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文化財を活かしたまちづくりについて(前編)
多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
一 多賀城の文化財
多賀城市の中央北部の丘陵上に陸奥国府・鎮守府の遺跡である多賀城跡が所在する。この古代多賀城跡の正門である多賀城南門の傍に建つ多賀城碑が、国の重要文化財に指定された。時節柄長雨が続いた梅雨空から初夏の日差しが差し込んだ、平成十年六月三十日のことである。およそ一世紀にわたって偽作の汚名を着せられ、歴史資料として正当な扱いをされて来なかった多賀城碑がついに“真碑 ”と評価された瞬間である。
奈良時代前半の神亀元年(七二四)、古代律令政府が東北支配の中枢施設として設置した「多賀城」を市名由来とする多賀城市にとって、この多賀城碑はまさに名実ともに由来を記す記念物となったのである。
多賀城市は、全国的にも早くから文化財の保存整備事業に着手してきた。その主たる遺跡は、特別史跡多賀城跡附寺跡である。特別史跡以外の文化財についてみると、市指定文化財が5件(古碑3、名勝2)、未指定の埋蔵文化財包蔵地は、三十六遺跡で面積は約四百三十万平方メートル、特別史跡の指定面積を含めると、何と市域の約二十六%が文化財の包蔵地域となっている。
二 特別史跡の保存整備
昭和四十一年に多賀城跡附寺跡が特別史跡に指定され、それを契機として多賀城廃寺跡の環境整備事業が多賀城町(当時)によって三ヵ年事業で実施された。
そして、昭和四十四年度からは、特別史跡の保存事業を宮城県と多賀城市が分担して行って来ている。県は、発掘調査と環境整備を、市は土地の公有化と維持管理業務を担当している。これまでの環境整備によって、政庁跡や東門跡、大畑・作貫地区の官衙跡、南辺や北辺築地周辺等の地域が史跡公園として活用されている。さらに、市は特別史跡の積極的な活用方策として、平成二年度から多賀城跡立体復元整備事業に着手した。
この事業は、現地に古代多賀城の建物を復元することを目指すもので、将来市のシンボルとなる実物建造物を望む市民のニーズも高く、五年にわたる様々な調査検討を経て「多賀城跡建物復元工事実施設計書」を作成した。しかし、現在まで復元工事の着手には至っておらず、今は周辺整備を行うなど条件整備に努めているところである。
三 遺跡の保存と活用
多賀城市は、昭和五十四年度から市単独で発掘調査に乗り込んだ。その第一の遺跡が「館前遺跡」である。調査の結果、国司館跡とみられる古代の建物跡六棟が発見され、宅地造成工事を中止して急遽約一万平方メートルの土地を買収したのである。その後、多賀城跡の南面地域にあたる市川橋遺跡の保存区域拡大、古代製鉄遺跡が発見された柏木遺跡、全国で初めて確認された山王遺跡の国守館跡などが相次いで特別史跡に追加指定され、保存措置が講じられた。市内各所に所在するこれらの文化遺産をどのように活用していくか、新たな課題が生じてきた。
(次号へつづく)
「とんぼ玉を作ろう」
〜東北歴史博物館体験教室から〜
三種の神器にあるように「玉」は古代人にとって大切なもの、透明で美しい輝きを持つガラスの玉は、ヒスイや水晶と並び当時の人々にとってあこがれの的であり、なかでも「とんぼ玉」は何種類かの色ガラスを細工して文様を作り出した特別な玉で非常に珍しく大切にされたものと考えられます。今ではとんぼ玉といえば小穴の空いたガラス製の玉をすぐ思い浮かべますが、とんぼの由来は江戸時代の中期頃からでとんぼの複眼に似ていることから「とんぼ玉」と呼ばれるようになったとか。とんぼ玉(漢字名 : 蜻蛉玉)の名称は日本のみであって外国では「グラスビーズ」と呼ばれ、古代メソポタミアやエジプトでは、既に紀元前十八世紀の製法を記した秘伝書が作られたというからかなり歴史は古い。世界各地で出土されるとんぼ玉にはその時代、地域によってガラスに含まれる成分の違いや製造方法の違いにより多くの種類のとんぼ玉があり奥の深いものであることがわかります。とんぼ玉の出土例は国内でも86遺跡(東北5遺跡)、宮城県内では3遺跡から11点発見されています。涌谷町追戸横穴墓郡、石越町山根前横穴墓郡、中田町白地横穴郡の7世紀〜8世紀にかけて造られた横穴墓から出土しています。去る2月13日(日)3回目となった「とんぼ玉教室」は石越町山根前横穴墓郡出土のとんぼ玉の復元をテーマに古代人の技に23名の参加者が挑戦しました。
毎回定数を超える応募のある体験教室で、牧富美子先生の指導のもと、皆さん真剣そのもの。タイミングが非常に難しく、不慣れな人も周りの協力で見事に完成。炎の加減、両手でガラス棒をまわしながらの作業は見ていてハラハラ。世界で1点しかないとんぼ玉は参加者にとっても宝物となることでしょう。(M)
和菓子屋雑感(2)
佐貝 道夫
❘塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話❘
