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文化財を活かしたまちづくりについて(後篇)
多賀城市教育委員会文化財課 高倉敏明
四 遺跡と都市計画 |共生の思想|
(一) 現状保存から整備活用へ
従来、史跡等の管理事業は管理団体である市町村が土地の公有化を行い、「現状保存」を前提とした管理を行ってきた。しかし、当市では指定地域の拡大、周辺地域の社会的環境の変化等の状況から特別史跡の積極的な整備活用策の必要性が生じてきたため、昭和六十年度から三ヵ年計画で特別史跡の将来像を明らかにし、発掘調査・研究、整備、公有化、管理事業の諸事業がスムーズに行われるよう総合的な事業計画の方針と、それを推進するための関連整備計画との調整に係わる方針を定めた「特別史跡多賀城跡附寺跡第二次保存管理計画書」を作成した。
(二) まちづくり計画への提言
|管理活用計画書の策定|
史跡等文化財の保存整備事業は、平成時代とともに大きな転機を迎えた。その最大の要因は、立体復元事業の実施である。それと期を同じくして当市でも平成2年度から多賀城跡の立体復元事業に着手し、この事業が第三次多賀城市総合計画の将来都市像実現のための重点プロジェクトの一つに位置づけられたのである。
そして、復元工事の実施設計書を作成した翌年の平成7年度から多賀城跡の立体復元整備事業を前提として、特別史跡を取り巻く周辺都市整備事業と共同して積極的な管理活用を行うための具体的な方針、都市公園整備事業との一体的な整備、広域的な活用視点、さらに総体的な運営を盛り込んだ「特別史跡多賀城跡建物復元等管理活用計画書」(以下、「管理活用計画書」という)を作成した。
この管理活用計画書は、文化財のみならず「史都多賀城」として多賀城市の位置づけを踏まえた上で、その周辺都市計画事業まで含めた管理活用計画とし、当市のまちづくり計画の一環として盛り込もうとしたものである。したがって、計画策定に当たっては、専門分野の研究者等からなる検討委員会の設置は勿論のこと、庁内の関係部局の職員で構成するワーキング会議を組織して、横断的な連携と調整を図りながら検討を行ったものである。
(三)計画の方針 |共生の思想|
歴史的文化遺産である特別史跡などの文化財は、それを取り巻く社会環境を鑑みると、それ自体「単体」で存在するのではなく、その周りには「環境」があり、人々の「営為」があることがわかる。よって、多賀城市の将来を考ええたとき「文化財」「良好な自然環境」「都市生活」はいづれも欠くことができない重要な要素となる。それぞれが重複して、連携して機能することが望ましい関係と考えられる。
そこで、未来を方向づけるキーコンセプトとしてこの三つの「共生」が有効と考えたのである。
(四)管理活用計画のまちづくりと具体的成果
文化財サイドで提案したこの管理活用計画の対象領域は、特別史跡を中心として北の加瀬沼公園、西の遊水池域、南の中央公園と城南土地区画整理事業地域、そして東の中央公園と多賀城廃寺跡指定地域に及ぶ市の中央北部に当たる広い地域である。しかしながら、計画の概念的には、領域にとらわれず広域的な生態系の環境リングとして、周辺市町村を含んだ人間の社会環境の総合的なネットワークをも目指したまちづくりを提案している。対象領域内の具体的な方針としては、都市環境による段階的な空間を結ぶ軸線として歴史復元の核となる「大路」を位置づけた。さらに、段階的空間を地域ごとに土地利用方針を定め、動線計画、施設計画、管理活用の方針と手法についても提案している。
この管理活用計画で議論し、計画書にまとめられた内容は、その後に作成された緑の基本計画(平成十年)、多賀城市観光基本構想・基本計画(平成十年)多賀城市環境基本計画(平成十三年)等の他部局の計画書にも活かされている。
最後に、管理活用計画書の成果事例を紹介したい。
