田松陰(一八三〇〜五九)は、国家大計の指針を見つけだすため真冬の東北を旅し『東北遊日記』という旅の記録を残しました。二二歳の松蔭は「東北地方は東は満州に連なり、北はロシアに隣接する。国を治めるのには最も重要なところであるが、自分は一歩も足を踏み入れたことがない。この機会を逃せば後に悔いを残すことになるだろう」という憂国の思いを胸に秘め必死の覚悟で東北を旅したのです。一八五一年(嘉永四)一二月江戸を発った松蔭は、白河から東北に入り会津若松、新潟、佐渡、庄内、本庄、久保田を経由して、日本海を碇(いかり)ヶ関(青森県)に出て弘前、小泊(こどまり)へ至り、三月三厩(みんまや)へ到着。帰りは奥羽街道を盛岡、石巻、松島、塩竃、多賀城、仙台、会津に入って江戸に戻っています。現地を見聞して幕府に北方問題の進言をするため、厳寒の東北を徒歩で巡った旅日記です。松蔭は江戸で佐久間象山に洋学を学び、常に海外事情に意を用いました。一八五四年(安政一)米艦渡来の際、下田で密航を企てて投獄、のちに萩の松下村塾で子弟を薫陶しますが、安政の大獄に座し江戸で刑死しました。
 一八五二年(嘉永五)三月五日松蔭は小泊から算用師(さんようし)峠を超えて竜飛岬を訪ね、海峡を航行する外国船を見て、北方防備の必要性を痛感、一詩にそれを託しました。

「去年の今日巴城(萩城・ゆうじょう)を発し、楊柳(ようりゅう)風緩やかに馬蹄(ばてい)軽し。今年北地更に雪を踏み、寒沢(さむさわ)卅里路行き難し。行き尽す山河万の夷険、滄溟(そうめい)に臨みて長鯨(ちょうげい)を叱せんと欲す。時平かにして男児空しく慷慨(こうがい)す 誰れか追はん飛翔(ひしょう)青史の名。
 海浜に出づ、これを三厩(みんまや)と為す。俗に伝ふ、義経松前に騎渡するにここよりとする。戸数百許り、湾港は舟を泊すべし。松前侯の江戸に朝(ちょう)するにも、舟に乗りてここに到る。今別(いまべつ)を経(ふ)。戸数湾港、また三厩と相類す。大泊を経て上月に宿す、戸数僅かに一七、八のみ。行程八里。小泊・三厩の間、海面に斗出するものを竜飛崎(たっぴさき)と為す、松前の白神鼻(しらかみのはな)と相距ること三里のみ。しかれども夷舶憧々(どうどう)として其の間を往来す。これを口側(とうそく)に他人の酣睡(かんすい)を溶(ゆる)すものに比(くら)ぶれば更に甚だしと為す。いやしくも志気ある者は誰れか之れが為めに切歯せざらんや」。
 
 三月一二日盛岡を出発した松蔭は、石取を経て花巻、黒沢尻、鬼柳、水沢、平泉、一関、登米、柳津、飯野川、石巻にいたりました。石巻では日和山から周囲を眺望しました。また、一関から石巻にいたるまで田野は肥沃にして道縦横に走っていると記しています。
 三月一七日に矢本に到着しました。広大に広がる原野は土質も良く、開墾すれば美田になるだろうという印象を記しています。鳴瀬町小野を通って舟で鳴瀬川を渡り、近道を通って富山へ登りました。「富山に登る。山上に寺あり。松島を望みて一に遺すなし。秋天のときは、富士山を末の位に見る。故になづくという」と記しています。高城では良い杉山を近くの海では塩田を見て松島から舟で塩竈に向かいました。塩竈で一泊しますが、夜は雨が降ってきました。
 一八日は、朝は小雨でしたが次第に晴れわたってきました。まず陸奥の国一宮塩竈神社を参拝、明応六年に鋳造したと伝えられる古い鐘を見、仙台藩主が献上したという神馬を見ました。藩主が在国中は祭事の時には必ず訪れるという神社です。仙台領においては、売春が固く禁じられていますが、塩竈・石巻は船舶の往来するところなので、許されているなどの話を聞きながら、午後二時頃、多賀城市川にいたりここで多賀城碑を見て、次の詩を作りました。
 多賀城古址(こし)古碣(こけつ)を尋ね、
 蝦夷(えぞ)靺鞨(まつかつ)字なお新たなり。
 憶(おも)う昔朝廷遠図を壮(さかん)にし、
 胡(えびす)を呑むの気象百蕃を懾(おそ)れしむ。
 千余年後往時を問えば、
 空しく男児をして涙巾(きん)を沾(うるお)さし
 む。
 