昭和十年以前、福島市から三時間以上かけて、塩釜に海産物を仕入れに来ていた祖母は、旧塩釜港駅前(現在のJR仙石線本塩釜駅前)のゑびや旅館によく泊まっていたようです。さらに祖母は取引先であった多賀城市中央の「星治」さんの先々代に、後に私の母となる娘の仲人をお願いした縁で、塩竈の佐貝家に嫁ぐことになるのです。私を妊った母は初産ということもあり、福島の実家で私を生みました。聞いた話によると、福島では初孫外孫ということで殊の外可愛がられたようです。幼い頃の記憶でも何かにつけ、母の実家に行っていたことが思い出されます。
祖父が魚屋の店を開いていたことから、外に遊びに出る度おやつ代わりに五種類ほどの煮干しや、ホッキ貝の乾物をポケットの突っ込み交互に食べていた記憶があります。なぜかその時の味は鮮明に覚えています。
祖父の思い出は、日中から酒を飲んでいたのを思い出します。しかも、炉淵でガラスの大徳利に日本酒を入れ直火で燗をするのです。私がそこに行こうものなら酒臭い顔を近づけて来るのです。それがいやで逃げ回った記憶があります。祖父にすれば、頬ずりという愛情表現をしたかったのでしょう。
そういう祖父も少年時代は相当のガキ大将だったようです。後に店を継ぐことになる母の弟が、お得意様から聞いた話しによると、近所の子ども達全員に新撰組の半纏らしき物を着せ、お墓で遊んでいたそうです。いつも酒臭かった祖父。それを子ども心にも「気持ちが悪いなあ、嫌いだなあ」と思っていました。しかし、隔世遺伝なのか私にもそんな祖父に似たところがあります。私の少年時代はというと、我が家で菓子職人をしていた板橋さんのお父さんは映写技師でした。そんなことから、板橋さんに連れられて映画をよく見に行きました。しかも、当時市内にあった「大映」「松竹」「東映」の映画館はどこもフリーパスでした。よく見た映画は時代劇です。中でも好きだった俳優は順に板東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、市川歌右エ門でした。映画から帰ると早速、近所の子ども達を集め、映画遊びをしていました。場所は本町のお釜神社境内です。子ども達にそれぞれ配役を決め、覚えてきたセリフと演技を教えるのです。もちろん私はメガホンを持つ監督です。
以上のように祖父譲りの一堂に会した人達との共有制、共通性とか統一性を求める心は、その頃の血が騒ぐのか、受け継いだ福島の祖父の血がそうさせるのか分かりませんが、宴席になると司会というメガホンを心に持ってしまうのです。三・四十人くらいで親睦会的な宴席を持つと、殆どの宴席は隣りの人と話をしたり、数人のグループに分かれてしまっているのです。これでは百人集まっても隣りの人だけとの親睦会になってしまいます。一堂に会した一人ひとりの考えを全員で聞く、自分の考えを語る、それが大切ではないかと常々思っています。それがつい、私が幹事の場合は総合司会をしてしまいます。
話題を塩釜漁港の全盛時代と大衆魚が高級になった話に移しましょう。少年時代、福島の魚屋では上客と呼ばれた人は、刺身というとタイやヒラメ、スズキなどの白身魚でした。中の客は赤身魚でした。マグロ、カツオなどです。しかし、最近、塩釜ブランドであったマグロも、青森の大間ブランドになってしまいました。さみしい限りです。
さて、戦前、大衆魚としても見向きもされず、肥料になったり捨てられていたアンコウ。しかし、今や高級魚です。アン肝はフォアグラより美味だと思います。
また、イワシも美味です。イワシのうまさをマグロに例えると天然マグロです。対してサンマは養殖マグロといったところでしょうか。さらに魚の蘊蓄を続けましょう。ホッケは一般的な縞ホッケより真ホッケを(北海道を旅行しておいしかったホッケは真ホッケです。)。ドンコはいつも食べているドンコ汁より、煮魚で食べて見てください。新しい発見があるはずです。マダラの精巣・キクも美味です。さっと湯通してポン酢で食べる。これまで珍味中の珍味と思っていたアワビの肝を凌ぐのではと思っています。姿・形の悪いものほど味に奥があるのです。
今は昔の大衆魚が高級品に変貌して大出世する時代です。現代の大出世頭の「楽天」「ライブドア」。これらの三十年後はどうなっているのでしょうか。世の中は、すべて循環する働きがあるものだと感じます。
(塩竈・奥のほそ道「梅花堂」社長)
〜読者からのおたより〜
『和菓子雑感』を拝読して、私の「重い筆」をどうしても取らざるを得ない衝撃を覚えました。荒廃した高層の谷間にあって、まさに金塊を拾った心地がしました。世はまさにグルメ時代、売り込み宣伝の時代、大型店舗の地方進出を許容する行政etc・・・。その激流の最中にあってセセラギの如くヒタスラに『和』の伝統を流し給う。ありがたきことかな。
梅の花!風雪にたえてなおつよく!!
(市内在住 五十嵐さん)
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