【城南土地区画整理事業|南北大路の復元と大路に架けられた橋の平面表示】|多賀城の城外に造られた街並み(古代都市多賀城)の痕跡を現代の都市計画に再現する。|
多賀城跡の周辺地域の発掘調査で、多賀城政庁から真南に延びる古代の道路は、正門である南門を貫いて城外に大路が造られていることがわかった。この南北大路と東西大路を基準として一町四方の方格地割が行われた街が造られていた。南北大路の中軸線上に計画されている市の中央公園と民間施行の土地区画整理事業地内に、古代の都市計画の基準となる「南北大路」が復元されることになった。これは、まさに管理活用計画書の中に謳われている『大路による歴史の復元と都市軸の創生』である。
管理活用計画対象地域内には、文化財と都市計画が共存しており、これらの強調、融合を図りながら『共生』していくことが、本市のまちづくりの核となる|
文化財を活かしたまちづくり|へと繋がっていくものと確信するものである。 (おわり)
多賀城の地名
宮城県地名研究会会長 太宰 幸子
地名が伝えていること(一)
多賀城市内の地形は、長い歴史の間にどんどん変化を遂げており、特に近年の住宅化に伴う変化は目を見張るばかりである。たとえば稲荷殿というかつて稲荷社のあった地には、稲荷古墳があったが、すでに住宅の下になっている。しかもそこの住所は決して稲荷某とは地名表記されておらず、高崎○○丁目に変えられている。
このような住居表示や地名の変更は決して多賀城市内だけではないが、特にこうした住宅地化され開発されている地には、地名が知らせている本来の意味はすっかり消されてしまっている。
多賀城の地名の特徴としてあげられるのが、湿地や川・海の入り込んでいたことを語る地名が多いことがある。原谷地・中谷地・東谷地中・西谷地中・上向谷地・一本谷地・仏谷地・戸仮谷地・山王谷地・下谷地際・北谷地などの地名は、かつて湿地や沼などが広がっていたことを語っている。したがって新田開発の際にはいち早く水田に変えられていった。
小深田という地名が高橋地区にあったが、すでに町名変更されてしまっていて現在は消えている。深田そのものは、ふどる(ぬかる)ような湿地や泥田をいい、田植えの際には田下駄を使用した時代もあった。門間田も開発にかかわった人名が頭についているが、やはりひどくぬかる地で、膝上ほどまでぬかり田植えには大変苦労したと語ってくれた方がおられた。沼田という地名は、田がついているが田んぼの意味ではなく、△△のある所といういみで、沼のある場所という。現在沼の姿は埋め立てや干拓などにより消えているが、かつては沼がそこに存在したことを語っている。
その反面これら湿地や自然堤防の周辺は、人間の生活の場としてはとても恵まれていたこともあって、早くから人が住みはじめ、山王地区からは古代の水田跡が見つかっている。 この山王地区には東町浦、西町浦の地名があるが、浦とは水際を示す地名で、加美町中新田地区などでは裏と表記されていたりするが、かつてはそこまで海または川や沼の水が入り込んでいた地だったことを語っている。
また同じように海の入り込んでいたことを語る地名もあり、八幡地区には塩留・塩入・塩窪などの地名がある。
しかしこれら湿田や泥田も現在の排水技術や暗渠設備、農業技術の進化にともないかつての苦労はほとんどが解消され、街化されている所も多くなっている。
(つづく)
多賀城に勤務した兵士が平常時には修理・造作活動を行っていたことを示すものです。また平城京、平安京など都に所在する馬の訓練や競技を行う「馬庭」が地方においても存在することが確認できました。
施設の修理・造営を行う「修理所」が設置されていたことは文献資料でしか知ることができなかったが、今回出土品として初めて確認することができました。また両面には欠損していますが兵士たちの名前が登場します。是非、この機会に全国でも貴重な出土品をご覧ください。
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