 感慨にひたりながら今町(仙台市内今市)・燕沢を通り過ぎ弘安五年建てたと伝えられる碑文を観ました。怪奇な文字で読むことができません。伝えによれば、鎌倉円覚寺の開山元(無学祖元)が蒙古戦没者のためにこれを建立したといわれています。敵国の戦死者を祀ることをはばかったのでしょうか。そんな想いを胸に仙台では養賢堂で塾生らと時事を論じ、江戸への道を急いだのです。松蔭が安政の大獄で刑死するのは多賀城を訪れた七年後、二九歳の時です。



 多賀城をめぐる人々(4)   百済王敬福
             
                        東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
 奈良時代の半ば頃の陸奥国の地方長官(陸奥守)に、百済王敬福(くだらおうきょうふく、王の字はコニキシとも読まれていた)という貴族がいた。藤原・大伴(おおとも)などの姓とくらべると、大変にかわった姓であるが、これは彼の祖先が古代朝鮮三国のひとつ、百済(くだら)国の王族であったことに由来する。
 大和朝廷の時代、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済の三国が並び立っており、激しく対立していた。しかし百済は六六〇年に、高句麗は六六八年に、中国の唐と新羅の連合軍の攻撃をうけて滅亡した。
大和朝廷は古くからとくに百済と友好関係にあったため、百済が滅亡すると救援軍を朝鮮半島に派遣して百済の再興をはかった。しかし六六三年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗し、百済国の人々が多く日本に亡命し、百済義慈王(ぎじおう)の子の善光(ぜんこう)は百済王の姓を与えられて、朝廷の貴族の一員に加えられた。敬福は善光の曾孫である。
 敬福は多賀城を創建した大野東人のもとで次官(陸奥介)をつとめた経歴を有し、大野東人の後をうけて奈良時代中期には、朝廷の東北地方支配の責任者をつとめた。この時期に都では、東大寺の造営工事が進行中であったが、大仏に塗金するための金(きん)の不足が問題となっていた。敬福は七四九(天平二一)年に、陸奥国小田郡から金が産出したとして黄金九〇〇両を献じたのである。
 聖武(しょうむ)天皇は大変に喜んで光明皇后、皇太子(阿倍内親王)以下を伴ない、東大寺大仏に詣でてこのことを報告し、年号も天平から天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改めるなど、国家的な慶事として大々的に祝われたのである。
 金を産出した小田郡とは涌谷町周辺のことで、涌谷町黄金山神社境内には、金の産出を記念する仏堂が建てられた。これが現在の国指定史跡「黄金山産金遺跡」の由来である。遺跡からは「天平」の文字が刻された瓦や宝珠も発見されており、仏堂の屋根を飾っていた軒瓦は、多賀城のものと同じ系統の重弁蓮華文(じゅうべんれんげもん)軒丸瓦と偏行唐草文(へんこうからくさもん)軒平瓦で、この堂が国家的なものであったことを具体的に示している。神社の側を流れる小川からは、現在も砂金を採取できる。
 この時越中国(富山県)に地方長官として赴任していた大伴家持(おおとものやかもち)は任地で「陸奥国より金を出(いだ)せる詔書を賀せる歌」(長歌一首と反歌三首)(『万葉集』)を作った。「すめろぎの、御代(みよ)栄えんと東(あづま)なる、みちのく山に黄金(こがね)花咲く」はそのなかの一首で、黄金山神社境内の歌碑には、古代文学の研究で知られた山田孝雄(よしお)氏の筆によるこの歌が刻まれている。またこの地が黄金初出の地であることを論じた大槻文彦氏の「日本黄金始出地碑」も境内に存する。
 敬福はこの功績により、従五位下から八階級特進して従三位に昇進し、高級貴族の仲間入りを果たした。また敬福の子孫や同族からは奈良時代末の鎮守将軍、百済王俊哲、坂上田村麻呂配下の征夷副将軍百済王教雲、平安時代初期の鎮守将軍百済王教俊など、陸奥国と深くかかわった人物が輩出した。
多賀城をめぐる人々のなかでは、百済王敬福も見落とすことができない人物のひとりなのである。

