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いしぶみ17号(2)

    文化財を活かしたまちづくりについて(後篇)
  
                      多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
 
          四 遺跡と都市計画  |共生の思想|

(一) 現状保存から整備活用へ

 従来、史跡等の管理事業は管理団体である市町村が土地の公有化を行い、「現状保存」を前提とした管理を行ってきた。しかし、当市では指定地域の拡大、周辺地域の社会的環境の変化等の状況から特別史跡の積極的な整備活用策の必要性が生じてきたため、昭和六十年度から三ヵ年計画で特別史跡の将来像を明らかにし、発掘調査・研究、整備、公有化、管理事業の諸事業がスムーズに行われるよう総合的な事業計画の方針と、それを推進するための関連整備計画との調整に係わる方針を定めた「特別史跡多賀城跡附寺跡第二次保存管理計画書」を作成した。

(二) まちづくり計画への提言
         |管理活用計画書の策定|

 史跡等文化財の保存整備事業は、平成時代とともに大きな転機を迎えた。その最大の要因は、立体復元事業の実施である。それと期を同じくして当市でも平成2年度から多賀城跡の立体復元事業に着手し、この事業が第三次多賀城市総合計画の将来都市像実現のための重点プロジェクトの一つに位置づけられたのである。
 そして、復元工事の実施設計書を作成した翌年の平成7年度から多賀城跡の立体復元整備事業を前提として、特別史跡を取り巻く周辺都市整備事業と共同して積極的な管理活用を行うための具体的な方針、都市公園整備事業との一体的な整備、広域的な活用視点、さらに総体的な運営を盛り込んだ「特別史跡多賀城跡建物復元等管理活用計画書」(以下、「管理活用計画書」という)を作成した。
 この管理活用計画書は、文化財のみならず「史都多賀城」として多賀城市の位置づけを踏まえた上で、その周辺都市計画事業まで含めた管理活用計画とし、当市のまちづくり計画の一環として盛り込もうとしたものである。したがって、計画策定に当たっては、専門分野の研究者等からなる検討委員会の設置は勿論のこと、庁内の関係部局の職員で構成するワーキング会議を組織して、横断的な連携と調整を図りながら検討を行ったものである。

 (三)計画の方針  |共生の思想|

 歴史的文化遺産である特別史跡などの文化財は、それを取り巻く社会環境を鑑みると、それ自体「単体」で存在するのではなく、その周りには「環境」があり、人々の「営為」があることがわかる。よって、多賀城市の将来を考ええたとき「文化財」「良好な自然環境」「都市生活」はいづれも欠くことができない重要な要素となる。それぞれが重複して、連携して機能することが望ましい関係と考えられる。
 そこで、未来を方向づけるキーコンセプトとしてこの三つの「共生」が有効と考えたのである。

 (四)管理活用計画のまちづくりと具体的成果

 文化財サイドで提案したこの管理活用計画の対象領域は、特別史跡を中心として北の加瀬沼公園、西の遊水池域、南の中央公園と城南土地区画整理事業地域、そして東の中央公園と多賀城廃寺跡指定地域に及ぶ市の中央北部に当たる広い地域である。しかしながら、計画の概念的には、領域にとらわれず広域的な生態系の環境リングとして、周辺市町村を含んだ人間の社会環境の総合的なネットワークをも目指したまちづくりを提案している。対象領域内の具体的な方針としては、都市環境による段階的な空間を結ぶ軸線として歴史復元の核となる「大路」を位置づけた。さらに、段階的空間を地域ごとに土地利用方針を定め、動線計画、施設計画、管理活用の方針と手法についても提案している。
 この管理活用計画で議論し、計画書にまとめられた内容は、その後に作成された緑の基本計画(平成十年)、多賀城市観光基本構想・基本計画(平成十年)多賀城市環境基本計画(平成十三年)等の他部局の計画書にも活かされている。
 最後に、管理活用計画書の成果事例を紹介したい。
【城南土地区画整理事業|南北大路の復元と大路に架けられた橋の平面表示】|多賀城の城外に造られた街並み(古代都市多賀城)の痕跡を現代の都市計画に再現する。|
 多賀城跡の周辺地域の発掘調査で、多賀城政庁から真南に延びる古代の道路は、正門である南門を貫いて城外に大路が造られていることがわかった。この南北大路と東西大路を基準として一町四方の方格地割が行われた街が造られていた。南北大路の中軸線上に計画されている市の中央公園と民間施行の土地区画整理事業地内に、古代の都市計画の基準となる「南北大路」が復元されることになった。これは、まさに管理活用計画書の中に謳われている『大路による歴史の復元と都市軸の創生』である。
 管理活用計画対象地域内には、文化財と都市計画が共存しており、これらの強調、融合を図りながら『共生』していくことが、本市のまちづくりの核となる|
文化財を活かしたまちづくり|へと繋がっていくものと確信するものである。       (おわり)