いしぶみ15号(2)

和菓子屋雑感 
                           佐貝 道夫 

 私は一介の菓子屋ですが、菓子づくり四十八年間の経験から、食に関する事で皆様のお役に立つことが少しでも有れば幸いです。和菓子の一年は「うぐいす餅」と「桜餅」と「花びら餅」から始まります。日本料理と同じように、季節感を大事にし、女性の着物の柄や床の間の掛け軸と同様で、本物より一足早い出番です。したがって、うぐいすが鳴き、桜が咲く時期には「柏餅」の季節となっています。「花びら餅」は、裏千家の初釜に用いられるもので、早くて正月三が日か松の内には姿を消しますが、近年茶事以外のお客様からのご要望により、一月末あたりまで作ります。形状は抽象的に男性と女性を表現し、子孫繁栄を願った縁起菓子で、皮は牛皮餅、中身は赤い餅とみそ餡と長い牛蒡で飾ります。
 本来、お菓子の名称は形だけではなく、皮の硬さと砂糖の量、餡の硬さと砂糖の量で決まります。[うぐいす餅」の餡は柔らかめで、「桜餅」の餡はやや硬め、「柏餅」の餡はこちこちの硬めにつくります。
 又、和菓子の原形である「草餅」や、「大福餅」の皮は砂糖がまったく入らないか、入っても餅米か餅粉に対して砂糖の量が三割から五割以内が本当の製品の味です。したがって、お昼過ぎないし夕方には硬くなりますので、硬くなるものを硬くならないうちに食べるのが本当の味で、炊きたてのご飯の味のようです。炊きたてのご飯を保温してお昼と夕方と翌日では、味がだいぶ変わるのはご承知のとおりです。お寿司の場合でもカウンターで握ってもらってすぐ食べるのと、桶に入ってからのと、出前の味では味がはっきり違います。シャリがほんのりと温かいと、さらに美味しいようです。お寿司を翌日に食べて良かった人は皆無であるはずです。
 しかし、和菓子の世界は最近、スーパー等の大量生産、大量販売、流通(納品・陳列・お客様の食する時間)方式により、すべての餅菓子は前述の牛皮餅(求肥ともいう)を使います。牛皮餅は餅米か餅粉100に対して砂糖の量が100から250入りますから、十日以上過ぎても硬くならないものも有ります。餅粉の値段に対して砂糖の値段は、五分の一以下ですから原価も安くつきます。餅菓子といっても、餅より砂糖の量が多いのですから餅菓子といえるのでしょうか。これには、最近の味の風潮もありまして、柔らかくソフト感があり、いつまでも硬くならないものが良しとされ、本物が不良品の時代になってしまいました。本物でないものがはびこっているのに反して、本物を見定める「なんでも鑑定団」の人気が上がっているのも皮肉な現象です。「いい仕事してますね」の名文句がコマーシャルにも使われていました。
 さて、平成十五年夏の朝日新聞誌上に、わかぎゑふ(劇団主宰)さんが「本物失う安物ゲーム」の時評で、最近はみんなが安物を利用するというより、安さに負けて買続け本当にいいものが分からなくなってしまっているような、の文を載せていました。
 さて、人の購買意欲をかき立てるものは、ブランド名、広告宣伝で名前を知っているもの、お客様の商品に対するイメージ、口コミ、スーパーやデパートや駅で売ってるからであったりするのが普通ですが、売り手に踊らされるグルメ人でなく、冷静な自分の頭と舌で確認して真の目利きの訓練を積み、本人の本人による本人のためになる、新しい無印食品を発見して頂く消費者が増えると、本物の製品が増え安くなり数々の擬装商品が少なくなると思います。
 大正生まれで、昭和四十八年に亡くなった母は、京都へのみやげに朝一番の電車で石巻へ買い物に出かけました。ご馳走とは、駆け回ると書きますが、ご馳走をつくるだけでなく、おみやげにも当てはまるのでしょうか。現在はどこでも買えて非常に便利ですが、一般的に千円のものが四百円から七百円での卸しという商品もあります。塩釜には有名な日本酒があります。 勿論他の酒と比較しても上位の味だと思いますが、それと較べてあまり名が通っていなくても同等か、旨い酒もあります。人はすでに味の評価の定まったものに対しては、頑冥に固持し新しいものを取り入れない保守的な癖があるようです。
        (塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)