   多賀城の地名

                       宮城県地名研究会会長  太宰 幸子

           地名が伝えていること(一)

 多賀城市内の地形は、長い歴史の間にどんどん変化を遂げており、特に近年の住宅化に伴う変化は目を見張るばかりである。たとえば稲荷殿というかつて稲荷社のあった地には、稲荷古墳があったが、すでに住宅の下になっている。しかもそこの住所は決して稲荷某とは地名表記されておらず、高崎○○丁目に変えられている。
このような住居表示や地名の変更は決して多賀城市内だけではないが、特にこうした住宅地化され開発されている地には、地名が知らせている本来の意味はすっかり消されてしまっている。
 多賀城の地名の特徴としてあげられるのが、湿地や川・海の入り込んでいたことを語る地名が多いことがある。原谷地・中谷地・東谷地中・西谷地中・上向谷地・一本谷地・仏谷地・戸仮谷地・山王谷地・下谷地際・北谷地などの地名は、かつて湿地や沼などが広がっていたことを語っている。したがって新田開発の際にはいち早く水田に変えられていった。
 小深田という地名が高橋地区にあったが、すでに町名変更されてしまっていて現在は消えている。深田そのものは、ふどる(ぬかる)ような湿地や泥田をいい、田植えの際には田下駄を使用した時代もあった。門間田も開発にかかわった人名が頭についているが、やはりひどくぬかる地で、膝上ほどまでぬかり田植えには大変苦労したと語ってくれた方がおられた。沼田という地名は、田がついているが田んぼの意味ではなく、△△のある所といういみで、沼のある場所という。現在沼の姿は埋め立てや干拓などにより消えているが、かつては沼がそこに存在したことを語っている。
 その反面これら湿地や自然堤防の周辺は、人間の生活の場としてはとても恵まれていたこともあって、早くから人が住みはじめ、山王地区からは古代の水田跡が見つかっている。 この山王地区には東町浦、西町浦の地名があるが、浦とは水際を示す地名で、加美町中新田地区などでは裏と表記されていたりするが、かつてはそこまで海または川や沼の水が入り込んでいた地だったことを語っている。
 また同じように海の入り込んでいたことを語る地名もあり、八幡地区には塩留・塩入・塩窪などの地名がある。
 しかしこれら湿田や泥田も現在の排水技術や暗渠設備、農業技術の進化にともないかつての苦労はほとんどが解消され、街化されている所も多くなっている。
                  (つづく)


 多賀城に勤務した兵士が平常時には修理・造作活動を行っていたことを示すものです。また平城京、平安京など都に所在する馬の訓練や競技を行う「馬庭」が地方においても存在することが確認できました。
施設の修理・造営を行う「修理所」が設置されていたことは文献資料でしか知ることができなかったが、今回出土品として初めて確認することができました。また両面には欠損していますが兵士たちの名前が登場します。是非、この機会に全国でも貴重な出土品をご覧ください。

いしぶみ17号(1)