「金の鶏」

 今年は酉年。そこで昭和十二年二月五日、宮城県教育会から発行された三塚源五郎著「多賀城六百年史」から「金の鶏」を紹介します。
          ■
 本村笠神の本郷家は二十數代も續いた近在にならびなき舊家で且つ分限者であった。維新頃までは大肝入と云ふ一寸郡長のやうな格式の家であった。元は八幡の本郷原に居ったさうであるが何時の頃現在の地に移轉されたか昔貞觀頃から度々大津波に襲はれたといふ記禄も殘つてゐる、多分其の津波の爲に轉住したものと思はれる。
昔本郷家の先祖某氏が所用あって毎日のやうに蒲生に通った。或夜方八町の道を通ったら時でもないのに土の中からコケッコウと鶏の鳴く聲が聞えた、合點の行かぬことゝ思ったので其場所に標として杖を立てゝ家に歸った。翌日多勢の若者をつれて其處に行って掘らせてみたら金の鶏が現れた、花咲老翁が大判小判を掘ったやうに喜んで家に持ち歸って石の唐戸に入れて大事にして藏って居った。是から本郷家」がめきゝ身代がよくなって近所近在ならびなき富裕者(物持)になったさうである。そして此の金の鶏は舊正月の元旦にだけ鳴いたとの事である。本郷家では代がはり毎に出して拜んで家督に譲った。所がその後何時の間にかにか見えなくなった。地方では利府の方に飛んでいった。それから本郷家も家政が振はなくなつたと言ひ傳へてゐる。(原文のまま掲載しました。)
          ■
 旧笠神村に伝わる「金の鶏」の物語です。これは昭和五年から十五年まで山王小学校に校長として勤務した三塚源五郎氏が集めた資料を「多賀城六百年史」として全百二十六ページにまとめたものです。
 「多賀城六百年史」に書かれていることはその後、「多賀城町史」や「多賀城市史」へと受け継がれていくのです。         (「いしぶみ」編集部)