          史都に刻んだ丸山可澄の『奥羽道記』
      
                         宮城県図書館 館長 伊達 宗弘
  
 一六八八年(元禄一)みちのくを訪れ、多賀城碑を見た松尾芭蕉は、『奥の細道』にその時の感動を、次のように記しました
 「つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔(こけ)を穿(うがち)ちて文字かすかなり。四維国界(しゅいこくかい)の数里をしるす。この城、神亀(じんき)元年、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝村東人(あそんあずまびと)の所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使(とうさんせつどし)、同じく将軍恵美朝臣朝獦(えみのあそんあさかり)修造而。十二月朔日と有り。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみおける歌枕、おおく語り伝えといえども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかわれば、時移り、代変(よへん)じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかり也」と記しています。
 松尾芭蕉が多賀城を訪れてから三年を経た一六九一年(元禄四)水戸藩主徳川光圀の家臣円山可澄(よしみず・かちょうとも)が、多賀城を訪れました。当時、光圀は『大日本史』を編纂するため各地の資料を収集しており、「奥の細道」を通して、苔むしている多賀城碑についてもそのおかれている状態に思いを馳せたのでしょう。可澄が訪れる前年、光圀は仙台領内にある多賀城碑が「文字もこけむしたることを知り、貴重な碑がこのままではと、仙台四代藩主綱村に書簡を送りました。
 光圀はこの書簡の中で、「下野那須湯津上(しもつけなすゆづかみ)にある那須国造碑(こくぞうのひ)にふれ、近年石碑を修復し、その上に小亭を建て、側に小庵を構え、別当を置いた」ことを記しています。そして「陸奥守殿御領内の壺の碑の石碑は古今かくれなき碑であるが、近来破損しているということを伝え聞いている。御領内のことを外からとやかく言うのは失礼だと思うけれども、なにとぞ修復を加え、碑の上に碑亭を建て、末永く伝えていくよう願っている」と綱村に対し、保存措置を講じるよう要請したのであります。仙台藩はこれを受けて保存措置に乗り出しました。
 可澄の旅の目的の一つは、この多賀城碑がどうなっているかの確認調査でもあったのです。
 可澄(一六五七〜一七三一)は、十八歳の時、光圀に仕えて彰考館に入館。佐々介三郎宗淳(むねきよ)に随伴して九州、中国、北陸地方等に史料探訪を行っています。また花押(書き判)や神道の研究にも大きな功績を残しています。耳□羅病という苦境の中で在職五十七年間『大日本史』編纂事業の土台を支え、光圀に仕えた人であります。水戸黄門漫遊記で助さんおモデルの佐々介三郎宗淳、格さんのモデル安積寛兵衛らとともに、『大日本史』編纂にあたった十数名の館員の一人でした。
 元禄四年四月二日水戸を出発した可澄は、太田、棚倉、白川、須賀川、郡山、二本松、福島、国見を越え、八日に白石に入りました。九日には大河原、舟迫、岩沼、名取、長町を経て、十日仙台に入り、宮城野、壺碑、野田玉川を見てそれらを記録にとどめました。
 壺の碑について碑の大きさ、石の状態、字の大きさ、先に綱村から送られた写しとの確認もしました。また、文字も苔むしたところがあり書写がなかなか難しく写しかねたところは石摺りにして光圀の基に送った旨などが記されています。
 そのあと塩竈を訪れ、十一日に松島を見、大松沢、三本木、古川、高清水、有壁、平泉、水沢、相去、花巻、盛岡と廻り、六月九日水戸に戻りました。
 助さんのモデルになった佐々介三郎宗淳が訪れたのはその数年後です。宗淳らは、光圀の意を受け、全国各地を廻ったのです。宗淳は史料探訪、修史総裁、湊川建碑、那須国造碑修復などに、遺憾なく手腕を発揮しよく光圀の期待にこたえました。
 そのほかにも芭蕉三回忌を期して「奥の細道」追慕旅をした蕉門の俳人天野桃隣は著『陸奥鵆(むつちどり)』のなかで、碑にふれ「壺の碑、多賀城鎮守府将軍古館也。神亀より元禄まで千歳に近し。(略)此所より八幡へ一里余、細道を分け入り、八幡村百姓の裏に沖の井あり。三間四方の岩、廻りは池なり。処の者は沖の石という。これより末の松山、むこうに海原見ゆ。千引の石此辺といえども、所の者かつて知らず」と記しています。また奥羽の戦国争乱を奥羽全域にわたって通観した唯一の戦記物語である『奥羽永慶軍記』等も、碑について「壺の碑をみるに千年を経るといえども文字ありありとしている」と記し碑文を紹介しています。
 それから三百年の悠久の時を経過しました。時には、心静かな気持ちで碑の前に佇み、往事をしのぶのもいかがなものでしょうか。
   みちのくの奥ゆかしくぞ思ふゆる
         壺のいしぶみ外の浜風  西 行
 
多賀城をめぐる人々(5) 
   
          藤原恵美朝臣朝獦
     
                       東北歴史博物館 館長 工藤 雅樹

 藤原恵美朝臣朝獦は「ふじわらのえみのあそんあさかり」と読む。多賀城碑の文面には、天平宝字六年に多賀城が修造されたことが記されているが、朝獦はこの時に多賀城の修造を推し進めた人物である。
「獦」という文字は、普通の漢和辞典にはないが、「狩」と同じ文字である。それにしても、藤原恵美朝臣とは大変に珍しい姓であるが、そのことを説明するためには、彼の父の藤原仲麻呂のことから説き起こさなければならない。藤原仲麻呂は大化の改新の功臣、藤原鎌足(かまたり)の曾孫、藤原不比等(ふひと)の孫である。仲麻呂の父は藤原武智麻呂(むちまろ)、有名な光明皇后は仲麻呂の叔母にあたる。
藤原氏は鎌足(かまたり)、不比等(ふひと)の後、不比等の四人の男子がそれぞれ高位高官にのぼり、藤原氏の権勢はゆるぎのないもののように見えたのであるが、全国を襲った疫病のため七三七(天平九)年には藤原氏の四卿が相次いで没するという、藤原氏の歴史にとっては最大の危機をむかえたのである。政権は藤原氏を離れて、橘諸兄(たちばなのもろえ)に帰し、これに不満をいだいた藤原氏一門の広嗣(ひろつぐ)が大宰府において反乱を企てて討たれるということまであったのである。
 このような時に藤原氏を救ったのが光明皇后である。七四九(天平感宝元)年、病弱だった聖武(しょうむ)天皇は譲位し、聖武天皇と光明皇后を両親とする阿倍(あべ)内親王が即位して孝謙(こうけん)天皇となったが、政治の実権は光明皇太后(聖武天皇譲位により皇太后)が把握しており、藤原仲麻呂は光明皇太后の執政機関として設けられた紫微中台(しびちゅうだい)の長官に任じたのである。
 仲麻呂の権勢に対しては橘諸兄(たちばなのもろえ)の子、奈良麻呂が大伴氏や佐伯氏の有力人物とともにクーデターの機をうかがっており、七五七(天平宝字元)年にはついに橘奈良麻呂の変と呼ばれる事件が勃発している。この事件では、陸奥鎮守将軍兼按察使(あぜち)に任じられた大伴古麻呂(おおとものこまろ)が赴任の途中美濃国(岐阜県)不破関(ふわのせき)で病と称して逗留し、関を占拠することなどが計画されていた。また事件の発覚に先立っては、反仲麻呂派の佐伯全成(さえきのまたなり)は陸奥守(むつのかみ)に任命され都から遠ざけられていた。
 仲麻呂の三男、藤原朝獦は事件直後に佐伯全成に代わる陸奥守に任命されて任地に下り、ここでみずから反仲麻呂派の佐伯全成の勘問(おそらく拷問)を行ない、全成はついに一〇年以上も前からの反仲麻呂派の動きをすべて自白した後、自経したという。多賀城ではこのようなことも行なわれたのである。
 橘奈良麻呂の変を強攻策でおさえた仲麻呂は、七五八(天平宝字二)年には右大臣(この頃は仲麻呂の好みにより、官名も中国風に改められていたので正式には太保【たいほ】といった。七六〇年には太政大臣(太師【たいし】)に昇進)となり、勅命によって藤原の姓に恵美(えみ)を加え、名も押勝(おしかつ)となった。こうして藤原朝臣仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝(ふじわらのえみのあそんおしかつ)となった。仲麻呂(押勝)の息である朝獦は、これ以後、藤原恵美朝臣朝獦と名乗ることになる。
 朝獦はその後しばらく東北地方支配の最高責任者として多賀城の修造、桃生城と雄勝城の造営、秋田城の改修などさまざまな面で手腕をふるうことになる。しかし都では、朝獦の父の恵美押勝の権勢にかげりが見え始め、七六四(天平宝字八)年には反乱に追い込まれ、ついにはわずかに妻子数人と共に琵琶湖畔の船上で捕らえられ、首を刎ねられた。この時、朝獦も父や兄弟たちと運命を共にしたのであった。

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