    多賀城の地名「 弥勒  みろく 」     
                        宮城県地名研究会会長 太宰幸子

 多賀城市内には国府関係の遺跡がたくさんあるが、市内には国府ゆかりの人ばかりが住んでいたわけではない。もっと古い時代から現代まで、たくさんの庶民が住んでいた。これは、そうした庶民の生活に密着した地名で、現在の東北歴史博物館の場所が「弥勒谷地」、その前の道を多賀城廃寺の方へのぼる坂道が「弥勒坂」といった。現在は高崎一丁目と変っている。
 弥勒とは、平安時代中期頃より、お釈迦さまの入滅後五十六憶七千万年後この世に下生(げしょう)し、人々を救済してくださる菩薩様。弥勒の世には病もなく、人々の心は豊かで言葉の違いもない理想の社会になっているとされている。現代にも是非現われて欲しい仏さまですが。その弥勒菩薩を信仰していたエリア、あるいは弥勒仏が祀られていたエリアにつく地名。
 弥勒信仰は近世になると、金華山信仰と結びついていったようで、宮城県内にはあちこちに金華山と書いた石碑がみられる。多賀城の弥勒周辺にも、そうした石碑がないかと探したがみつからなかった。
 しかし高崎地区には、金華山の一角に黄金が埋まっているという考えがあったことに関連する長者伝説の歌が伝わっている。それは「朝日さし夕日かがやくその下に、漆万杯黄金憶々」という朝日長者・夕日長者という採金者関連の歌だ。ちなみに朝日長者は炭焼藤太、夕日長者は金売吉次といわれる。
また、金華山信仰は弁財天を奉斎するが、ミロクという語呂から「巳待ち講」にもつながっていったようだ。六月中に巳の日が三度あると、巳と六を弥勒に重ねてミロクだと言って喜び、それを祈念して石碑を建てたりした。巳という語義には、元来陽気を盛んにし、陰気を籠もらせるという意味がり、蛇が殻を破って出てくる様を表現しているという。
 弥勒の世では、誰も働く事を知らないで、木の枝などに食物がいっぱい実り、自然に落ちるのを待って食べるなどと考えられていたようだ。正月の「水木だんご」などは、そうした希望を語っているかもしれないという。
 鎮守八幡神社の境内には、「金華山」の碑があり、新田南安楽寺に宝暦六年(1756)の「奉供養巳待之塔」がある。文書に残るのは役人や寺社のものがほとんどだが、庶民の生活や文化を探る手段の一つとして、地名や石碑のあることを確認させられる。

★ 探しています ★
 ある日古物店から「坪の碑考」―小塾庵主人―が書かれているぼろぼろに破れた「志保可満」を一部入手しました。第6号から第四十七号までのものですが、欠番や欠落のページ、欠損の部分があります。創刊日を想定される記事があり昭和4年6月5日頃と思われます。塩釜市民図書館、多賀城市立図書館、宮城県図書館、東北歴史博物館にも収蔵されていないので、新聞「志保可満」の存在は、あまり知られておりません。創刊号からの所蔵と保存の必要を感じています。
 新聞「志保可満」(しほかま)を保存所持されておられる方を探しています。お知らせを頂きたくお願い致します。是非閲覧させて下さい。
 昭和4年創刊・新聞「旬刊 志保可満」(しほかま)
 「坪の碑考」を連載 松島林下 小塾庵主人(舊稿)
   発行所 塩釜町字尾島八十一番地 塩釜叉新社
   発行兼編輯兼印刷人  木幡資昌
   毎月3回発行 5日 15日 25日

 連絡先 多賀城市鶴ヶ谷1―8―6
           多賀城市議会議員 吉田瑞生
        TEL 022―364―9279
        FAX 022―366―5928
        携帯 090―4553―921

いしぶみ15号(1)

    史都にとどめた菅江真澄の旅
      
                      宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
 
 三河の国(愛知県)で生まれた菅江真澄(本名臼井秀雄一七五四〜一八二九)は、三十歳のとき、長野へと旅たち、以後、新潟、山形、秋田、青森、岩手、宮城、北海道を巡り、四十八歳のとき秋田に入り、その後二十八年間を秋田で過ごし、七十六歳のとき角館(秋田県角館市)で没しました。その間『いなかのなかみち』『あきたのかりね』『おがのあきかぜ』など、自身の、見聞や体験、観察などを、日記や地誌、写生帳、随筆にまとめました。
真澄の著作は内容が豊富でさまざまな専門分野にも及び、また、近世の庶民生活の様子が、わかりやすく絵を添えて幅広く記されており、歴史や文化を知る上で数多くのヒントを私達に与えてくれています。真澄の生涯は一貫して観察者として姿勢が貫かれ、学び続ける者としての謙虚さを失わず、人生の大半を旅とその記録に費やしました。
真澄の旅は、一七八三年(天明三)飯田(長野県)で風越山(かぜこしやま)の桜を眺めるところから始まります。その時の記録『いなのなかみち』には、飯田より眺めた風越山を見て、
       風越(ふうえつ)の峰のうへにてみるときは
                  雲は麓のものにそありける
 
と詠んでいます。真澄は飯田から信濃を遮断して、日本海へ抜けますが、その間諏訪湖周辺の記録『すわのうみ』や姥捨(うばすて)山での月見の』記録『我がこころ』なども残しています。姥捨山は、長野県北部長野盆地の南西にある山で標高二五五メートル、段々に小さく区切った水田の一つ一つに映る月「田毎(たごと)の月」で著名です。更級(さらしな)に住む男が親代わりの姨(おば)(伯母)を養って住んでいましたが、妻は姨を山に捨てさせました。おりから明月に堪えられず、
   
         我が心慰めかねつ更級や
                姨捨山に照る月を見て
                           『古今和歌集』よみ人しらず

と口ずさみ翌朝姨を連れ帰ったという棄老伝説の地です。大和物語、今昔物語にその記載が見えます。
 一七八五年(天明五)みちのくの旅は、主に盛岡藩、仙台藩の旅が中心で、この三年間に西磐井郡山目(やまのめ)村(岩手県一関市)の大肝煎(おおきもいり)大槻清雄を訪ね逗留、東磐井郡大東町大原の芳賀慶明宅では『はしわのわかば』を記しました。七月宮城に入った真澄は、栗原の石の森から登米郡に入り北上川を渡っても桃生郡、石巻から小野を経て松島に入りました。雄島から美しい月夜の松島を眺めました。
 「夕より雄島にいかんと、霧けきあし原の道をかい分けて、渡月橋と名のりし橋ひとつわたりて、庵二つあるひとつには、そみかくだねんぶちをとなへ、かねをならしてをれり。かしこの板じきに居てむかへば、月は雲がくりて、のぼりたるとおもふに、島松のはさまよりあらはれたるは、えもいはんかたなし。
 
     見る人はいかにおしまのこよひかな
               たくひもくまもなみへの月
 
 瑞巌寺では、天台宗延福寺から臨済宗円福寺になった経緯、法身(ほっしん)と時の執権北条時頼の出会い伝説に想いを馳せながら、五大堂に足を運びました。
「ひんがしの面は、かたのうらとて、つるのあそびたるは、うたみたらんがことし、又浜路に出て、島々の見るやらるゝは、いとまばゆきてまで、目をおどろかしたり。」
 離れがたい想いを胸に観瀾亭に立ち寄り、そのあと小舟に乗って塩竈へ向かいました。いろいろな島の姿には感動を深めました。塩竈神社を参拝した後、多賀城に入り総社を訪ね市川村には入りました。
「市川村に至りて、壺碑はいづこといへば、菱うるらば、みちびきせり。“うけひのかは遠からめやはみちのくの、つぼのいしぶみ”などずかへしずしかへして、かくてつきぬれば、浮島邑のさかひに、ちまたの仏の御堂見たらんがごとに、かたらふきたるあつまやに、格子建てて鎖ざせり。その内をのぞけば。『去京一千五里(以下略)』。神亀のはじめは、聖武天皇のみくらいにつき給ふのとし也。大野東人は大野多賀麻呂の子なりけるゆへ、多賀の城なりけるか。又いふ、多賀城ありし処は、今は賀瀬といふところにして大野東人鎮守府将軍たりしとき、ちかつあふみの国、大上軍多賀のみやしろを、うつし祀りしゆへ、その名聞へしとも、天平宝字六年は、あはぢの廃帝の四とせにあたりけり。あさかりは、恵美押勝の五男にあたれり、この城の壺の中に建たる石ふみ也、鴻の名のありし処はいづ
こならん。
        いまも世につぼの石文見てそ思ふ
               かきもつくさてのこるいにしえ
 
 このほとりの小川を玉川といひき。玉川寺といふ寺の聞こえたればなり。南部にばがるゝは、いかゞあらん。岩といふところより山際に十符の菅ありと聞きて、尋ねたるに(以下省略)」
 この後仙台に向かいますが、真澄が多賀城を訪れてから二二〇年の歳月が経過をしています。


     多賀城をめぐる人々(1) 奈良時代
                        東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹
 
 いうまでもなく、多賀城は陸奥国の国府の所在であったから、多賀城には歴史に名を留めている多くの人々が去来した。
 多賀城碑には724年に大野東人(おおのあずまびと)が多賀城を造営したこと、762年に藤原朝獦(ふじわらのあさかり)が多賀城の修造(大改造の意味とする説が有力である)を行ったことが記されている。東人は壬申(じんしん)の乱(672年)で大友(おおとも)皇子がたの将軍として活躍した大野果安(はたやす)の子で、武人としての素質にも恵まれていたと考えられる。東人は長年にわたって東北地方に居り、多賀城を中心とする東北支配のネットワークを立案し、作り上げたようである。
 東人の役目を受け継いだのが、朝鮮半島の百済(くだら)国の王族の子孫である百済王(くだらのおう)である。彼は749年の陸奥国産金の当事者でもある。涌谷町の黄金山産金遺跡は敬福(きょうふく)ゆかりの遺跡でとして有名である。
 藤原朝獦(あさかり)は時の政界の最高実力者だった藤原仲麻呂(なかまろ)の子である。彼が東北とかかわりをもったきっかけは、都で反仲麻呂派によるクーデター計画が発覚し、陸奥国の官人のなかにも、その計画にかかわっていた人物がいるということで、その処分を行うために陸奥国に派遣されたことであった。しかし彼は、反仲麻呂派の人々を処分した後も陸奥国にとどまり、多賀城の大改造をはじめとして、桃生城と雄勝城の造営、鎮守府制度の確立などさまざまな改革を推進したのである。
 歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)も多賀城に赴任している。このころ、都では藤原氏が着々と全盛時代にむけての足がかりを築きつつあった。しかしそのような傾向を喜ばない人々もあり、さまざまな政争がくりひろげられた。大伴氏は反藤原氏的傾向がきわめて強く、朝廷の高官であった家持は、一方では大伴氏一族の長でもあり、微妙な立場に立たされていた。家持の陸奥国赴任の背景には、このような状況があったのである。
 多賀城を足がかりに、都に出て名をなした人物もいる。道嶋嶋足(みちしまのしまたり)は牡鹿(おしか)郡の長官一族の出身である。舎人((とねり)として都に出、さまざまな政争事件がくりひろげられるなかで巧に身を処し、武人として名をあげ、地方出身者としては破格の正四位上(しょうしいじょう)まで出世した。そして彼の同族の道嶋(みちしま)三山(みやま)、道嶋大楯(みちしまおおたて)、道嶋御楯(おたて)なども陸奥国において大いに勢いを振るうことができたのである。
 多賀城は朝廷側と蝦夷の世界との交流の窓口でもあり、この窓口を通って蝦夷の族長たちは、さまざまな形で朝廷側との関係を取り結んだ。780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱の張本人である呰麻呂の伊治公という名の中に含まれている公(きみ)という称号は、朝廷側から与えられたものであった。また彼ははじめ蝦夷爵(えぞしゃく)の第二等、後には外従五位下(げにじゅごいげ)という位階(いかい)も持っている。はじめは朝廷側と友好的な関係を保持していた彼が後には反乱にふみきり、彼の仲間が多賀城を焼打ちするまでにいたる過程は、朝廷側と蝦夷がわとの複雑な関係の縮図といえるであろう。岩手県胆沢地方の蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)などと朝廷側との関係も、多分に呰麻呂と似かよった部分があるように思われる。
これからしばらくの間、これら多賀城ゆかりの人々を紹介しながら、奈良時代の多賀城に思いをはせてみることにしたい。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事